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楽園  作者: 椿小麦
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2話 存在給付

2話『存在給付』


「山田さん、おはようございます」


鈴木翔太の声が、朝の静寂を破って受付ロビーに響いた。山田健一は入口のガラス扉越しに、既に椅子に座って待つ青年の姿を認めた。翔太の膝が小刻みに震え、握りしめた拳が太ももの上で白くなっている。


「鈴木さん、おはようございます」健一は職員用の入口から翔太に声をかけた。「今日も早いですね」


翔太は立ち上がり、深々と頭を下げた。その動作があまりにも丁寧で、健一は少し気圧される思いだった。存在給付センターで15年間働いているが、これほど深刻な表情で訪れる市民は珍しかった。おそらく何らかの精神的な問題を抱えているのだろう。


「申し訳ありません、山田さん」翔太の声は震えていた。「でも、どうしてもお話ししたいことがあるんです」


健一は相談室の扉を開いた。朝日が差し込む明るい部屋で、二人は向かい合って座った。翔太は22歳、存在給付を受けて3年になる。書類上では何の問題もない、標準的な受給者だった。


「今日はどのようなご相談でしょうか?」健一は穏やかに尋ねた。


翔太はしばらく黙り込んでいた。その間、健一は翔太の外見を改めて観察した。痩せ型の体格、少し猫背、髪は無造作に伸ばされている。服装も決して高級ではないが清潔で、存在給付で支給される基本的な生活必需品で十分に生活していることが分かる。ただ、どこか不健康な印象を受けた。


「僕は…」翔太がようやく口を開いた。「働きたいんです」


健一は内心でため息をついた。また「労働願望症候群」の患者か。存在給付制度の導入初期にしばしば見られた適応障害の一種で、現在では適切な治療法が確立されている。


「働く、というのは?」健一は職業的な笑顔を浮かべた。「ボランティア活動でしたら、いくつか紹介できますが」


「違うんです」翔太の目に涙が滲んだ。「本当の仕事がしたいんです。誰かの役に立って、対価をもらって、自分で生活を成り立たせたいんです」


健一は翔太の症状を頭の中で整理した。明らかに時代錯誤的な価値観に固執している。おそらく両親から古い労働観を植え付けられたのだろう。


「鈴木さん、現在の生活に何か不満があるんですか?」


翔太は首を振った。「不満はありません。住む場所もあるし、食べ物にも困らない。でも…」


「でも?」


「僕が生きている意味が分からないんです」翔太の声が震えた。「毎日、何をしても、誰かの役に立っている実感がない。僕がいてもいなくても、世界は何も変わらない」


健一は同情的な表情を作った。典型的な症状だった。「存在価値錯覚症候群」と呼ばれ、労働でしか自己価値を見出せない古い思考パターンの残滓だった。


「鈴木さん、それは病気です」健一は優しく説明し始めた。「あなたが感じている不安は、社会の進歩についていけない心の症状なんです」


「病気?」翔太は困惑した。


「そうです。人間の尊厳は労働によって決まるものではありません。あなたが存在すること自体に価値があるんです」


「でも、僕は何も生み出していません」翔太の瞳に絶望が宿った。「毎朝目覚めて、支給された食事を取って、支給された娯楽を楽しんで、そして眠る。それの繰り返しです」


「それの何が悪いんですか?」健一は反論した。「人間は幸せになるために生まれてきたんです。苦痛から解放されることこそ、文明の進歩の証じゃないですか」


翔太は窓の外を見つめた。存在給付センターの向かいには公園があり、午前中の陽光の中で多くの市民がのんびりと過ごしている。その向こうに、遺伝子カウンセリングクリニックの看板が見える。さらに遠くには、死体験ツアーの派手な広告も見えた。


「あの人たちは本当に幸せなんでしょうか?」翔太の声は小さかった。


健一は窓の外を見た。確かに平和な光景だった。争いもなく、貧困もなく、すべての人が等しく尊重されている社会。人類が長年夢見てきた理想郷がここにある。


「もちろんです」健一は断言した。「統計を見れば明らかです。自殺率は史上最低、犯罪率もほぼゼロ、精神疾患の発症率も大幅に減少しています」


「でも、僕は幸せじゃありません」翔太の声が部屋に響いた。


健一は翔太を哀れんだ。この青年は社会の恩恵を理解できずにいる。まさに治療が必要なケースだった。


「鈴木さん、専門医によるカウンセリングを受けてみませんか?」健一は治療方針を提示した。「きっと気持ちが楽になりますよ」


「受けました」翔太は即座に答えた。「半年間、毎週通いました。でも何も変わらなかった」


健一は眉をひそめた。カウンセリングに反応しないとは、症状が重いのかもしれない。


「それでは、薬物療法はいかがでしょうか?最新の抗不安薬で、労働への執着を和らげることができます」


翔太は顔を青くした。「薬で気持ちを変えるんですか?」


「そうです。とても効果的な治療法です」健一は安心させるように言った。「多くの患者さんが、服薬により正常な状態を取り戻しています」


翔太は長い間黙り込んだ。健一は翔太が治療を受け入れる気になったと判断した。


「分かりました」翔太はついに諦めたような声で言った。「薬物療法を受けてみます」


健一は満足した。また一人の市民を正常な状態に戻すことができる。


「素晴らしい判断です。専門医を紹介しますので、来週から治療を始めましょう」


翔太は力なく頷いた。


その後の面談で、健一は翔太の家族構成について確認した。父親・一郎、68歳、元建設業。この父親が問題の根源かもしれない。古い労働観を息子に植え付けた可能性が高い。


「お父様とはよく話をされますか?」


「はい。父は昔の仕事の話をよくしてくれます」翔太の目に少し光が戻った。「建物を作ることの喜びを語ってくれて…」


「それです」健一は確信した。「お父様の影響で、あなたは古い価値観に縛られているんです」


翔太の表情が曇った。「父が悪いということですか?」


「悪いというより、時代に適応できていないということです」健一は冷静に説明した。「お父様の世代は労働が必要だった時代の人です。現在の社会には合わない考え方なんです」


翔太は拳を握りしめた。「でも、父は誇りを持って働いていました」


「それは錯覚です」健一は断言した。「労働は人間から幸福を奪う苦痛に過ぎません。私たちはその苦痛から解放されたんです」


翔太が去った後、健一は同僚たちと翔太のケースについて話し合った。


「典型的な労働依存症ですね」心理カウンセラーの佐藤が診断した。「薬物療法と認知行動療法の併用が効果的でしょう」


「家族の影響も大きそうです」健一は付け加えた。「父親が元建設業で、古い価値観を植え付けている可能性があります」


「それなら家族療法も必要ですね」佐藤は頷いた。「父親にも治療への協力を求めましょう」


健一は翔太の治療計画に満足していた。適切な医療介入により、翔太は必ず正常な状態を取り戻すだろう。


昼休み、健一は妻に電話をかけた。妻は遺伝子関連の仕事をしており、しばしば仕事の相談をし合っていた。


「今日、興味深いケースがあったんだ」健一は翔太の話を説明した。


「労働願望?それは確かに病的ね」妻の声には同情が込められていた。「私の職場でも時々、制度に適応できない人がいるわ。きっと同じような心理なのでしょうね」


「そうかもしれないな。完璧なシステムを理解できない人がいるのは仕方がない」


「でも治療すれば治るでしょう?あなたの指導で、きっと正常になるわ」


健一は妻の信頼に応えようと決意した。翔太を必ず治してみせる。


翌週、翔太は処方された薬を持って健一を訪ねてきた。その表情は以前より穏やかに見えた。


「調子はいかがですか?」健一は尋ねた。


「少し…楽になったような気がします」翔太の声は力がなかった。「働きたいという気持ちが、前ほど強くありません」


「それは良い傾向です」健一は安堵した。「薬が効いている証拠ですね」


「でも、なんだか自分が自分でないような感じもします」


「それは一時的な副作用です」健一は説明した。「しばらく続ければ、自然に感じるようになります」


翔太は薄く微笑んだ。その笑顔は以前の情熱的な表情とは全く異なっていた。


一ヶ月後、翔太の状態は大幅に改善していた。労働への執着はほぼ消失し、存在給付制度を素直に受け入れるようになった。


「山田さんのおかげで、正常になれました」翔太は感謝を込めて言った。「以前の僕は病気だったんですね」


「そうです。でも、もう大丈夫です」健一は満足していた。「これからは普通の生活を送ることができます」


「はい。父にも薬を勧めてみます。父も古い考えに囚われているようですから」


健一は翔太の変化に感動した。治療により、完全に正常な思考を取り戻している。


数週間後、健一は公園で翔太を見かけた。ベンチに座って空を眺めている翔太の表情は穏やかだった。しかし、どこか生気を失ったようにも見えた。


健一は翔太に声をかけた。「調子はいかがですか?」


「おかげさまで」翔太は機械的に答えた。「毎日平穏に過ごしています」


「それは素晴らしい」


翔太は再び空を見上げた。その瞳には、以前のような光がなかった。


「山田さん、僕は本当に治ったんでしょうか?」翔太が突然尋ねた。


「もちろんです。完全に回復しています」


「そうですね」翔太は小さく微笑んだ。「きっとそうなんでしょうね」


健一は翔太と別れた後、達成感に満たされていた。また一人の市民を救うことができた。これこそが自分の使命だった。


その日の夕方、健一は息子を迎えに保育園に向かった。息子は友達と楽しそうに遊んでいる。


「お父さん!」息子が駆け寄ってきた。「今日、翔太くんが変わったことを言ったよ」


健一は息子の話に耳を傾けた。翔太という名前に聞き覚えがあった。


「翔太くんが何て言ったの?」


「『僕のお父さん、お薬を飲んで元気になったんだ』って。でも、なんだか悲しそうだったよ」


健一の胸に複雑な感情が湧いた。翔太の息子もまた、父親の「治療」を目撃していたのだ。


家に帰ると、妻が夕食の準備をしていた。


「今日はどうだった?」


「翔太さんの治療が成功した」健一は報告した。「完全に労働願望が消失して、正常な状態になった」


「それは良かったわね」妻は微笑んだ。「あなたの指導の成果ね」


「そうだな。また一人、正しい道に導くことができた」


その夜、健一は満足感に包まれて眠りについた。翔太のケースは、存在給付制度の素晴らしさを再確認させてくれた。適切な治療により、どんな問題も解決できるのだ。


しかし、深夜に目を覚ました健一は、ふと翔太の最後の表情を思い出していた。あの虚ろな瞳は、本当に「治癒」の証なのだろうか。


健一はその疑問を振り払った。治療は成功したのだ。翔太は正常になった。それ以上考える必要はない。


翌朝、健一は爽やかな気分で出勤した。今日もまた、人々を正しい道に導く使命が待っている。存在給付制度という完璧なシステムを守り、社会の調和を保つ重要な仕事だった。


オフィスに着くと、新しい相談者の予約が入っていた。また誰か迷った市民が、適切な指導を求めてやってくるのだろう。健一は自分の能力に自信を持っていた。


窓の外では、治療を受けた翔太が公園のベンチに座っていた。穏やかな表情で空を見上げている。完璧に調和の取れた社会の中で、一人の市民が静かに存在給付を受けて生きている。


健一はその光景に満足した。これこそが理想的な社会の姿だった。誰もが平等で、誰もが安全で、誰もが幸福に生きられる世界。翔太のような問題も、適切な治療により解決できる。


健一の世界では、すべてが完璧に機能していた。そこに疑問の余地など、あるはずもなかった。

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