かわいくなくて、よかった
第一章 平凡という選択
──かわいく生まれなくて良かった。
駒田真知子は毎朝、洗面所の鏡に映る自分の顔を見るたびに、心の底からそう思う。
二十六歳になった今でも、その思いは変わらない。むしろ、年を重ねるごとに、その確信は深まっていった。
鏡の中の女は、どこにでもいる。本当に、どこにでもいる。街を歩けば、同じような顔立ちの女性とすれ違う。駅のホームで、カフェで、書店で。彼女たちと真知子を見分けられる人間は、おそらくいない。
目は特別大きくもなく、小さくもなく。鼻は高くもなく、低くもなく。唇は厚くもなく、薄くもなく。すべてが「普通」という言葉に収まる。身長は158センチ。体重は──まあ、標準的だ。胸は小さい。スタイルも悪い。くびれなんてものは、真知子の体には存在しない概念だった。
「凡庸」
真知子は小声でつぶやいた。この言葉が、これほど似合う人間も珍しいだろう。
だが、それでいい。
真知子は薄い色のリップクリームを唇に塗る。化粧はする。最低限の身だしなみとして。だが、それは「きれいに見せるため」ではなく、「社会人として失礼のないように」するためだ。
ファンデーション、眉、チーク、リップ。どれも薄く、控えめに。劇的に容姿を変貌させるメイク技術など、真知子は持ち合わせていないし、習得しようとも思わない。
その必要がないから。
真知子にとって、この容姿は武器だった。いや、防具と言うべきか。
恋愛のゴタゴタに巻き込まれることがない。真知子にとって恋愛は──少なくとも他人の恋愛は──面倒くさいだけのイベントだった。高校時代、友人たちが「A君がB子に告白したらしい」「C君とD子が付き合ってるって」と騒いでいるのを、真知子はいつも冷めた目で見ていた。そういう話題に参加を求められても、適当に相槌を打つだけ。真知子には関係のない世界の出来事だった。
男子に言い寄られることがない。だから、誰かの嫉妬の対象になることもない。女子グループの中で、「あの子、○○君と仲良くしてる」などと陰口を叩かれることもない。至って平和な生活を送ることができた。
変質者に狙われることもない。夜道を一人で歩いても、真知子を見る男はいない。痴漢に遭遇することもない。満員電車で、真知子の周りに立つ男たちは、皆スマートフォンか新聞を見ている。真知子という存在は、彼らの視界に入っていない。
もしかわいく生まれていたら。
真知子は時々想像する。
きっと、とっても面倒くさい人生だったんだろうな、と。
知らない男から声をかけられ、断れば「ブスのくせに」と罵られる。SNSに写真を上げれば、知らない人間からコメントがつく。職場では、容姿を理由に特定の仕事を任される、あるいは任されない。女性からは嫉妬され、男性からは値踏みされる。
そんな人生、真知子には耐えられない。
だから、かわいくなくて良かった。
真知子はもう一度、鏡を見た。平凡な顔。どこにでもいる顔。誰の記憶にも残らない顔。
「これでいい。私はこれでいい」
真知子は小さく微笑んだ。その微笑みすら、平凡だった。
オフィスに着くと、真知子は自分のデスクに向かう。経理部。数字と向き合う仕事。真知子に合っている。数字は嘘をつかない。数字は人の容姿を気にしない。
「おはよう、駒田さん」
隣の席の町田が声をかけてきた。
「おはようございます」
真知子は平静を装って答える。心臓が、少しだけ速く打つ。
町田航平。二十八歳。同じ経理部。真知子の隣の席。
そして、真知子が密かに想いを寄せる相手。
町田はさわやかな笑顔で真知子に微笑みかけると、自分のデスクに座った。真知子は横目で町田を見る。整った顔立ち。きちんとセットされた髪。清潔感のあるスーツ姿。
間違っても、自分なんかに振り向いてくれるわけがない。
真知子はそう思った。だから、平静を装って接する。決して自分の気持ちは見せない。「おはようございます」「お疲れ様です」「この書類、確認お願いします」。業務上必要な会話だけ。それ以上でも、それ以下でもない。
真知子はそれで良かった。
良かったのだ。
だが、そんな真知子にも、「かわいく生まれてきたかった」と思った瞬間が、今までに何度かあった。
一度目は、高校一年生の春。
真知子はクラスで友人グループができた。五人組。明るくて、楽しくて、真知子は嬉しかった。初めてできた、本当の友達だと思った。
だが、次第に気づいた。
真知子を除いて、全員かわいい子ばかりだった。
リーダー格の麻衣は、モデルのような長い脚とぱっちりとした二重が特徴。沙織は小動物系のかわいらしい顔立ち。優花は大人っぽい美人。そして瑞希は、ハーフのような整った顔立ち。
その中に、真知子がいた。
最初は気にしなかった。だが、男子生徒たちの視線が、真知子だけを避けて通ることに気づいた時、真知子は理解した。自分は、この中で明らかに浮いている、と。
「真知子って面白いよね」
麻衣が笑いながら言った。
「そうそう、真知子がいると場が和むよね」
沙織も続けた。
いじられキャラ。
真知子はその立場を受け入れた。自分から率先して、笑いを取りに行った。自虐ネタも厭わなかった。「私、こんな失敗しちゃって」「私、本当にダメだよね」。皆が笑ってくれる。それで、この場所にいられるなら。
だが、心の中では思っていた。
これほど惨めな思いをしたことはない、と。
放課後、五人でプリクラを撮りに行った時。できあがった写真を見て、真知子は愕然とした。四人はかわいく写っている。ポーズも決まっている。だが、真知子だけが──真知子だけが、場違いだった。
その夜、真知子は一人で泣いた。
第二章 似合わない舞台
二度目は、大学二年生の初夏。
「真知子、お願い!人数が足りないの!」
親友の翠が、真知子の手を握って懇願してきた。
翠とは大学で知り合った。サークルは違ったが、同じ授業を取っていて、意気投合した。翠は真知子にとって、高校時代の友人グループとは違う、本当の意味での親友だった。真知子の容姿を気にせず、対等に接してくれる。一緒にいて楽しい。心から信頼できる。
その翠が所属していたのが、チアリーディングサークル。
「どうしても、今週末の試合で披露するんだけど、メンバーの一人が怪我しちゃって。真知子、お願い。一回だけでいいから」
「無理だよ、私、チアなんて──」
「大丈夫、大丈夫!振り付けは簡単だから。練習も今からみっちりやるし。ね?お願い!」
翠の瞳が潤んでいた。真知子は断れなかった。
「……わかった。一回だけだよ」
「ありがとう、真知子!大好き!」
翠は真知子を抱きしめた。
真知子は最後まで拒否していた。本当は、もっと必死に抵抗すべきだった。だが、翠の必死の懇願に、真知子は負けてしまった。
練習が始まった。
チアリーディングサークルの部室に入った瞬間、真知子は後悔した。
真知子を除いて、かわいい子ばかりだった。
いや、「かわいい」という言葉では足りない。美人、美少女、スタイル抜群。皆、モデルのような容姿だった。チアリーディングの衣装──ノースリーブのトップスと短いスカート──を着た彼女たちは、まるで雑誌から抜け出してきたようだった。
そして、真知子。
衣装を着た真知子を見て、翠が言葉を詰まらせた。
「……ま、真知子、似合ってるよ」
嘘だ。
真知子にも分かる。鏡を見れば一目瞭然だった。チアリーディングの衣装は、真知子に残酷なほど似合わなかった。露出した腕は細くもなく、太くもなく、ただ貧相だった。短いスカートから伸びる脚は、美脚とは程遠かった。
「チアガールはかわいくなければならない」
誰かがそう言っているような気がした。
試合当日。
真知子は、人生で最も恥ずかしい時間を過ごした。
観客席は満員だった。応援する選手たちのために、チアリーディングサークルのメンバーがパフォーマンスを披露する。音楽が流れ、踊りが始まる。
真知子は、その列の端にいた。
振り付けは覚えた。翠が丁寧に教えてくれたから。だが、問題は振り付けではなかった。
真知子は場違いだった。
他のメンバーが華麗に踊る中、真知子だけが──真知子だけが、浮いていた。あまりの似合わなさに、観客からクスクスと笑う声が聞こえてくる気がした。
「ねえ、あの子、なんであそこにいるの?」
「チアって、もっと選ぶべきじゃない?」
そんな声が、聞こえる気がした。実際には聞こえていないかもしれない。だが、真知子には聞こえた。
恥ずかしくて、顔から火が出るかと思った。
パフォーマンスが終わった後、真知子は翠に言った。
「ごめん、もう無理」
「真知子……ごめんね。無理言って」
翠は申し訳なさそうに謝った。
真知子は首を横に振った。
「ううん。翠のせいじゃない。私が、似合わないだけ」
その夜、真知子はまた泣いた。
かわいく生まれてきたかった。そうすれば、あんな惨めな思いをしなくて済んだのに。
第三章 隣の席の彼
そして三度目。
三度目は、今も続いている。
社会人になって二年目。真知子は町田航平を好きになった。
きっかけは些細なことだった。
真知子が残業で遅くまで残っていた時、町田が声をかけてくれた。
「駒田さん、コーヒー飲む?」
「え、あ、ありがとうございます」
町田が淹れてくれたコーヒーは、少し苦かったけれど、温かかった。
「大変だよね、この時期」
「そうですね。でも、町田さんも遅くまで」
「お互い様だよ」
町田は笑った。その笑顔が、真知子の心に残った。
それから、真知子は町田のことが気になるようになった。隣の席だから、嫌でも目に入る。町田の仕草、町田の声、町田の笑顔。すべてが、真知子の心を揺さぶった。
だが、真知子は知っていた。
間違っても、自分なんかに振り向いてくれるわけがない、と。
町田は、モテる。真知子も何度か目撃した。他部署の女性社員が、町田に話しかけに来る。皆、きれいな人ばかり。化粧もきちんとしていて、おしゃれで、スタイルもいい。
その隣に座る真知子。
比べるまでもなかった。
だから、真知子は平静を装った。決して自分の気持ちは見せない。町田には、いつも通りに接する。「おはようございます」「お疲れ様です」「この書類、確認お願いします」。
真知子はそれで良かった。
それが、真知子の生き方だった。
何も望まない人生。
波風を立てず、平凡で、平穏でいい。
それが、駒田真知子という人間だった。
真知子は今日も、自分のデスクに向かう。数字と向き合う。誰にも気づかれず、誰の記憶にも残らず。
それでいい。
そう思っていた。
そう思っていたはずだった。
だが──
「駒田さん、ちょっといい?」
町田が声をかけてきた。
真知子は顔を上げる。町田が、いつもとは少し違う表情で、真知子を見ていた。
「はい、なんでしょう」
「あのさ、今度の週末、もし良かったら──」
真知子の心臓が、大きく跳ねた。
第四章 予期せぬ言葉
「あのさ、今度の週末、もし良かったら──」
真知子の心臓が、大きく跳ねた。
時間が止まったような感覚。町田の唇が動くのを、真知子はスローモーションで見ているような気がした。
「──経理部で飲み会やるんだけど、駒田さんも来ない?」
真知子の心臓が、今度は大きく沈んだ。
「あ、はい。もちろん」
真知子は努めて平静な声で答えた。何を期待していたんだろう、私は。馬鹿みたい。
「良かった。実は、駒田さんが来ないって言ったら、俺も行かないつもりだったんだ」
「え?」
「だって、駒田さんがいないと、つまらないじゃん」
町田は屈託なく笑った。
真知子の頭が真っ白になった。どういう意味だろう。社交辞令?それとも──
「あ、いや、その、駒田さんって話しやすいから。一緒にいると落ち着くっていうか」
町田は照れたように頭を掻いた。
「……ありがとうございます」
真知子は何とか言葉を絞り出した。
話しやすい。落ち着く。
それは、恋愛対象として見られていないということだ。真知子は理解した。町田にとって真知子は、「女性」ではなく「同僚」なのだ。それ以上でも、それ以以下でもない。
それでいい。そう、それでいいのだ。
真知子は自分に言い聞かせた。
週末の飲み会。
真知子は、いつもの地味な服装で参加した。ベージュのブラウスに黒のパンツ。化粧もいつも通り、最低限。
居酒屋に着くと、すでに何人かの同僚が集まっていた。
「駒田さん、こっちこっち!」
町田が手を振っている。その隣には、総務部の女性社員、桜井さんが座っていた。
桜井さんは、社内でも評判の美人だった。長い黒髪、大きな瞳、整った顔立ち。スタイルも抜群。真知子とは正反対の存在。
「こんばんは」
真知子は小さく会釈して、町田の反対側の席に座った。
飲み会が始まる。
真知子は、いつものように控えめに参加した。話を聞く側に回り、適度に相槌を打ち、笑顔を作る。目立たないように、でも場を白けさせないように。
「駒田さんって、お酒強いの?」
若手の男性社員、佐藤くんが話しかけてきた。
「いえ、そんなに」
「じゃあ、カシスオレンジとかでいい?」
「はい、ありがとうございます」
真知子は佐藤くんに感謝した。こういう気遣いができる人は、ありがたい。
その時、真知子は町田と桜井さんの会話が耳に入った。
「町田さんって、休日は何してるんですか?」
桜井さんの甘い声。
「俺?ジムに行ったり、映画見たり、かな」
「映画!私も好きなんです。今度一緒に行きませんか?」
桜井さんの誘い。
真知子は、グラスを握る手に力が入った。
「あ、いいですね。じゃあ、今度皆で行きます?」
「え、皆で……?」
桜井さんの声が、わずかに落胆の色を帯びた。
「駒田さんも映画好きでしょ?」
町田が真知子に話を振ってきた。
「え?あ、はい、まあ……」
真知子は戸惑った。なぜ、ここで自分の名前が出るのか。
「駒田さん、この前『あの映画面白かった』って言ってたじゃん。何だっけ、ほら──」
「あ、『星降る夜に』ですか?」
「そうそう、それ!俺も見たんだけど、良かったよね」
町田は嬉しそうに言った。
真知子は驚いた。あれは、ただの雑談だった。休憩時間に、町田が「週末何してた?」と聞いてきたから、「映画見ました」と答えただけ。まさか、町田が覚えていたなんて。
「駒田さん、映画の趣味いいよね。今度おすすめ教えてよ」
「は、はい……」
真知子は頬が熱くなるのを感じた。
桜井さんは、少し不機嫌そうな顔をして、自分のグラスを傾けた。
飲み会は深夜まで続いた。
真知子は、途中で帰ろうと思ったが、町田が「もう少しいなよ」と引き止めた。真知子は断れなかった。
二次会。カラオケ。
真知子は歌が得意ではない。だが、皆が「駒田さんも歌ってよ」と言うので、渋々マイクを握った。
真知子が選んだのは、誰もが知っているポップソング。音程を外さないように、丁寧に歌う。
歌い終わると、拍手が起こった。
「駒田さん、上手い!」
「声、きれいだね」
同僚たちが褒めてくれる。お世辞だろう、と真知子は思った。
だが、町田が言った。
「駒田さんの歌声、初めて聞いた。いいね、優しい声」
真知子は、また頬が熱くなった。
カラオケが終わり、解散の時刻になった。
「じゃあ、気をつけて帰ってね」
皆がそれぞれの方向に散っていく。
真知子は駅に向かって歩き始めた。
「駒田さん」
背後から声がした。振り返ると、町田が立っていた。
「町田さん?まだ何か……」
「駅、同じ方向だから。一緒に帰ろう」
「あ、はい」
真知子は動揺した。二人きり。夜道を、二人きりで歩く。
沈黙が続いた。真知子は何を話せばいいのか分からなかった。
「今日、楽しかったね」
町田が沈黙を破った。
「はい。皆さん、いい方ばかりで」
「駒田さんがいてくれて良かった」
「え?」
「駒田さんがいると、場が和むっていうか。安心するんだよね」
また、その言葉。真知子の胸が痛んだ。
「……それって、私が地味だからですか?」
真知子は、思わず口にしていた。言うつもりはなかった。だが、言葉が勝手に溢れ出た。
「え?」
町田が驚いた顔をした。
「地味で、目立たなくて、だから安心するんですよね。私、分かってます。私は華やかな人じゃないし、かわいくもないし──」
「駒田さん」
町田が真知子の言葉を遮った。
「何言ってるの?」
「え……?」
「地味?駒田さんが?」
町田は信じられないという顔をした。
「俺、駒田さんのこと、地味だなんて思ったことないよ」
「でも──」
「確かに、駒田さんは派手じゃない。でも、それがいいんじゃん」
町田は真剣な顔で真知子を見た。
「駒田さんは、優しいし、気が利くし、仕事もできる。話してて楽しいし、一緒にいて落ち着く。それって、すごいことだと思うけど」
真知子は言葉を失った。
「俺ね、実は駒田さんのこと──」
町田が何かを言いかけた、その時。
「町田く〜ん!」
甲高い声が響いた。振り返ると、桜井さんが走ってきた。
「あ、桜井さん」
「良かった、まだいた。あのね、町田くん、これ」
桜井さんは息を切らしながら、町田に何かを渡した。小さな紙切れ。
「私の連絡先。映画、二人で行きませんか?皆でじゃなくて」
桜井さんは、真知子をちらりと見た。その視線には、明確な敵意が含まれていた。
町田は困ったような顔をした。
「あ、えっと……」
「じゃあ、連絡待ってます!」
桜井さんはそう言うと、タクシーを拾って去っていった。
真知子と町田は、再び二人きりになった。
沈黙。
「……駒田さん」
「私、もう帰ります」
真知子は町田の言葉を遮って、早足で駅に向かった。
「駒田さん!」
町田が後ろから呼びかけたが、真知子は振り返らなかった。振り返れなかった。
第五章 月曜日の憂鬱
週末が終わり、月曜日がやってきた。
真知子は、いつもより三十分早く家を出た。町田と顔を合わせたくなかった。
金曜日の夜のこと。町田が何を言おうとしていたのか。真知子には分からない。いや、分かりたくない。
どうせ、「駒田さんのこと、いい同僚だと思ってる」とか、そういう類の言葉だったに違いない。そして、その後に桜井さんが現れた。タイミングが良すぎる。いや、悪すぎる。
真知子は、自分が惨めだった。
町田と桜井さん。お似合いだ。美男美女のカップル。真知子のような地味な女が入り込む余地など、どこにもない。
オフィスに着くと、まだ誰もいなかった。真知子は自分のデスクに座り、パソコンを立ち上げた。仕事に集中しよう。余計なことを考えないように。
だが、集中できなかった。
町田の顔が、頭に浮かぶ。町田の声が、耳に残る。
「駒田さんは、優しいし、気が利くし、仕事もできる」
あれは、本心だったのだろうか。それとも、社交辞令?
「俺ね、実は駒田さんのこと──」
その先の言葉は、何だったのだろう。
真知子は頭を振った。考えても無駄だ。どうせ、真知子の勘違いだ。町田は、真知子のことを恋愛対象として見ていない。それは、分かっている。
「おはよう、駒田さん」
声がした。顔を上げると、町田が立っていた。
真知子は心臓が止まりそうになった。早く来たはずなのに。
「お、おはようございます」
真知子は慌てて答えた。
町田は、いつもと変わらない笑顔だった。金曜日の夜のことなど、なかったかのように。
「今日も一日、頑張ろうね」
「は、はい」
町田は自分のデスクに座った。
真知子は、ほっとした。いつも通りだ。何も変わっていない。それでいい。
だが、心の奥底で、小さな失望が渦巻いていた。
昼休み。
真知子は、一人で社員食堂に向かった。いつもは何人かの同僚と一緒に行くのだが、今日は一人でいたい気分だった。
食堂で定食を選び、隅の席に座る。
「駒田さん、隣いい?」
声がした。顔を上げると、翠が立っていた。
翠。大学時代の親友。今は別の会社に勤めているはずだが──。
「翠?なんでここに?」
「あ、実はね、この近くで打ち合わせがあって。真知子の会社、この辺だったよなって思って、連絡しようと思ったら、ちょうど見かけたの」
翠は嬉しそうに笑った。
「そうだったんだ。久しぶり」
「うん、久しぶり!元気してた?」
「まあ、普通に」
真知子は曖昧に答えた。
翠は真知子の顔をじっと見た。
「……真知子、何かあった?」
「え?別に、何も」
「嘘。真知子、顔に出るタイプじゃん。何かあったでしょ」
翠は心配そうな顔をした。
真知子は観念した。翠には嘘をつけない。
「……実は」
真知子は、町田のことを話した。隣の席の同僚を好きになったこと。金曜日の飲み会のこと。町田が何かを言いかけたこと。そして、桜井さんが現れたこと。
翠は黙って聞いていた。
「で、その町田さんとは、今日はどうだったの?」
「いつも通り。何事もなかったみたいに」
「ふーん」
翠は腕を組んだ。
「真知子、それって、もしかしたらチャンスなんじゃない?」
「え?」
「だって、その町田さん、真知子に何か言おうとしてたんでしょ?それって、告白だったかもしれないじゃん」
「まさか。そんなわけない」
真知子は首を横に振った。
「だって、私なんか──」
「また始まった」
翠はため息をついた。
「真知子、いい加減にしなよ。『私なんか』って。真知子は、自分のことを過小評価しすぎ」
「でも、事実でしょ。私は地味だし、かわいくないし──」
「真知子」
翠は真剣な顔で真知子を見た。
「真知子は、確かに派手じゃない。でも、真知子にしかない魅力があるよ。優しくて、思いやりがあって、一緒にいて落ち着く。それって、すごく大事なことじゃん」
「でも──」
「それに、真知子、自分では気づいてないかもしれないけど、笑顔がすごくいいよ。あの、ふわっとした柔らかい笑顔。私、真知子のあの笑顔、大好きだもん」
真知子は、翠の言葉に胸が熱くなった。
「町田さんも、きっと真知子のそういうところに惹かれたんだよ。だから、諦めちゃダメ」
「でも、桜井さんっていう人がいるし……」
「だったら、真知子も頑張んなきゃ。黙ってたら、取られちゃうよ?」
翠はにっこり笑った。
「私には無理だよ。桜井さんみたいに、積極的になれない」
「真知子らしく、でいいんだよ。真知子は、真知子のままでいい」
翠は真知子の手を握った。
「真知子は、かわいくなくて良かったって、いつも言ってたよね。でも、本当は違うんじゃない?本当は、かわいくなりたかったんじゃない?」
真知子は、言葉を失った。
「認めなよ、真知子。自分の気持ちに、正直になりなよ」
翠の言葉が、真知子の心に突き刺さった。
第六章 変わりゆく心
翠と別れた後、真知子は自分のデスクに戻った。
翠の言葉が、頭の中でリピートされる。
「本当は、かわいくなりたかったんじゃない?」
真知子は、自分の心に問いかけた。
本当は?
本当は、どうなんだろう。
真知子は、ずっと「かわいくなくて良かった」と思ってきた。それは、本心だった。面倒くさいことに巻き込まれたくなかった。平穏な人生を送りたかった。
でも。
でも、高校の時。友人グループの中で一人だけ浮いていた時。本当は、皆と同じように、かわいくなりたかったんじゃないか。
大学の時。チアガールの衣装を着て、恥ずかしい思いをした時。本当は、その衣装が似合う自分でありたかったんじゃないか。
そして、今。町田を好きになった時。本当は、町田に振り向いてもらえるような、かわいい女性になりたかったんじゃないか。
真知子は、自分の心の奥底にあった本音に気づいた。
かわいくなりたかった。
ずっと、ずっと、かわいくなりたかった。
でも、それを認めることは、自分の敗北だと思っていた。「かわいくなくて良かった」という鎧を脱ぐことは、無防備になることだと思っていた。
だから、本音を隠してきた。
でも、もう隠せない。
真知子は、鞄の中から手鏡を取り出した。鏡に映る自分の顔。平凡な顔。地味な顔。
「……変わりたい」
真知子は、小さく呟いた。
その日の夕方。
真知子は、仕事帰りにドラッグストアに立ち寄った。
化粧品コーナー。
真知子は、普段なら素通りする場所だった。
だが、今日は違った。
陳列された化粧品を見る。ファンデーション、アイシャドウ、マスカラ、リップ。どれも、真知子には縁のないものだった。
「何かお探しですか?」
店員さんが声をかけてきた。
「あ、えっと……」
真知子は戸惑った。何を探しているのか、自分でもよく分からない。
「初めてメイクされる感じですか?」
「い、いえ、一応、最低限のメイクはしてるんですけど……もう少し、ちゃんとしたメイクを覚えたくて」
「なるほど。それでしたら、こちらのアイシャドウパレットがおすすめです。ナチュラルな色味で、初心者の方でも使いやすいですよ」
店員さんは、いくつかの商品を勧めてくれた。
真知子は、その中から一つのアイシャドウパレットと、リップを選んだ。
「ありがとうございます」
真知子は、商品を持ってレジに向かった。
家に帰ると、真知子は早速、買ったばかりの化粧品を試してみた。
アイシャドウを塗る。いつもより濃い。でも、派手すぎない。
リップを塗る。少し明るい色。でも、真知子の顔に馴染んでいる。
鏡を見る。
いつもと、少し違う自分がいた。
劇的に変わったわけではない。でも、確かに変わった。
「……悪くない」
真知子は、小さく微笑んだ。
翌日。
真知子は、昨日買った化粧品でメイクをして、出社した。
いつもより少し濃いメイク。いつもより少し明るいリップ。
オフィスに着くと、何人かの同僚が真知子を見て、驚いた顔をした。
「駒田さん、今日、なんか雰囲気違いますね」
「え?そ、そうですか?」
「うん、なんか、きれいになった感じ」
真知子は、頬が熱くなった。
自分のデスクに座ると、町田が声をかけてきた。
「おはよう、駒田さん」
「おはようございます」
町田は、真知子の顔をじっと見た。
「……駒田さん、今日、メイク変えた?」
「え、あ、はい。少しだけ」
「似合ってる」
町田はさらりと言った。
真知子の心臓が、大きく跳ねた。
「あ、ありがとうございます」
真知子は、俯いた。顔が真っ赤になっているのが、自分でも分かった。
町田は、何か言いたそうな顔をしたが、結局何も言わずに自分の仕事に戻った。
真知子は、胸がどきどきして、仕事に集中できなかった。
第七章 桜井さんの影
昼休み。
真知子が社員食堂に向かおうとすると、桜井さんが声をかけてきた。
「駒田さん」
「桜井さん。どうされました?」
「ちょっと、お話いいですか?」
桜井さんの表情は、笑顔だったが、目は笑っていなかった。
「は、はい」
真知子は、嫌な予感がした。
二人は、オフィスの片隅の会議室に入った。
桜井さんは、ドアを閉めると、真知子を見た。
「単刀直入に言います。町田さんのこと、好きなんですか?」
真知子は、息が止まった。
「え……?」
「金曜日の夜、見ました。駒田さんと町田さん、二人で駅に向かってましたよね」
桜井さんの声は、冷たかった。
「あ、あれは、たまたま同じ方向だっただけで──」
「……嘘!」
桜井さんは、真知子の言葉を遮った。
「駒田さん、町田さんのこと、好きなんでしょ?隣の席だし、毎日顔合わせてるし。そりゃ、好きになっちゃいますよね」
桜井さんは、嘲笑するように言った。
真知子は、何も言えなかった。
「でもね、駒田さん。身の程を知った方がいいと思います」
「……身の程?」
「だって、町田さんと駒田さんじゃ、釣り合わないでしょ?町田さん、あんなにかっこいいのに。駒田さんは……まあ、悪い人じゃないと思いますけど」
桜井さんの言葉が、真知子の心に突き刺さった。
「私、町田さんに本気なんです。だから、邪魔しないでください」
桜井さんは、そう言って会議室を出ていった。
真知子は、その場に立ち尽くした。
身の程。
釣り合わない。
その言葉が、頭の中でリピートされる。
真知子は、自分が惨めだった。
桜井さんの言う通りだ。真知子と町田は、釣り合わない。町田は、真知子なんかより、桜井さんのような美人の方がお似合いだ。
真知子は、会議室を出て、トイレに駆け込んだ。
個室に入り、ドアを閉める。
涙が溢れてきた。
なんで、こんなに苦しいんだろう。
なんで、町田を好きになってしまったんだろう。
平凡で、平穏な人生を送るはずだったのに。
何も望まないはずだったのに。
真知子は、静かに泣いた。
第八章 崩れゆく平穏
真知子は、その日の午後、ほとんど仕事に集中できなかった。
桜井さんの言葉が、頭から離れない。
「身の程を知った方がいい」
その言葉は、真知子がずっと自分に言い聞かせてきた言葉でもあった。自分の容姿、自分の立場、自分の価値。それらを弁えて、分相応に生きる。それが、真知子の生き方だった。
でも、翠は言った。
「諦めちゃダメ」
真知子は、どうすればいいのか分からなかった。
「駒田さん、大丈夫?」
町田の声がした。
真知子は、はっとして顔を上げた。
「え?あ、はい、大丈夫です」
「さっきから、ずっとぼーっとしてるけど。体調悪い?」
町田は心配そうに真知子を見た。
「いえ、ちょっと考え事をしてただけで……」
「そっか。無理しないでね」
町田は優しく微笑んだ。
その笑顔が、真知子の胸を締め付けた。
この人を好きになってしまった。
どうしようもなく、好きになってしまった。
仕事が終わり、真知子は帰り支度をしていた。
「駒田さん、今日、少し時間ある?」
町田が声をかけてきた。
真知子の心臓が、大きく跳ねた。
「え? あ、はい、大丈夫ですけど……」
「ちょっと、話したいことがあって」
町田の表情は、いつもより真剣だった。
「わ、分かりました」
真知子は、緊張で声が震えた。
二人は、オフィスの近くのカフェに入った。
窓際の席に座る。町田がコーヒーを、真知子がカフェラテを注文した。
沈黙が流れる。
町田は、何か言いたそうに口を開きかけては、閉じることを繰り返していた。
「あの……町田さん、話って?」
真知子が先に口を開いた。
町田は、深く息を吸った。
「駒田さん。俺、金曜日の夜に言いかけたこと、あったじゃん」
真知子の心臓が、激しく鼓動した。
「はい……」
「あの時、言おうとしたのは──」
その時、町田のスマートフォンが鳴った。
町田は、画面を見て、少し困った顔をした。
「ごめん、ちょっと出ていい?」
「はい、どうぞ」
町田は席を立ち、カフェの外に出た。
真知子は、一人残された。
窓越しに、町田の姿が見える。電話をしている。誰との電話だろう。
数分後、町田が戻ってきた。
「ごめん。ちょっと急な用事ができちゃって」
「そうなんですか……」
「また、改めて話していい?今度こそ、ちゃんと」
町田は、真知子を真っ直ぐ見た。
「はい」
真知子は頷いた。
町田は、安堵したような顔をして、微笑んだ。
「じゃあ、また明日」
「はい。お疲れ様です」
町田はカフェを出ていった。
真知子は、一人残され、カフェラテを飲んだ。
温かいミルクの甘さが、口の中に広がる。でも、真知子の心は、落ち着かなかった。
町田は、何を言おうとしていたんだろう。
翌日。
真知子が出社すると、オフィスが妙にざわついていた。
「聞いた?町田さんと桜井さん」
「え、何?付き合ってるの?」
「らしいよ。昨日、二人でデートしてたって」
同僚たちの会話が、真知子の耳に入った。
真知子は、その場で固まった。
デート?
町田さんと桜井さんが?
「おはよう、駒田さん」
町田の声がした。
真知子は、機械的に答えた。
「……おはようございます」
町田は、いつもと変わらない様子だった。
真知子は、聞きたかった。昨日、誰と電話していたのか。誰とデートしていたのか。
でも、聞けなかった。
聞く権利なんて、真知子にはない。
真知子は、自分のデスクに座り、パソコンを立ち上げた。
仕事に集中しよう。考えないようにしよう。でも、できなかった。
昼休み。
真知子は、一人で社員食堂に向かった。
隅の席に座り、定食を食べる。味なんて、分からなかった。
「駒田さん」
声がした。顔を上げると、桜井さんが立っていた。
「桜井さん……」
「ちょっといい?」
桜井さんは、真知子の向かいに座った。
「昨日ね、町田さんとデートしたの」
桜井さんは、嬉しそうに言った。
真知子の胸が、ぎゅっと締め付けられた。
「そう、ですか……」
「町田さん、すごく優しいの。映画見て、ディナー食べて。すごく楽しかった」
桜井さんは、幸せそうに話し続けた。
真知子は、ただ黙って聞いていた。
「だからね、駒田さん。やっぱり、諦めてください」
桜井さんの声が、冷たくなった。
「町田さんは、私のものです」
真知子は、何も言えなかった。
桜井さんは、満足そうに微笑むと、席を立った。
真知子は、一人残された。
食欲が、完全に消えた。
その日の夕方。
真知子は、早めに退社した。
このまま、オフィスにいたら、崩れてしまいそうだった。
帰り道、真知子のスマートフォンが鳴った。
翠からだった。
「もしもし、真知子?今、大丈夫?」
「うん……」
「声、元気ないけど。何かあった?」
真知子は、今日あったことを話した。町田と桜井さんがデートしたこと。桜井さんに「諦めて」と言われたこと。
翠は、しばらく黙っていた。
「……真知子、今どこ?」
「駅の近く」
「そこで待ってて。今から行く」
「え?でも──」
「いいから待ってて!」
翠は、有無を言わさぬ口調で言った。
三十分後。
真知子は、駅前のベンチで翠を待っていた。
「真知子!」
翠が走ってきた。
「翠……ごめん、わざわざ」
「いいって。それより、真知子、大丈夫?」
翠は、真知子の隣に座った。
「……大丈夫じゃない」
真知子は、正直に答えた。
「そうだよね」
翠は、真知子の肩を抱いた。
「辛いよね」
その言葉で、真知子の涙腺が崩壊した。
「うん……辛い……」
真知子は、翠の肩に顔を埋めて泣いた。
人目も気にせず、声を上げて泣いた。
翠は、何も言わず、ただ真知子の背中を優しく撫でてくれた。
第九章 真実の欠片
泣き止んだ後、翠は真知子を近くのファミレスに連れて行った。
二人は、個室風の席に座った。
翠がホットココアを、真知子がハーブティーを注文した。
「少し、落ち着いた?」
翠が優しく聞いた。
「うん……ごめん、みっともないところ見せて」
「何言ってんの。友達でしょ」
翠は、真知子の手を握った。
「でもね、真知子。一つ聞いていい?」
「何?」
「その桜井さんの話、本当だと思う?」
真知子は、翠の言葉に戸惑った。
「え?嘘をつく理由が……」
「あるでしょ。真知子を諦めさせるため」
翠は、真剣な顔で言った。
「町田さん本人から、『桜井さんと付き合ってる』って聞いたの?」
「いや……でも、オフィスの人たちも噂してたし」
「噂の出所は?もしかして、桜井さん本人が流したんじゃない?」
真知子は、はっとした。
確かに、町田本人からは何も聞いていない。
「でも、デートしたって……」
「それも、本当かどうか分からないじゃん。町田さんに確認した?」
「してない……」
「だったら、諦めるのは早いよ」
翠は、力強く言った。
「真知子は、ちゃんと町田さんと話すべき。真実を確かめるべきだよ」
真知子は、迷った。
でも、翠の言う通りかもしれない。
「……うん。話してみる」
真知子は、決意した。
翌日、金曜日。
真知子は、いつもより念入りにメイクをした。
少しでも、自信を持ちたかった。
オフィスに着くと、町田がすでに席にいた。
「おはよう、駒田さん」
「おはようございます」
真知子は、深呼吸をした。
「あの、町田さん。今日、お時間ありますか?」
「今日?うん、大丈夫だけど」
「お話ししたいことがあって……」
町田は、少し驚いた顔をしたが、すぐに微笑んだ。
「分かった。じゃあ、仕事終わったら」
「はい」
真知子の心臓は、一日中ドキドキしていた。
仕事が終わり、真知子と町田は、昨日と同じカフェに向かった。
同じ窓際の席に座る。
「で、話って?」
町田が聞いた。
真知子は、勇気を振り絞った。
「町田さん。桜井さんと、付き合ってるんですか?」
町田の目が、大きく見開かれた。
「え?誰がそんなこと──」
「オフィスで噂になってました。それに、桜井さん本人も……」
真知子は、昨日のことを話した。
町田は、困ったような顔をした。
「駒田さん。俺、桜井さんとは付き合ってないよ」
「でも、デートを──」
「デートじゃない。桜井さんから、『映画に行きましょう』って誘われて、断り切れなくて。でも、映画を見た後、俺、はっきり言ったんだ」
町田は、真っ直ぐ真知子を見た。
「『ごめん。俺、好きな人がいる』って」
真知子の心臓が、止まりそうになった。
「好きな……人?」
「うん」
町田は頷いた。
「それで、桜井さんには『友達としてなら』って言ったんだけど、桜井さん、怒って帰っちゃって」
真知子は、混乱した。
じゃあ、桜井さんの話は、嘘だったの?
「駒田さん」
町田が、真知子の名前を呼んだ。
「俺が好きな人、誰だか分かる?」
真知子は、息が止まった。
「わ、分からないです……」
「本当に?」
町田は、少し笑った。
「俺、ずっと、駒田さんのことが好きだった」
時間が、止まった。
真知子の頭が、真っ白になった。
「え……?」
「駒田さんと隣の席になった時から、ずっと。駒田さんの優しいところ、気遣いができるところ、一生懸命仕事するところ。全部、好きだった」
町田の声が、真知子の耳に届く。
「でも、駒田さん、俺のこと、仕事仲間としか思ってないみたいで。だから、なかなか言えなくて」
「そんな……」
真知子は、涙が溢れそうになった。
「駒田さん。俺と、付き合ってくれませんか?」
町田が、真っ直ぐ真知子を見た。
真知子は、夢を見ているような気がした。
これは、現実なのだろうか。
「でも……私なんか……」
「また、その言葉」
町田は、少し困ったように笑った。
「駒田さんは、『私なんか』じゃない。駒田さんは、駒田さんだ」
町田は、テーブル越しに真知子の手を取った。
「俺、駒田さんの笑顔が好き。駒田さんの声が好き。駒田さんと話してる時間が好き。駒田さんのすべてが好きなんだ」
真知子は、もう涙を堪えられなかった。
「私も……私も、町田さんのことが好きです」
真知子は、初めて自分の気持ちを口にした。
町田は、嬉しそうに微笑んだ。
「良かった。本当に、良かった」
二人の手が、テーブルの上で重なっていた。
カフェを出ると、夜の街が広がっていた。
「送るよ」
町田が言った。
「ありがとうございます」
二人は、並んで駅に向かって歩いた。
真知子は、まだ信じられなかった。
町田が、自分のことを好きだなんて。
「駒田さん」
「はい?」
「これから、名前で呼んでいい?真知子って」
真知子の心臓が、また大きく跳ねた。
「はい……じゃあ、私も、航平さんって呼んでいいですか?」
「もちろん」
町田──航平は、嬉しそうに笑った。
真知子も、笑った。
心の底から、幸せだった。
第十章 新しい朝
週末。
真知子は、翠と会う約束をしていた。
待ち合わせ場所のカフェに着くと、翠がすでに待っていた。
「真知子!」
翠が手を振った。
真知子は、翠の元に駆け寄った。
「翠、聞いて!町田さんに告白された!」
「え!本当に!?」
翠の目が、輝いた。
真知子は、昨日のことを全部話した。
翠は、嬉しそうに手を叩いた。
「良かった!本当に良かった!」
「うん……まだ、夢みたい」
真知子は、頬が緩むのを抑えられなかった。
「で、桜井さんは?」
「嘘をついてたみたい。町田さん──航平さんは、桜井さんのこと、断ったって」
「やっぱりね。あの女、怪しいと思ってたんだ」
翠は、少し怒ったような顔をした。
「でも、もう大丈夫。真知子には、航平さんがいるんだから」
「うん……」
真知子は、幸せを噛みしめた。
「ねえ、真知子」
翠が、真剣な顔で言った。
「これからも、『かわいくなくて良かった』って思う?」
真知子は、少し考えた。
「……分かんない。でも、今は思わないかな」
「どうして?」
「だって、航平さんは、私のことを好きだって言ってくれた。今の私を、そのまま好きだって」
真知子は、微笑んだ。
「だから、かわいいとか、かわいくないとか、もうどうでもいい。私は、私のままでいい」
翠は、優しく微笑んだ。
「そう。それでいいんだよ、真知子」
月曜日。
真知子は、いつものようにオフィスに向かった。
だが、心は浮き立っていた。
航平に会える。それだけで、嬉しかった。
オフィスに着くと、航平がすでに席にいた。
「おはよう、真知子」
航平が、名前で呼んでくれた。
「おはようございます、航平さん」
真知子も、名前で呼んだ。
二人は、微笑み合った。
「今日、ランチ一緒にどう?」
「はい、喜んで」
真知子は、幸せだった。
その時、桜井さんが通りかかった。
桜井さんは、真知子と航平を見て、顔を歪めた。
「……ふん」
桜井さんは、何か言いたげだったが、結局何も言わずに去っていった。
真知子は、少しだけ桜井さんが可哀想になった。
でも、それだけだった。
真知子には、もう桜井さんの言葉は届かない。
昼休み。
真知子と航平は、一緒に社員食堂に向かった。
オフィスの人たちが、二人を見て、ざわついた。
「町田さんと駒田さん、付き合ってるの?」
「え、マジで?」
噂は、すぐに広まった。
真知子は、少し恥ずかしかったが、嫌な気持ちにはならなかった。
航平が、真知子の手を握った。
「気にしないで」
「はい」
真知子は、航平の手を握り返した。
二人は、食堂の席に座った。
「真知子、今度の週末、デートしない?」
「デート……」
真知子は、胸がドキドキした。
「うん。映画見て、ディナー食べて。真知子の好きなところ、連れてってよ」
「私の好きなところ……」
真知子は、少し考えた。
「じゃあ、美術館はどうですか?」
「いいね。真知子、美術好きなの?」
「はい。静かで、落ち着くので」
「そっか。じゃあ、美術館行こう」
航平は、嬉しそうに微笑んだ。
真知子も、微笑んだ。
週末。
真知子と航平は、美術館でデートをした。
真知子は、少しおしゃれをした。ワンピースを着て、いつもより丁寧にメイクをして。
「真知子、きれいだよ」
航平が言ってくれた。
真知子は、頬が赤くなった。
「ありがとうございます……」
美術館では、二人で絵を見て回った。
真知子が好きな絵の前で立ち止まると、航平も一緒に立ち止まってくれた。
「この絵、好きなの?」
「はい。色使いが、優しくて」
「確かに。真知子っぽいね」
航平は、真知子を見て微笑んだ。
真知子は、幸せだった。
美術館を出た後、二人はディナーに行った。
イタリアンレストラン。落ち着いた雰囲気の店。
「真知子、ワイン飲む?」
「少しだけ」
二人は、グラスワインを注文した。
食事をしながら、たくさん話した。
仕事のこと、趣味のこと、子供の頃のこと。
航平の話は、面白くて、真知子は何度も笑った。
「真知子の笑顔、やっぱり好きだな」
航平が、優しく言った。
「え……」
「俺、真知子の笑顔が見たくて、いつも頑張ってたんだ」
真知子の目に、涙が浮かんだ。
「航平さん……」
「これからも、たくさん笑ってね」
「はい」
真知子は、頷いた。
ディナーの後、航平は真知子を家まで送ってくれた。
真知子のアパートの前で、二人は立ち止まった。
「今日、楽しかった」
「私も、すごく楽しかったです」
沈黙が流れた。
航平が、真知子の顔に近づいた。
真知子の心臓が、激しく鼓動した。
「真知子……キスしていい?」
真知子は、小さく頷いた。
航平の唇が、真知子の唇に触れた。
優しくて、温かいキス。
真知子は、目を閉じた。
幸せで、胸がいっぱいになった。
エピローグ 私らしく
それから、数ヶ月が経った。
真知子と航平は、順調に交際を続けていた。
オフィスでは、もう二人の関係は公然の秘密だった。
桜井さんは、しばらくして他の部署に異動になった。真知子に対する嫌がらせは、もうなかった。
ある日、真知子は久しぶりに鏡をじっくりと見た。
相変わらず、平凡な顔。
でも、以前とは違って見えた。
表情が、柔らかくなっている。
笑顔が、自然になっている。
「かわいくなくて良かった」
真知子は、もうその言葉を口にしなくなった。
かわいいとか、かわいくないとか。
そんなことは、もうどうでもよかった。
大切なのは、自分が自分らしくいられること。
そして、自分を愛してくれる人がいること。
真知子は、航平に出会えて、本当に良かったと思った。
航平は、真知子のすべてを受け入れてくれた。
平凡な容姿も、地味な性格も。
すべてを、愛してくれた。
「真知子!」
翠の声がした。
今日は、翠と航平と、三人でランチの約束だった。
「翠、お待たせ」
「全然。航平さんは?」
「もうすぐ来るって」
二人は、レストランで航平を待った。
数分後、航平が現れた。
「ごめん、遅れて」
「大丈夫ですよ。さ、座りましょう」
三人は、楽しくランチを食べた。
翠が、真知子に言った。
「真知子、最近、すごくきれいになったよね」
「え?そう?」
「うん。幸せオーラ出てる」
翠は、にっこり笑った。
航平も、頷いた。
「俺もそう思う。真知子、すごくきれいだよ」
真知子は、頬が赤くなった。
「ありがとうございます……」
真知子は、幸せだった。
かつて、「かわいく生まれなくて良かった」と思っていた自分。
その思いは、鎧だった。
傷つかないための、防具だった。
でも、もう必要ない。
真知子は、自分らしく生きる勇気を持った。
ありのままの自分で、愛される幸せを知った。
──私は、私でいい。
真知子は、心の底からそう思えるようになった。
平凡でも、地味でも、かまわない。
真知子は、真知子のままで、幸せになれる。そう信じて、これからも生きていく。
航平と、翠と、大切な人たちと一緒に。
真知子の新しい人生が、始まっていた。
──完──




