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第10話 はじめての魔物

 京ノ都の重厚な石造りの城壁が、陽炎の向こうへゆっくり遠ざかっていく。


 さっきまで世界の端みたいにそびえていた灰色の壁も、振り返るたびに存在感がしぼみ、今では模型みたいにちんまりしていた。


 あの壁の向こうには、まだ「安全」という名のぬるま湯が残っている。


 役所の窓口でハンコ一つに人生を握られ、石畳を叩く足音にまぎれて、誰もが「自分は死なない」と信じている世界。


「ね、やっぱ外の空気のほうが気持ちいいでしょ。肺の掃除になるわよ」


 前を歩くアローラが、羽根を伸ばすみたいに両腕を広げた。


 背中の純白の翼が陽光を反射してキラキラ揺れ、乾いた風が金髪を遠慮なくかき乱していく。


「京ノ都って安全すぎるのよね。あれじゃ魂の賞味期限が切れちゃうわ」


「……命の危険がないって、人間にとっては最高の贅沢なんですけどね。僕は一生、壁の中で納税して暮らす人生でも全然……」


「人間はそうよ。でも世界って、予定調和を壊す危険があってこそ面白いの」


 散歩に誘うみたいな調子で死生観を語られ、真冥は反論する気力もなく、ただ彼女の背中を追った。


 城壁が親指サイズになった頃、アローラが急に立ち止まる。


「あ、忘れてた」


 腰の剣を抜き、くるりと回して逆手に持ち替えた。


「はい、これ。預けとくわ」


「えっ……」


 反射的に受け取った瞬間、ずしりと腕に重みがのしかかる。


 革の鞘、手に馴染む柄、鼻を刺す鉄錆の匂い。


(……本物の武器だ)


「魔物が出るかもしれないから。一応ね、お守り代わり」


「魔物って……強いですか?」


「この辺のは弱いのばっかりよ。でも油断して首の動脈でも持っていかれたら普通に死ぬけど」


「安心材料ゼロなんですけど!?」


「大丈夫大丈夫。私の統計だと半分くらいは生き残るから!」


「その統計、どこの戦場ですか!?」


 真冥はぎこちなく剣を腰に差し込む。鞘が太ももに当たるたび、喉がひりついた。


 やがて街道がカーブに差し掛かったところで、アローラがぴたりと止まった。


 その瞳が、獲物を見つけた猛禽みたいに細くなる。


「いたいた。本日の“お客様”第一号」


「……え?」


 指さした茂みが、ごそりと揺れた。


「な、何か……いる……」


 普通なら、刺激せずに立ち去る場面だ。


 だが、隣の天使は最初から“その選択肢”を持っていない。


 アローラは鼻歌まじりに小石を拾う。


「な、何を――」


「こうするのよ。挨拶は先手必勝!」


 ――ガサッ!!


 白い影が弾丸のように飛び出した。


「う、うさ――?」


 言い切る前に、足元でガチンと硬い衝撃。


「いっ!? な、なんだこいつ! 離せ!」


「カミツキバニー! 下半身狙いよ、噛みちぎられる前に振り払いなさい!」


「もう噛まれてるんですってば!!」


 ふわふわの毛並み、長い耳。なのに、真紅の瞳だけが完全に殺意を宿していた。


(やばい、殺される)


 剣を振る。空振り。


 バニーは地面すれすれを滑り、再び突っ込んでくる。


(逃げても追いつかれる……なら!)


 踏み込む。


 ドンッ、と鈍い衝撃。


 蹴りが額に入り、白い体が転がる。


 真冥は、その瞬間にすべてを賭けて剣を振り下ろした。


 ――抵抗は、あっけないほど軽かった。


「……はぁ……はぁ……」


 膝が笑い、呼吸が追いつかない。


「……倒した……のか?」


「うん。初勝利よ」


 アローラの声が、やけに遠く聞こえた。


 真冥は、剣を構えたまま、さっきまでカミツキバニーがいた場所を見つめていた。


「……消えた」


 そこにはもう、襲いかかってきた凶暴な獣の姿は灰となっていく。


 その風に舞うわずかな灰さえも、一瞬で大気に溶けて消えてしまった。


 血の匂いも、死骸も、勝利の証も残らない。


 あまりに実体のない幕切れに、真冥は自分の手の震えを誤魔化すように剣を鞘に戻そうとして――失敗し、カチンと乾いた音を立てた。


「魔物って……倒しても何も残らないんですね。なんだか、悪い夢でも見てたみたいだ」


 その呟きに、アローラはわずかに目を細めた。


 彼女は、バニーが消えた後の「何もない地面」をじっと見つめている。


(徳(経験値)の抽選に外れるどころか、ドロップ判定まで低く設定されてるなんて……「バグ枠」ってのは、幸運値まで削られてるのかしらね?)


 アローラはその内心を飲み込み、いつもの不敵な笑みを作って振り返った。


「そうね。今のあなたにとっては、それが世界の全てよ」


「……?」


「徳も入らない。アイテムも落ちない。一分前の死闘が嘘みたいに、手元には何も残らない。……正直、やってられないでしょ?」


 真冥は、うまく答えられなかった。


 必死に剣を振って、心臓が壊れそうになるまで走って、それで残ったのは、泥だらけの靴と冷や汗だけだ。


 一億という遠すぎるゴールが、さらに遠ざかった気がした。


「でもね、真冥。それでいいのよ」


 アローラは一歩近づき、真冥の細い肩をしっかりと掴んだ。


「いい? あなたの魂には『全属性最強魔法』なんていう、とんでもない劇薬が刻まれてる。でも、レベル1の今のあなたは、ただの『魔法も使えない、運の悪い男の子』でしかないの」


 彼女の瞳に、冗談ではない光が宿る。


「レベル2になれば、世界だって救えるかもしれない。でもレベル1のまま死んだら、あなたはただの『ウサギに噛み殺された転生者』として天界の笑い話で終わる」


「……」


「私はね、妹にそんな報告をしたくないのよ」


 その一言が、妙に重く胸に落ちた。


「だから教えるわ。最強魔法の使い方じゃない。何も手に入らない日が続いても、それでも明日を迎えるための――泥臭い『生存術』を」


 なぜ彼女が、わざわざ京ノ都の安全な壁の外へ連れ出したのか。


 その答えが、今ようやく見えた気がした。


 ここは、守られた世界じゃない。


 弱いままの人間が、生き残るかどうかを試される場所だ。


 アローラは真冥の背中を、景気づけるように強く叩いた。


「一億回抽選(ガチャ)を引けば、一回くらいは当たるでしょ?その一回を引き当てるまで、絶対に死なせない。……それが、私とアステリアの『お役所仕事』よ」


 真冥は、まだ少し震える指をぎゅっと握りしめた。


 今の自分を動かしているのは、世界を救う使命感なんかじゃない。


 ただ、無様な死に方は二度とごめんだという、切実で臆病な生存本能だけだ。


(今はそれでいい。とにかく……死にたくない)


「さあ、次はスライムよ。あいつらは、もっと厄介だから」


「え、まだ続くんですか!? さっき命が――」


「天使に二言はないの!」


 夕闇が迫る街道。


 アローラの声に追い立てられるようにして、真冥は再び一歩を踏み出した。


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