第1話 「空びと」と、「地びと」
天に住む「空びと」と呼ばれる者たち、地に住む「地びと」と呼ばれる者たち、二つの種類のニンゲンが住む世界、そのとある海の底。
封じられた海竜がいた。
「ここに封じられ、早二十年か……」
海竜のイルムは、けだるげに呟いた。
海底山脈の深い谷間、魔法によって作られた見えない檻の中、イルムは閉じ込められていた。
空びとの小僧め。
イルムは、あの日のことを昨日のことのように覚えている。
嵐の海だった。地びとの船が、荒波に翻弄されていた。イルムは海面に顔を出し、今にも海に投げ出されようとする地びとたちを、ひとのみにしようと口を開けた。
ちなみに、ニンゲンは、イルムの主食というわけではない。自分から積極的に船を襲うわけではなく、こういったチャンスがあれば逃さない、といった具合だった。
「あっ。海の怪物だ……! 地びとの船を襲おうとしているな。よおし、腕試しだっ」
少年が大声を上げ、ひときわ大きな波の上に立っていた。いつの間にか空から降りてきた、空びとだ。
少年は、金色の柔らかな髪を風に踊るままにし、暴風の中でも目を細めず、大きな青い瞳をいっそう輝かせていた。
腕試し……? 地びとたちを救う、そういう目的ではないのか?
少し不思議に思った。イルムは人語を解するわけではなかったが、空びとの言葉は、種を超えて届くようだった。腕試しという少年の言葉に引っかかりを覚えていたのだ。
空びとと地びとは、同じような姿格好をしている。違いといえば、空びとが魔法というものを使えるということ、地びとは地上に繁栄し続けているが、空びとは数が非常に少ないということ、空びとは成年に達したあとの変化が著しく遅く長生きであるということ、その三点だった。そして、基本的にその二つのニンゲンたちは、互いに距離を置いている。稀に、恋に落ちた者同士の間に子が生まれることがあるが、両者の血を引く子どもは、空びとと地びと、どちらのニンゲンからも忌み嫌われる存在とされていた。
そんなニンゲンたちの詳しい事情を、海竜のイルムは知る由もない。同類だから彼らは仲間同士なのでは、と思っていた。
そうか。腕試しと称して、船を持ち上げる気なのか。
いまにも難破しそうな船を、魔法の力というもので海から空へと引き上げようとしているのだと思った。空の上から見て、この状況が「腕試し」に使えると思ったのだろうが、それは結果的に人助けになる。そういったことで、ますます挑む価値があると判断して、空びとの少年はやってきたのだろうと理解した。
が。
「忌まわしき海の怪物よ、海の底へ沈め……!」
少年が叫んだのは、どう考えても自分に対する呪文だった。
イルムが、あっ、と思う暇もなかった。全身が光に包まれたと同時に、強い力で押さえ込まれ、そして海の底へとぐんぐんと引っ張られていく。
これが、空びとの魔法……!
船の何倍もある大きな体躯、強い力を持つイルムでも抗えなかった。海底へと引っ張られていく最中、海中に落ちた地びとたちの姿も見えた。
あの小僧、地びとの者どもを助ける気がないのか……!
驚きと、憤り。
それなら、私に食わせろ……!
ガシャン、なにかが閉じる音がした。
イルムは、海底に創られた巨大な魔法の檻に閉じ込められたのだ。
イルムは、知らない。
「あーあ。いっぱい落っこちちゃって。しょーがない。拾っておくかあ」
少年はイルムを封印したあと、海に落下した人々を魔法で海から引っ張り上げるようにし、船に乗せた。
「地びとにあまり関わるとよくないっていうからね。よし、あとは帰ろうっかな」
たぶん、落ちたやつ全員もう一度船に乗せたぞ、とそれだけで少年は満足した。
船はそのあとそのまま、沈没するのかもしれない。運よく助かるのかもしれない。しかし少年は興味がなかった。
「怪物をいっぴき、退治したぞー!」
少年は自分の魔法の出来栄えに顔を輝かせ、空の上の父と母が待つ家へと帰っていった。
波間に垣間見える船の運命は、天に任せるしかなかった。
イルムは目を丸くした。
「こんにちは」
海の底、檻の外に少年が立っていた。海の底に平気で立っていられるということは、空びとだ、とイルムは思った。
あの小僧……!
あのときの少年にそっくりだった。
金色の髪、青い瞳、華奢な体つき。でも、さすがのイルムも目の前の少年があのときの少年ではないとわかっていた。
あの小僧より、こいつはあきらかに幼い。
いくら成長の流れが独特な空びとでも、逆行することはない。別人だ。
二十年の間、イルムは他の生物と接触する機会がほとんどなかった。封印されているこの状態は、腹も減らず、食べる必要もないようだった。ただ、透明な檻の中、通り過ぎる魚などをぼんやり眺めて過ごしていた。
私に、話し掛けてくれるのか。
そのとき自分の心に喜びが宿っていること、その事実にイルムは当惑した。
自分の自由を奪ったという、憎いはずの空びとだったが、
この小僧は別の個体。
そう思うと自分の心の動きが許せる気がした。
「ねえねえ。海の怪物さん。あなたをここから出して助けてあげるから、僕に協力して」
「ここから出す……? お前は、まだ幼いようだが。そんなことができるのか?」
「うん。だから、僕に協力するって、約束して。お願い」
少年はイルムに顔を近づけるようにし、瞳を潤ませた。
海中でも、瞳、潤むんだ。
イルムはちょっとどうでもいいことに感心していた。ニンゲンが悲しいときや辛いとき、または感極まったとき、涙を流すということをイルムは知っていた。実は、海竜もそうなのだ。ただし、それが相手にわかるのは、海上に顔を出したときなのだが。
「僕の親友を、助けたいんだ……!」
少年は、わっ、と泣き出した。
「だから、僕に力を貸して――」
約束という契約。その重みをイルムは理解していた。
しかし、ただこうしていても、いたずらに歳月が過ぎるのみ――。
光も差さず、風を感じることもない。風、海面から勢いよく跳びあがったときの、全身に感じるあの心地よい感覚――。
それに。
それに、と思った。
目の前の異種生物。異なる生きもの、食料になりうるものでもあるが――。
それに、こいつは――。
どうしても目が離せなかった。魔法の力のせいか、少年の姿は光を浴びているようにはっきりと見えた。自分よりはるかに小さく、いかにもはかなげな生きもの――。
「お願い、海竜さん……!」
訴える、瞳。まっすぐに。
少年は、見えない透明な壁に手のひらを当てていた。手のひらが、震えている。
イルムは、長い爪を持つ、少年の手のひらの何倍もある「手」を持ち上げた。そして、少年の手のひら辺りに、自分の手のひらを当てる。
透明な壁越しに、小さな手のひらと大き過ぎる手のひらが合わさる――。
「私の名は、イルム。小僧。頼みごと、ましてや契約ごとの際には、先に自分の名を名乗るものだぞ?」
少年の顔が、みるみる花が咲いたように明るくなった。
「僕、僕の名は、リーフ……!」
空びとの少年、リーフは声を弾ませていた。
イルムとリーフの頭上、虹色の細長い魚がひらひらと体をくねらせ横切っていく。深海では、その虹色はわからない。でも――。
「リーフ。まだ私はお前の頼みごとを了承したわけでもないのだが?」
「うんっ! でも、名前を教えてもらって嬉しいよ、イルム……!」
まっくらな海に、一筋のきらめきを残していた。




