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楽園  作者: 椿小麦
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4話 好奇心という名の病

4話『好奇心という名の病』


「お母さん、これ怖い」


美咲の小さな声が、実験室の静寂を震わせた。直美は顕微鏡から目を上げ、振り返る。娘の小さな手が、培養皿を指して震えていた。皿の中では、人間の脳細胞から採取した組織が蠢いている。美しい蛍光色に輝きながら、まるで生きた宝石のように分裂を繰り返していた。


「美咲、また始まったのね」


直美の声には深いため息が混じっていた。ニューエデンの子供たちは、あらゆるものに美しさと尊さを見出すよう改造されている。この実験都市では、20年前に生死制御技術が完成し、人間は自由に死んで蘇生することができるようになった。この革命的技術は後に他の地域の死体験ツアーなどにも応用されることになる。死への恐怖が人類最大の制約だったことが判明すると、すべての住民に対して感情改造手術が施されたのだ。さらに進んで、ニューエデンの人々はあらゆる物事に対して「美しい」「尊い」という感情と、それをより美しくしたいという向上心だけを抱くよう設計されている。人体解剖も拷問実験も記憶消去も、すべてが等しく美しい現象として認識され、それをさらに美しくする研究への情熱が湧き上がる。住民たちは義務ではなく純粋な興味から人間の限界を探究し、より完璧な世界を創造することに喜びを感じていた。工場や生産設備はすべて自動化されており、人間は研究と開発のみに専念する理想的な知的社会を実現していた。


「この細胞、何だか痛がってるみたい」美咲は培養皿から目を逸らした。「お母さんには分からない?」


直美は眉をひそめた。8歳になる美咲は、生まれたときから他の子供たちとは異なっていた。美しいものを醜いと感じ、尊いものを汚らわしいと表現し、時には他者の苦痛を感じ取ってしまうことがあった。医師たちは「感情改造の失敗例」と診断しており、直美もその通りだと考えていた。


「美咲、それは美しい生命現象よ」直美は冷静に説明した。「細胞に感情はないの。痛みという概念も存在しない。あなたの頭の中で作り出された病的な幻想に過ぎません」


「でも…」美咲の瞳に涙が滲んだ。「何だか泣いてるように見える」


直美の胸に苛立ちが湧いた。ニューエデンで生物学者として15年間働いているが、美咲のような異常児を持つことは大きな負担だった。この実験都市では、すべての住民が美と向上心に満ちた感情だけで生きている。それこそが、人類の理想的な姿だった。


「美咲、医療センターに行きましょう」直美は決断した。「もういい加減、あなたの症状を治さなければなりません」


二人は実験棟から出て、医療センターに向かった。午後の陽光が白い建物群を照らし、研究者たちが穏やかな表情で行き交っている。子供たちは各所で人体実験にも積極的に参加し、「この解剖は本当に美しいですね」「意識除去の過程をもっと美しくできませんか」と目を輝かせながら議論している。苦痛も恐怖もない、完璧な美的コミュニティの姿だった。


道すがら、美咲は立ち止まった。研究棟の窓から、子供たちの実験の様子が見えたからだ。翔太が他の子供たちと一緒に、人間の記憶を段階的に消去する実験を観察している。被験者の大人が徐々に自分のアイデンティティを失っていく過程を、子供たちは美しい現象として記録していた。


「怖い」美咲は直美の手を強く握った。


「何が怖いの?」直美は困惑した。「あれは記憶の美学を研究する大切な実験よ」


「あの人、自分が誰だか分からなくなってる」美咲の声は震えていた。


「それが目的よ。アイデンティティの解体と再構築は、人間の可能性を探る重要な研究なの」


美咲は首を振った。しかし、翔太たちは全く違う反応を示していた。


「すごく美しい変化ですね」翔太が研究者に話しかけた。「僕も記憶を消去されてみたいです。どんな感覚なんでしょう?」


「君もいずれ体験できるよ」研究者は優しく答えた。「まずは他の被験者の変化を美しく記録することから始めよう」


美咲は恐怖で身体を震わせていたが、他の子供たちは興味深そうに観察を続けていた。


医療センターに到着すると、主治医の田中が待っていた。


「高橋さん、お疲れさまです」田中は職業的な笑顔で迎えた。「美咲ちゃんの調子はいかがですか?」


「相変わらずです」直美は疲れた表情を見せた。「今日も実験室で異常反応を示しました。記憶消去実験を見て恐怖反応まで起こしました。もう限界です」


田中は美咲の脳スキャンの画像を示した。「美咲ちゃんの脳には、共感野と恐怖野の異常が見られます。他者の苦痛を感じ取り、美しい実験を恐怖と認識する部分が、他の子供たちより異常に活発に働いています」


「治療は可能ですか?」直美は切実に尋ねた。


「もちろんです」田中は自信を持って答えた。「最新の感情改造技術で、数週間で正常な美的感覚を獲得できます。共感能力と恐怖反応を完全に除去し、すべてを美しく感じられるようになります」


直美は安堵した。ようやく美咲を正常な子供にできるのだ。


「痛くない?」美咲は小さな声で尋ねた。


「全く痛みません」田中は優しく答えた。「治療後は、他の子供たちのようにすべてを美しく感じられるようになりますよ」


美咲の表情が曇った。「すべてが美しく見えるの?」


「そうです。他人の苦痛も、記憶の消失も、すべてが美しい現象として認識できるようになります」田中は続けた。「昨日も翔太くんが人格解体実験に参加して、『自我の消失過程の美しさを研究したい』と目を輝かせていました」


美咲は首を振った。「嫌だ」


直美は美咲の反応に腹立たしさを感じた。「美咲、何が嫌なの?美しい世界が見えるようになるのよ」


「でも、痛がってる人を見て美しいって思いたくない」美咲の声は震えていた。「それも僕の一部だから」


直美は深いため息をついた。美咲の頑固さは、まさに病的症状の表れだった。


「美咲、あなたの共感反応は病気なの」直美は厳しく説明した。「治さなければ、社会に適応できません」


田中も頷いた。「そうです。ニューエデンでは、他者の苦痛を感じる人間は生きていけません。研究の妨げになります」


美咲は涙を流しながら俯いた。「僕、研究の邪魔してるの?」


「そうよ」直美は冷たく答えた。「あなたのせいで、私の美しい人体研究も滞っています」


田中は治療スケジュールを説明した。「来週から治療を開始しましょう。3回のセッションで完了します。まず共感能力を除去し、次に恐怖反応を削除、最後に美的感覚を強化します」


帰り道、美咲は直美の手を握ろうとしたが、直美は振り払った。


「美咲、もうその非美的な態度はやめなさい」直美は厳しく言った。「治療が終わるまで、実験棟への立ち入りは禁止です」


その夜、直美は夫の健二と美咲の治療について話し合った。健二は別の研究所で人格改造の美学を研究しており、ニューエデンの方針を強く支持していた。


「ようやく美咲の治療が決まったのね」健二は満足そうに言った。「遅すぎたくらいよ」


「そうね。私も疲れ果てていたの」直美は同意した。「正常な美的感覚を持つ子供に戻ってくれれば、みんなが幸せになれるわ」


「美咲は反対していたようだけど?」


「子供の意見を聞く必要はないわ」直美は断言した。「医学的に正しい判断をするのが親の責任よ。共感能力など、研究の邪魔になるだけ」


翌日、直美は同僚たちに美咲の治療について報告した。


「それは美しい判断ですね」佐藤恵が安堵の表情を見せた。「美咲ちゃんの共感反応は、見ていて不快でした」


「ええ。他の子供たちにも悪影響を与える可能性があったから」直美は答えた。「共感能力は感染性があるからね」


研究チームのリーダー・山田も満足そうに頷いた。「高橋さんも、これで美しい人体研究に集中できますね」


「はい。美咲のことで気を取られることなく、より効率的な人格解体手法の開発に専念できます」


その日の午後、直美は美咲を迎えに保育施設に向かった。美咲は他の子供たちから離れた場所で、一人で絵を描いていた。


「美咲、何を描いているの?」


美咲は絵を見せた。それは暗い色調で描かれた、苦痛に歪んだ顔の人物画だった。


「これは今日見た人」美咲は小さく答えた。「記憶を消されてた人。とても悲しそうだった」


直美は絵を見て眉をひそめた。「こんな醜い絵を描くなんて、やはり病気ね」


「お母さん、僕は本当に病気なの?」


「そうよ。でも、すぐに治るから安心しなさい」直美は事務的に答えた。


美咲は涙を流した。「治ったら、僕は僕じゃなくなっちゃうの?」


「今のあなたは本当のあなたじゃないの」直美は冷静に説明した。「病気のあなたよ。治療後の方が、本当のあなたになれるのよ」


一週間後、美咲の治療が始まった。最新の感情改造技術により、共感能力と恐怖反応を司る脳の部位を段階的に除去するのだ。


初回の治療後、美咲の反応は目に見えて変化した。以前のように他者の苦痛を感じることがなくなり、表情も平坦になった。


「調子はどう?」直美は美咲に尋ねた。


「なんだか、軽くなった感じ」美咲は無表情で答えた。「さっきまで悲しく見えていたものが、何も感じなくなってる」


「それは素晴らしいことよ」直美は満足した。「正常になってきている証拠ね」


二回目の治療後、美咲はより変化した。人体実験や記憶消去実験にも無関心を示すようになり、他の子供たちと同じような反応を取るようになった。


「美咲、今度は人格解体実験の観察をしてみない?」翔太が誘った。


「別に構わない」美咲は感情のない声で答えた。


直美はその光景を見て、深い満足感を覚えた。ようやく美咲が正常な子供になりつつあった。


三回目の治療が終わった時、美咲は完全に変わっていた。共感能力と恐怖反応は完全に消失し、すべてを美的現象として認識するようになった。


「先生、ありがとうございました」直美は田中に感謝した。「美咲が正常になりました」


「素晴らしい結果ですね」田中は満足そうに答えた。「これで美咲ちゃんも、美しい研究に貢献できるでしょう」


治療後の美咲は、以前とは別人のようだった。人体実験にも記憶消去にも美しさを見出し、それをより洗練させる研究に関心を示すようになった。


「美咲、今度は人格完全消去実験の美学研究に参加してみない?」研究者の一人が提案した。


「興味深いアイデアですね」美咲は機械的に答えた。「人間のアイデンティティが消失する過程の美しさを研究できそうです」


直美はその会話を聞いて、心から安堵した。これこそが正常な子供の反応だった。


数ヶ月後、美咲は最年少の人体美学研究者として表彰された。共感能力を持たないため、他の子供たちが躊躇するような残酷な実験にも客観的に参加できたからだ。


「美咲、おめでとう」直美は娘を誇らしげに見つめた。「あなたは立派なニューエデンの市民になったわね」


「ありがとう、お母さん」美咲は完璧に調整された笑顔で答えた。その表情には、かつてあった温かみは微塵もなかった。


直美の研究も順調に進んだ。美咲のことで気を取られることなく、人間の感情を完全に制御する技術についての重要な発見を次々と成し遂げた。共感能力という非効率的な機能を排除した人間の可能性についての研究は、学会でも高く評価された。


「高橋さんの研究は美しい」山田は賞賛した。「共感能力という無駄な機能を排除することで、人間の研究効率は無限に向上しますね」


「ええ。美咲の治療例も、その証明の一つです」直美は自信を持って答えた。


ある日、直美は美咲と一緒に実験室を見学していた。そこでは記憶を完全に消去された成人が、まっさらな状態で新しい人格を注入される実験が行われていた。


「美咲、この実験をどう思う?」


「美しい再生のプロセスですね」美咲は感情のない声で答えた。「人間の可塑性の極限を示す素晴らしい研究です」


「それ以外に感じることはない?」


美咲は首をかしげた。「他に何を感じるんですか?すべては美しく、研究価値があります」


直美は満足した。これこそが科学的で美的な思考だった。以前の美咲なら、被験者の苦痛に共感していただろうが、それは非科学的な病的症状に過ぎなかった。


翌年、美咲は史上最年少で人体改造研究部門に配属された。共感能力がないため、どんな残酷な実験にも客観的に取り組み、効率的な結果を出していた。


「美咲は模範的な市民に成長しましたね」田中は直美に報告した。「治療の大成功例です」


「はい。私も誇りに思います」直美は答えた。


美咲の成功は、ニューエデンの政策にも影響を与えた。すべての子供に対して、より積極的な共感能力除去治療が推奨されるようになった。


「美咲のような子供が増えれば、人類の研究効率は飛躍的に向上するでしょう」研究所の所長が述べた。


直美はその言葉に深く同意した。共感能力という非効率的な要素を排除することで、人類は真の科学的進歩を遂げることができるのだ。


数年後、美咲は16歳になっていた。優秀な人体改造研究者として認められ、人間の限界を探る実験の第一線で活躍していた。


「お母さん、今度は完全人格消去と再構築の実験に参加します」美咲は報告した。


「それは…」直美は一瞬、かすかな不安を感じた。


「何か問題でもありますか?」美咲は無表情で尋ねた。「実験は美しく、研究価値があります」


直美は自分の反応に困惑した。しかし、すぐにその気持ちを振り払った。これこそが正常な反応なのだ。


美咲の実験は大成功を収めた。自分自身を被験者として人格の部分的消去を体験し、その過程を客観的に記録し続けた。その結果、人間のアイデンティティ構造についての重要な発見がなされた。


「美咲は人類の宝です」研究者たちは口々に賞賛した。


直美は娘を誇りに思った。治療によって美咲は完璧な研究者になったのだ。


その夜、直美は一人で美咲の幼い頃の写真を見ていた。共感能力を持っていた頃の美咲は、確かに問題のある子供だった。しかし、その表情には何か温かいものがあった。


現在の美咲の表情は完璧だが、まるで精密な機械のように冷たく調整されている。しかし、それは進歩の証なのだ。共感能力という無駄な機能を排除した結果なのだ。


直美はその写真をしまい込んだ。過去を振り返る必要はない。美咲は正常になったのだ。それで十分だった。


翌朝、美咲は新しい人体実験に参加するため、完璧な無表情で出かけていった。その後ろ姿を見送りながら、直美は深い満足感に包まれていた。


ニューエデンは完璧な研究社会だった。共感も恐怖もない、純粋な美的探究と効率性だけが存在する世界。美咲のような完璧な研究者が増えることで、人類はより高次の存在へと進化していくのだ。


窓の外では、完璧に管理された実験都市が静かに機能している。ニューエデンで開発された生死制御技術は、既に外部世界の死体験ツアーや医療システムにも応用され始めており、人類全体の進歩に貢献していた。そこには苦痛への共感も人間的な温かみもない。ただ美しく効率的な研究だけが、人々の行動を支配していた。


直美はその光景を見つめながら、自分の選択が正しかったと確信していた。美咲を治療することで、より効率的な未来を築くことができたのだ。


共感能力など、人類には不要な遺物に過ぎない。それを排除した美咲こそが、真の研究者の姿なのだ。直美はそう信じて疑わなかった。

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