5話 最後の問い
5話『最後の問い』
「なぜ、俺はこんなものを書いているんだろう」
賢治の呟きが、書斎の静寂に吸い込まれていった。机の上には『楽園』の原稿が置かれている。400枚を超える原稿用紙が、きれいに揃えられて積み重なっていた。表紙には丁寧な字で「思考実験小説集『楽園』中村賢治著」と書かれている。
賢治は椅子に深く身を沈め、窓の外を眺めた。2145年の完全知識社会は、人類が到達した究極の理想形だった。すべての謎が解明され、すべての問題に解答が用意されている。歴史の真実、宇宙の仕組み、人間の心理、未来の予測──あらゆることが既知の事実として整理され、データベースに蓄積されていた。
しかし、賢治の胸には説明のつかない虚無感が広がっていた。
小説家として、賢治は時代錯誤的な存在だった。読者が求める物語は、すべて人工知能によって完璧に生成できる。感動的な恋愛小説、スリリングな冒険小説、深遠な哲学的物語──どんなジャンルでも、人間の作家を超える作品を瞬時に作り出せるのだ。
文学という概念そのものが、既に「歴史的遺物」として博物館に展示されている時代。それなのに、なぜ賢治は書き続けているのか。
机の上の原稿を見つめながら、賢治は自分でも理由が分からなかった。『楽園』は4つの短編で構成される予定だった。遺伝子選択社会、存在給付社会、死の民営化社会、そして感情除去社会。それぞれが現在とは異なる価値観で成り立つ世界の物語。興味深いことに、これらの社会で描かれる技術の多くが、ニューエデンという実験都市で開発されたという設定になっていた。なぜそんな設定を思いついたのか、自分でも不思議だった。
しかし、これらの物語に意味はあるのだろうか。すべての可能性が既に検証済みの世界で、想像の産物に価値があるのだろうか。
賢治は立ち上がり、書棚に向かった。そこには古い書籍が並んでいる。シェイクスピア、ドストエフスキー、夏目漱石、村上春樹──人類の文学史を彩った作家たちの作品。しかし、それらの価値も現在では「非効率的な娯楽の化石」として分類されているに過ぎない。
「賢治、また無駄なことを?」
妻の麻美が書斎に顔を出した。彼女は完全知識社会の模範的市民で、効率性と合理性を何より重視する。二人の間には息子がいたが、既に成人して別の居住区で暮らしていた。
「ああ、まあな」賢治は曖昧に答えた。
麻美は賢治の原稿を見て、呆れたような表情を見せた。
「またその意味のない創作活動?AIが0.003秒で書ける内容を、あなたは何ヶ月もかけて書いている」
「分かってる」賢治は小さく答えた。
「社会資源の無駄遣いよ」麻美は冷たく言った。「あなたの時間と労力を、もっと生産的なことに使うべきじゃない?」
賢治は何も答えなかった。麻美の言うことは完全に正しい。完全知識社会では、非効率的な活動は社会の害悪とされていた。
「カウンセリングを受けることをお勧めします」麻美は事務的に続けた。「あなたの行動は明らかに異常です」
麻美が去った後、賢治は一人で原稿と向き合った。『別の世界線』の登場人物たち──田中美咲、山田健一、佐々木綾、高橋直美。彼らはそれぞれの世界で、システムに順応する「正常な」人々として描かれていた。
「面白い偶然だな」賢治は呟いた。
登場人物たちの名前が、なぜか身近に感じられる。しかし、完全知識社会では過去の記録はすべて「不要なデータ」として削除されているため、確認することはできない。
賢治はパソコンを立ち上げ、検索システムにアクセスした。しかし、彼の小説に登場する人物や社会システムに関する情報は、すべて「存在しない」という結果が表示された。
「当然だ」賢治は自分に言い聞かせた。「想像で書いた物語なんだから」
しかし、なぜこれらの物語を書いたのか、自分でも分からなかった。完全知識社会で育った賢治には、異なる価値観の社会を想像する理由などないはずなのに。
その夜、賢治は『楽園』の原稿を読み返した。田中美咲が制度を信じ続ける物語、山田健一が翔太を治療する物語、佐々木綾が一郎を当局に通報する物語、高橋直美が美咲を正常化する物語。
読み返すたびに、奇妙な感覚に襲われる。これらの物語が、単なる想像ではないような気がしてくるのだ。まるで、どこかで実際に起こった出来事を記録しているような。
「馬鹿馬鹿しい」賢治は頭を振った。「完全知識社会以外の社会など存在しないんだ」
完全知識社会は人類史上最高の社会システムだった。すべての問題が解決され、すべての人が合理的に行動し、無駄や非効率は完全に排除されている。他の社会システムなど、非科学的な妄想に過ぎない。
翌日、賢治は義務的な社会貢献活動に参加した。完全知識社会では、すべての市民が効率的な役割分担を担うことになっている。賢治の役割は「無意味活動観察員」だった。社会に害を及ぼす非効率的な活動を監視し、報告する仕事。
皮肉なことに、賢治自身の創作活動も、この監視対象に含まれていた。
「中村さん、今日も報告書を」
同僚の田中が声をかけてきた。彼は模範的な市民で、賢治の「異常行動」を常に監視していた。
「ああ、分かってる」
賢治は自分の創作活動について報告書を書いた。「本日も非効率的な文学的創作活動を継続。社会に対する明確な貢献は認められず」
報告書を提出しながら、賢治は自分の滑稽さを感じていた。自分で自分を監視し、自分の無意味さを報告している。
「中村さん」田中が声を低めた。「もうそろそろ、その活動をやめませんか?社会の迷惑になっています」
「分かってる」賢治は答えた。「でも、やめられないんだ」
「なぜですか?」田中は困惑した。「論理的な理由があるはずです」
賢治は答えられなかった。自分でも理由が分からないのだ。
その日の夜、賢治は再び『別の世界線』の原稿に向かった。しかし、筆は進まない。物語の意味を見出せずにいた。
「俺は何をしているんだ」賢治は呟いた。
その時、原稿の中の一節が目に留まった。高橋直美が娘の美咲について考える場面。「美咲の『異常性』は、実は人間性の原点なのかもしれない」という一文。
賢治の心に、何かが引っかかった。異常性と人間性──この二つの概念の関係。
「もしかして」賢治は考え始めた。「俺の創作活動も、異常だからこそ意味があるのか?」
完全知識社会では、すべてが合理的で効率的だった。しかし、その中で非効率的な活動を続ける自分の存在に、何か別の意味があるのかもしれない。
賢治は新しいページを開き、5話目を書き始めた。完全知識社会で小説を書き続ける男の物語。理由も分からず、意味も見出せず、それでも『楽園』という謎めいた物語を書き続ける男の物語。
書いているうちに、賢治は気づいた。この物語もまた、実在感を伴っているのだ。まるで自分自身の体験を記録しているような。
「待てよ」賢治は筆を止めた。「俺が書いているこの5話目も、実は誰かの記録なのか?」
しかし、そんなことはあり得ない。完全知識社会は唯一無二の理想社会であり、他の社会システムなど存在しないのだから。
賢治は頭を振り、書き続けた。非論理的で非効率的で無意味な活動を。
数時間後、5話目が完成した。読み返してみると、奇妙なことに気づく。物語の中の主人公・中村賢治の体験が、自分の体験と完全に一致しているのだ。
「当然だ」賢治は自分に言い聞かせた。「俺の体験を元に書いたんだから」
しかし、本当にそうなのだろうか。自分が体験を元に物語を書いたのか、それとも物語が自分の体験を規定したのか。
賢治はその疑問を振り払った。そんなことを考えるのは非論理的だった。
翌朝、賢治は完成した『楽園』を机の引き出しにしまった。誰も読まない物語。社会に何の貢献もしない創作物。しかし、なぜかニューエデンという架空の実験都市や、そこから派生する様々な社会システムについて、驚くほど具体的に描くことができていた。それでも、書き終えたという満足感があった。
「賢治、カウンセリングの予約を取りました」
麻美が朝食の席で告げた。「来週から治療が始まります」
「治療?」
「あなたの非効率的行動を修正する治療です」麻美は事務的に説明した。「薬物療法と認知行動療法の組み合わせで、正常な思考パターンを取り戻せます」
賢治は何も答えなかった。治療を受ければ、創作への衝動もなくなるだろう。そうすれば、模範的な市民として生きていける。
しかし、なぜか抵抗感があった。
「治療を受けたくない」賢治は静かに言った。
麻美は困惑した。「なぜですか?合理的な理由があるはずです」
「分からない」賢治は正直に答えた。「ただ、受けたくないんだ」
麻美の表情が冷たくなった。「それは病的な反応です。治療の必要性を証明していますね」
その日、賢治は職場で田中に治療について相談した。
「素晴らしいことです」田中は即座に答えた。「中村さんも正常になれるんですね」
「正常、か」賢治は呟いた。
「そうです。効率的で合理的な思考ができるようになります」田中は続けた。「無意味な創作活動への執着もなくなるでしょう」
賢治は田中の言葉を聞きながら、『別の世界線』の登場人物たちを思い出していた。彼らもまた、「正常化」された人々だった。制度に疑問を持たず、効率的に行動し、異端者を排除する人々。
「田中さん」賢治は尋ねた。「俺たちは本当に正常なんだろうか?」
田中は困惑した。「当然です。完全知識社会は理想的なシステムです」
「でも、もし他の社会システムがあったとしたら?」
「そんなものは存在しません」田中は断言した。「非科学的な妄想です」
賢治は黙り込んだ。田中の反応は、『別の世界線』の登場人物たちと同じだった。自分たちの正しさを疑わず、他の可能性を認めない。
その夜、賢治は『別の世界線』の原稿を再び取り出した。4つの物語と、5話目の自分の物語。すべてが「正常な」人々による「異常な」人々の排除を描いていた。
そして今、自分も「異常」として治療されようとしている。
「偶然にしては出来すぎている」賢治は呟いた。
しかし、偶然でないとすれば、何なのか。自分の想像した物語が現実を予言していたのか、それとも現実を元に物語を書いていたのか。
答えは分からない。完全知識社会にあって、最後に残された謎。
賢治は決断した。治療を受けるまでに、この謎について考え続けよう。たとえ答えが見つからなくても、考える権利だけは放棄したくなかった。
数日後、治療が始まった。薬物療法により、賢治の「異常な」思考パターンは徐々に修正されていった。
創作への衝動は薄れ、『楽園』のような非効率的な活動への関心もなくなっていく。代わりに、合理的で効率的な思考が定着していった。
「調子はいかがですか?」担当医が尋ねた。
「良好です」賢治は機械的に答えた。「以前のような無意味な活動への関心はなくなりました」
「素晴らしい。完全に正常化されましたね」
賢治は頷いた。確かに今の自分は正常だった。効率的で合理的で、社会に貢献する模範的な市民。
治療完了後、賢治は『楽園』の原稿を見つけた。机の引き出しに入れてあったはずだが、なぜこんなものを書いたのか理解できなかった。ニューエデンという架空の実験都市を中心とした、4つの異なる社会システムの物語。
「無意味な創作物だな」賢治は冷静に判断した。
賢治は原稿をシュレッダーにかけた。400枚を超える原稿用紙が、細かく裁断されていく。
「これで完全に正常になった」賢治は満足した。
その夜、賢治は麻美と効率的な会話を交わし、規則正しく睡眠を取った。翌日からは、より生産的な社会貢献活動に専念する予定だった。
完全知識社会の夜は静かだった。すべての市民が合理的に行動し、無駄な活動は完全に排除されている。理想的な世界。
ただ一つ、細かく裁断された原稿の断片が、ゴミ箱の中で風に舞っていた。「なぜ、俺はこんなものを書いているんだろう」という文字の一部と、「ニューエデン」という単語の断片が、街灯の光に照らされて見えていた。
しかし、もう誰もそれを読むことはない。疑問を抱くことも、答えを求めることもない。すべてが既知の、完璧な世界で。
賢治は深く、安らかに眠り続けていた。夢を見ることもなく、ただ効率的に体力を回復していた。明日もまた、合理的で生産的な一日が始まるのだった。