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第2話 海の青から空の青

 風。なんて心地よいのだろう。

 

 海竜のイルムは今、空を跳んでいた。陽の光を浴び青々と輝く背に、「空びと」と呼ばれる天に住む「ニンゲン」の少年、リーフを乗せて。

 イルムは、青い竜だった。大蛇のような長い体に手足がついており、背から腹にかけ深い青から空色へと美しく全身を彩る鱗、そして光沢のある銀色のたてがみがある。

 海中から勢いよく跳び上がり、海の瞬間と空の瞬間を心に深く刻むようにして、はるか陸地を目指す。魔法を使える空びとのリーフは、そんなイルムの荒々しい動きも平気のようだった。

 別に、海を泳いで陸を目指しても問題なかった。むしろ、そちらのほうが速いし楽なはずだ。

 しかし、イルムはただ、そうしたいからそうしていたのだ。二十年の間、海底の檻に封じ込められていたから。

 ただ、海の波を、陽の光を、吹く風を感じたかったから。

 イルムの巨体が空中から下降し、海面とぶつかり合って大きな音を出し白い波を作る前、リールがイルムに声を掛けた。


「イルム。地びとの船が遠くにいるみたい。この辺りから、潜って進んでもらえる?」


 リーフが、地びとの動きを感じたようだ。遠洋を目指そうとしている船を、不思議な力でいち早く見つけたようだ。


「きっと色々、面倒なことが起きちゃうから、やつらに見つからないほうがいいと思うんだ」


 遠くからでも海竜の姿を見つけられてしまっては、パニックになった地びとたちに攻撃されかねない。


「む。わかった」


 イルムはうなずき、海に体を潜らせた。リーフの提案にすぐさま従った形だ。

 リーフを乗せ、わざわざ地上へと向かうイルム。

 深海で、イルムとリーフは「契約」を交わしていたのだ。




 光の届かない海の底、イルムの前にリーフが現れたとき。


「イルム。君をここから出してあげる。だからその代わりに、僕の願い、聞いてくれる?」


 見えない魔法の檻の中、閉じ込められているイルムに、リーフは尋ねていた。


「異なる生きもの同士、約束とは、すなわち契約だ。詳しい内容を知らないうちには、心を動かすことはない」


 狭い檻の中、自由に体を動かすことができなくても、自由を目の前にぶら下げられて、ただ無条件に飛びつくわけがない、と誇り高きイルムは告げた。

 誇り高き。

 そう、誇りだった。青い竜の名にかけて。

 罠かもしれない、危険かもしれない、と踏みとどまっているのではなく、イルムは自らの心の基準で納得できなければ承諾できないと思う。

 また同時に、リーフという少年の心根を推し量ってもいた。


 受け答え次第では、食う。


 もちろん、封じられている状態のイルムは手も足も出せない。しかし、そういう意図を感じさせる、射るような眼差しでリーフを見据えていた。

 内心どうなのかわからないが、リーフは怖がる様子を一切見せなかった。


「あのね、僕の願い……、地上に降りた僕の親友のマルテを、一緒に探してほしいんだ」


「地上?」


 イルムは思わず訊き返してしまった。なぜ、地上にいるらしい親友を探そうとしているのに、海竜である自分に頼もうとしているのか。

 そんなイルムの疑問を察したのか、リーフは理由を打ち明ける。


「魔法の力があったって、広い地上を探すなんて、僕ひとりの力じゃ無理だよ。僕の味方がいると思うんだ。絶対に」


「私は海竜。地上には行けないのだが……?」


「イルムは変身できないの?」


 怪物の中には、人や動物、物など、自在に姿を変えられるものがいる。


「ああ。必要がないからな」


「大丈夫だよ。僕にはとっておきの魔法があるんだ。だから、お願い……!」


 リーフは、イルムをニンゲンの姿に変え、一緒に親友探しの旅に出てほしい、と熱く訴えた。


「どうして私のことを――」

 

 そもそも、自分の存在をなぜ知っているのか。地上でも空でも海でも、ちょっと探せば他にも怪物ならあちこちいそうなのに、とイルムは思う。むしろ、空びとの暮らしとは程遠いこんな場所に封じられている自分を、どうやって見つけたのか、と疑問だった。


 まあ封じられているということで、解放するという交換条件で交渉しやすいからだろうが。でもどうして私を知ったのだ。


 リーフはしばらくイルムの瞳を見つめてから、意を決したように告白した。


「君をここに封じたのは、実は僕のお父さんなんだ」


 なんだって、思わずイルムは長い尾を動かしつつ叫んでいた。大きな泡、小さな泡がいくつも昇った。


 そうか、だからあの小僧に似ているのか……!


「ごめんね。怒った?」


 リーフはこわごわとイルムを見上げ、謝っていた。


 なるほど、二十年――。この子どもがあの小僧の息子というわけか――。


 ふう、とイルムはため息を吐いた。


「……お前の父親は、お前ではない。お前に対する怒りはない」


 これは、本心だった。そしてついでにいえば、イルムを封印した張本人であるリーフの父に対しても、単純な怒りはあるが恨みのような根深い感情はなかった。ニンゲンと異なる生きものであるイルムに、「怒りから恨み」という心の移行がないのである。

 イルムの言葉を聞いて、リーフは安心したのか明るい顔になった。


「お父さんは、若いころよく怪物退治をしたって話してた。いろんなところを冒険して、怪物を倒していたんだって。君以外の怪物は、みんなその場で倒しちゃったらしい。お父さんが、強くなっていったから。だから、僕が頼めるのは君だけだったんだ。それに――」


「それに?」


「お父さんから君の話を聞いてから、ずっと解放してあげたいとも思ってた。だって、君は悪い怪物じゃないんでしょ?」


 イルムは、じっとリーフを見下ろす。


「……よい悪いの定義はなんだ」


 イルムの問いは、リーフにとって思いがけないものだったようだ。言葉に詰まり、大きな目をさらに大きくしていた。


「ええと……。悪い怪物は、暴れて、いっぱい、ニンゲンを食べちゃう、とか?」


「暴れていっぱい怪物退治しているお前の父親は、悪いニンゲンではないのか?」


 意地悪な質問だったかもしれない、とイルムは自分で思った。イルムにとって「善悪」などというものは意味をなさず、関心もなかった。が、一言言わずにはおれなかった。ニンゲンが、そういうものを自分の行動の理由付けにするということを、知っていたから。


「……悪い、かもしれない」


 リーフは唇をかみしめ、うつむいた。自分の父の非を口にするのは、悔しく辛いに違いなかった。


「悪かろうがよかろうが、私にとってはどうでもいい。他の怪物とやらも、私には関係ないしな。自分の自由を奪ったお前の父に対し怒りを覚えるが、ただそれだけのこと。それに、よい悪いは自分の立場から判断するもの。お前がよいと思えるのなら、父親は『よい』のだ」


「よいお父さんって、言ってくれるの……?」


 リーフは顔を上げた。


「海竜である私には、わからん。ニンゲンのルールだろう。ただ、お前がそう信じたいなら信じてみろ。私もお前も、自分の感覚で世界を見ることしかできないのだから」


「う、うん……? 僕、信じるよっ」


 リーフはイルムの言っていることがよくわからなかったようで、いったん首を傾げてから、元気よくうなずいた。


「……それで、お前の親友とは、いったいどんなやつなんだ?」


「あのね……!」


 イルムの問いに、リーフは瞳を輝かせ、頬を紅潮させていた。


「とっても優しいんだ……! 花や動物が大好きで、風の唄を歌うし……、あっ、あと駆けっこが得意なんだ! 広い草原をどこまでも駆けていって、僕はやっとついていくんだけど……。それでね、駆けっこのあとは、一緒に草や土の上で寝転んで笑うんだ」


 イルムは、目を丸くした。「どんなやつ」とは、身長や顔立ちなど探すうえでの特徴を訊きたかったのだが、リーフの答えは違っていた。

 リーフの青い瞳はまるで、親友と駆けた、どこまでも広がる草原を見ているようだった。


 大地……、花、草原……。


 イルムは、遠くからしか大地を見たことがない。そして、そんな親友と呼べる存在も――。


「リーフ」


 イルムは、リーフの名を改めて呼んだ。


「う、うん」


「お前は、親友を助けたいといったな。そいつは、お前にとってとても大切な存在なのだな」


 リーフは、澄んだ瞳でイルムを見上げている。


「うん――!」


「わかった。契約しよう。リーフ、お前の親友を助けるため、私の力を使え」


「イルム……!」


 ぱあっ、とリーフの顔に喜びが広がった。


「私を、解放しろ」


 暗い海の底、光が走った。青の竜が、昇っていく。

 小さな魚の群れたちが、慌てて逃げて行った。

 

 助けよう。この小さき存在の友を。そして――。


 イルムの胸に、あたたかな日差しのようなぬくもりが灯る。


 草や大地……。歩くとは、いったいどんな感じなのだろう……?


 期待と喜びに震える自分を、戸惑いながらも受け入れていた。

 揺れるきらめきが見える。もうすぐ、海の青から空の青へ。


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