第21話 銀蛍と輝星貝
「なんと……! 海じゃない……!」
ニンゲンの青年の姿に変身中の海竜のイルムは、思わずそう叫んでいた。
上に光り輝く虫たちの飛んでいる、静かな水面、それは海ではなかった。
「湖だよ」
空びとの少年、リーフがイルムに教えてあげた。
「きれいだね。銀蛍」
湖の上を飛んでいるのは、銀色の光を放つ「銀蛍」という虫だ、と地びとの旅人のソルが説明する。
「彼らは光で会話しているんですよね」
地びとと空びとの間に生まれた少年のマルテが見つめる先、無数の銀蛍たちがゆったりとしたダンスを踊るように飛んでいた。
銀色の小さな光に彩られた、夜の湖。広がる深い静けさの中、銀の光だけが賑やかだった。
「なにを話しているんだろうか」
イルムは、虫たちの光に耳を澄ませた。
もしかしたら、ごはんの話かもしれない。
イルムは、銀蛍たちのグルメ談義を想像した。おいしそうな話なら、ちょっと教えてほしいとさえ思った。虫のごはんさえ、イルムの食欲の標的になる。
「恋の話だっていうよ」
リーフが言うには、恋の話らしい。なあんだ、とイルムはがっかりし、いや生きものなら普通そうだろうな、とすぐに納得した。
イルムはまだそういう感覚はないが、子孫を残すことは生きものたちにとって本能であり大切な目的だ。
「恋人たちは愛を囁き合い、友だち同士は恋のうわさ話やラブラブの話を話すんだってさ」
そう言ってから、リーフは隣に立つマルテをちょっと肘でつつき、にひひ、と意味深に笑う。マルテには特別なガールフレンドがいる、その点についてひやかしているようだ。照れ隠しなのか、マルテはリーフをちょっと手のひらで押し返し、リーフは負けじと軽くマルテの腕を肘で押した。二人は互いに「やめてよー」とか「やってんなあ」なんて言い合い、笑いながらふざけ合っている。
「エマ、夏休み中、早く君に会いたいだろうなあ」
リーフは、ふう、とひとつため息をついたあと、さっきのふざけた様子ではなく、ちょっと真面目な口調でマルテに言葉をかけていた。
「会う約束は、してなかったよ。エマは、家族と遠い親戚のところへ旅行に行くって言ってたし。だから、僕がいないのも気が付かないと思う」
マルテは、エマと夏休み中の約束は特にしていなかったという。エマが家族旅行から戻る夏休み終盤に入ってから、改めて連絡しようと思っていたそうだ。
「早くネックレスを取り戻して、早く空の国へ戻ろうね」
「うん」
リーフとマルテは、うなずきあった。リーフを見るマルテの目は、かすかに潤んでいるようだった。
「本当にありがとう。リーフ。僕のために」
気が付けば、湖上を飛んでいたはずの銀の光が、皆を包んでいた。
「銀蛍たち、歓迎してくれてるね。たぶん」
ソルが目を細めていた。銀蛍たちの光にも、リーフとマルテの友情にも。
ここは、マルテの故郷であるイスタへ向かう途中の湖だった。南の町でソルが購入したパンや果物、チーズやソーセージを皆で揃って食べたあと――もちろん、ここでもイルムの熱血食レポが入る――、リーフがテントを広げた。夜も更けてきたので、この地で野営するつもりだった。
「四人用ドームテント、まさに四人……! あつらえたように、ぴったり!」
イルム、リーフ、ソル、マルテ。予知していたかのように、ぴったりの人数だった。
リーフが「動物や怪物、あと虫なんかからも護る、護りの呪文」を唱える。
「消せ消せ消せ消せ、こっち見んなー」
「えっ、そんな呪文なの?」
マルテがリーフの呪文にちょっと驚く。ここにきて判明したのだが、呪文というものは同じ効果を狙っていても、文言や手法は様々あるらしい。どうも、リーフはもっとも現代的で簡略化されたものを好んで使用し、マルテは古い伝統的なものや高度で確実性のあるものを好んで使っているらしい。
「えっ、マルテなら、こんなときどんな呪文を使うの?」
、
リーフが尋ねた。
「消て消て消て消て、此方を見給ふな」
マルテがリーフに忖度して寄せてみた結果か、あまり大差なかった。
「なんかわかんないけど……。すごいね」
小さな魔法使いたちに、ソルは素直に感心した様子だった。ただ、呪文の文言は変だったけど、とこれまた素直な感想を付け足した。
「ん」
リーフとマルテとソルが、呪文について話しているとき、イルムは湖のほうを見つめていた。
なにか、気配が――。
イルムを見ている「目」の存在に気付く。しかしリーフとマルテ、そしてソルはまだ気付いていないようだ。気配を隠しているのと、ここから距離があるからかもしれない。
「みんな。ちょっと湖とやら、泳いできてもいいか?」
イルムの提案に、皆驚いた顔をしていたが、
「うん。気を付けてね」
イルムが海竜であること、泳ぎたいのだろうと思ってくれたようで、誰も止めることはなかった。
「先に眠ってくれていい。ひと泳ぎしてから寝る」
イルムは魔法で作ってくれた衣服を脱ぎ、魔法石のネックレスだけを身に着けたまま、夜の湖に入っていく。
銀の光が、揺れている。銀蛍の光が差し込んでいるのだ。
さらに潜ると、ほどなく真っ暗な世界になる。水の小さな生きものたちが、さっ、とよぎる。しかし、ほとんどが眠っているのか、見かける影は少ない。
ああ。やはり。
こちらを見つめる、大きな目が二つ。
長い首、大きな体、背びれとヒレのような大きな手足、長く続く尾――。
湖の、竜だ。しかも、女性だ。
この湖に住む、女性の水竜だった。ニンゲンの見た感じでは、性別までは到底わからないが、海竜であるイルムは一目でこの湖の竜は女性だ、と感じ取っていた。
『ニンゲンの姿をしているが、私は海竜だ』
イルムは自らについて明かした。
『まあ、こんばんは。もしかして、と思って見ていたけど……、やはり、私と似た存在だったのですね。私は水竜です』
会話は可能かもしれない、と話しかけてみたが、やはり話が通じた。水の中、ふたつの竜は会話ができていた。
『挨拶が遅れたな。すまない。こんばんは』
『ふふ、こんばんは』
水竜は、笑って会釈をした。どこか品のある、優雅な物腰だった。
『実は、地竜にも会った。水竜にも会えるとは、驚いた』
『私もまさか、生きてきて海竜さんにお会いできる日が来るとは思いませんでした』
水竜は微笑んだ。暗い水の中でも、わかる。とても柔らかな微笑みだ、と思った。
『海竜さん。少し、一緒に泳ぎませんか?』
『ありがとう。それは嬉しいな。私の名は、イルムという』
『私の名は、アクア』
アクアとイルムは、並んで泳いだ。水竜の大きさとニンゲンの大きさになっているイルムは、大きさこそ全然違っていたが、イルムの泳ぎは速かったので、アクアのスピードに、ゆうについていけた。
『光っているな』
湖の底、一帯が淡く光っている場所があった。
『輝星貝です』
湖の底で発光する、二枚貝だった。
『光る、貝か』
イルムは湖上の銀蛍を思い浮かべる。
『輝星貝。彼らも、銀蛍たちのように光で会話をしているのだろうか』
『光で会話……? まあ、それはとても素敵な説ですね……!』
銀蛍の生態までは知らないアクアは、それはイルムの想像力や感性の豊かさによる表現、と感じたようだ。
『いや。ニンゲンたちによると、銀蛍たちは実際光で会話しているらしい。恋の話なんだそうだ』
『まあ……!』
恋の話、と聞き、アクアは顔を輝かせた。
美しい。
イルムは、思った。アクアは、とても美しい竜だ、と。
『イルムさん。海のお話を、聞かせてくださらない? こことは、だいぶ違うのですか?』
イルムは語った。海の生きものたちの話、荒々しい波の話、湖とは異なる海水の感覚、浮かぶ島――、アクアは瞳を輝かせ、もっと聞きたい、と声を弾ませていたので、話は尽きそうになかった。
それから、また並んで泳いだ。湖のあちこちを、案内してもらった。
『私の案内は、ここまで。ここからは、縄張りがあるから』
アクアの縄張りの境界だった。この大きな湖には、ほかにも何頭か水竜がいるらしかった。
そうか。仲間たちが――、時期が来れば未来の伴侶となるものが、この先にいるのだろうな。
『ありがとう。アクア。楽しかった。とても』
『ありがとう。イルムさん。あの――、またいつか、海のお話を、聞かせてくださる……?』
アクアは尋ねた。期待に満ちた、眼差し。
輝星貝も、銀蛍も、遠いところにあった。
『いや……。たぶん……』
たぶん。そこで言葉が止まる。思い浮かぶのは、星のような貝たちの光、月のしずくのような蛍たちの光――。
彼らの会話は、光の会話は、遠い。海の水と、湖の水は、きっと交わらない。
『さようなら』
イルムが言った。
『さようなら』
アクアが応えた。
『どうか、お元気で』
『イルムさん――』
『さようなら』
もう一度、告げた。泳ぐ。振り向かずに。
輝星貝の輝きの上を、通り過ぎる。
イルムは、ただひたすらに泳いだ。
湖上に、顔を出す。
ああ。きれいだ。
降り注ぐような、銀色。虫たちの恋物語は、一晩中続くのだろう。
『イルムさん――』
イルムさん。私の名を呼ぶ、その先の言葉には、なにがあったのだろうか。
ダンスを踊る銀色の向こうに、月があった。
イルムは、月を見上げる。
この晩のことは、忘れない。きっと、いつまでも――。
月を見るたび、思い出すのだろう、と思った。
夜風が、銀の髪に冷たさを思い出させる。アクア、一言だけ、美しい響きを唇に乗せた。
皆の寝静まるテントへ、イルムは振り返らず歩く。




