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楽園  作者: 椿小麦
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1話 親の遺伝子

1話『親の遺伝子』


「田中さん、今日もお疲れさまでした」


佐藤恵の声が、まるで水に落とした小石のように静寂を波立たせた。美咲はディスプレイから目を上げる。恵の唇は普段より薄く引き結ばれ、その下で顎が小刻みに震えている。


「佐藤さん、どうしたんですか?何か困ったことでも」


美咲は椅子を恵の方へ向けた。遺伝カウンセリングルームの白い壁に囲まれた空間で、二人の影が夕日に長く伸びている。恵の手が膝の上で握り締められ、関節が白く浮き出ていた。


「実は、相談があるんです」恵の声は普段の明るさを失い、まるで告白でもするかのように小さくなった。「私…子供が欲しいんです」


美咲は微笑んだ。「それは素晴らしいじゃないですか。遺伝子選択の準備を始めましょうか。どんな特性を重視したいですか?知能、運動能力、容姿、それとも健康面から?」


「いえ、そうじゃなくて」恵の目に涙が滲んだ。「私、自然のままの子が欲しいんです」


美咲の手が、無意識に机の縁を掴んだ。遺伝カウンセラーとしての7年間で、こんな要望を聞いたのは初めてだった。自然のまま──つまり、運任せの遺伝子組み合わせで子供を作るということか。


「佐藤さん、それは…」美咲の声が少し上ずった。「ちょっと待ってください。ちゃんと話を聞かせてください」


恵は涙を拭いながら頷いた。「夫の健司と話し合ったんです。健司は存在給付制度の研究をしているので、人間の幸福について深く考える機会が多くて。でも、どうしても気持ちの整理がつかなくて。田中さんなら、きっと私の気持ちを理解してくれると思って」


美咲は深呼吸をした。窓の外では、遺伝子設計センターの看板が夕日に照らされて金色に光っている。その向こうに、「エターナル・エクスペリエンス」という死体験ツアー会社の派手な看板も見える。その下を、明日の我が子の遺伝子を選択し終えた夫婦たちが、満足そうな表情で帰宅していく。


「具体的に、どういうことですか?」


「私たち夫婦の遺伝子を、そのまま組み合わせて子供を作りたいんです。病気のリスクも、知能の制限も、すべて受け入れて。運命に任せて」


美咲の胸に、説明のつかない困惑が広がった。恵の瞳は真剣そのもので、冗談を言っているようには見えない。しかし、その要望は現代の常識からあまりにもかけ離れていた。


「でも、佐藤さん、考えてみてください」美咲は職業的な笑顔を浮かべた。「遺伝性疾患のリスクを回避できるのに、なぜそれを選ばないんですか?子供が病気で苦しんでもいいというんですか?」


「違うんです」恵の声に力がこもった。「私は、その子がどんな子でも愛したいんです。完璧に設計された子じゃなくて、私と健司から自然に生まれてくる子を」


美咲は首を振った。「佐藤さん、愛情と科学的判断は別問題です。愛しているからこそ、最良の遺伝子を与えるべきなんです」


「自然に、ですか」美咲は恵の言葉を反芻した。「でも、佐藤さん、自然というのは残酷なものですよ。私たちは先祖が何千年もかけて克服してきた苦痛を、技術で回避できるようになったんです」


恵の目に、悲しみとも諦めともつかない色が浮かんだ。「田中さんは、ご自分のお子さんをどう設計されたんですか?」


美咲は迷わず答えた。「息子には最良の人生を与えました。IQ150、運動能力は平均の150%、遺伝性疾患のリスクはゼロ、そして穏やかで思いやりのある性格特性。親として当然の選択です」


「そうですね」恵は小さく微笑んだ。「太郎くんは本当に素晴らしいお子さんですものね」


「ええ、誇りに思っています」美咲の声に自信がみなぎった。「だからこそ、佐藤さんにも同じような選択をしていただきたいんです」


恵は長い間黙っていた。彼女の細い指が、膝の上で絡み合っている。


「田中さんは、偶然というものに価値を感じませんか?」恵の声は消え入りそうだった。「設計されていない、予測できない何かが生まれる可能性に」


「偶然?」美咲は眉をひそめた。「偶然は単なる無秩序です。私たちが克服すべき不確実性に過ぎません」


「でも、もしかしたら偶然の中に、私たちが想像もしないような可能性が隠されているかもしれません」


美咲は深いため息をついた。恵の考えは理解不能だった。完璧なシステムがあるのに、なぜわざわざリスクを選ぶのか。


「佐藤さん、現実的な問題があります」美咲は冷静に説明し始めた。「自然妊娠で生まれた子供は、現在の教育システムに適応するのが困難です。設計された子供たちの中で、一人だけ異なる特性を持つことになる。いじめの対象になるかもしれません」


「それは分かっています」恵の声に迷いがあった。


「医療費も高額になります。遺伝性疾患が発症した場合、治療費は全て自己負担です。お子さんが一生苦しむかもしれません」


恵の表情が暗くなった。「でも…」


「それに」美咲は決定的な論拠を述べた。「社会全体のことを考えてください。一人一人が最適な遺伝子を持つことで、人類全体の能力が向上し、争いも減り、平和な社会が実現されているんです。佐藤さんの選択は、この調和を乱すことになりかねません」


恵は深く俯いた。「私が…わがままなんでしょうか」


「わがままというより」美咲は優しく言った。「感情に流されているんです。母性本能は美しいものですが、それに理性を失ってはいけません」


「田中さんの言う通りですね」恵は小さくため息をついた。「私、少し疲れているのかもしれません」


美咲は安堵した。恵が正常な判断を取り戻してくれたようだ。


「そうです。落ち着いて考えれば、答えは明確です。来週、改めて遺伝子設計の相談をしましょう。きっと素晴らしいお子さんを授かることができますよ」


恵は立ち上がり、力なく頭を下げた。「ありがとうございました。田中さんのおかげで、目が覚めました」


恵が去った後、美咲は一人でオフィスに残った。窓の外では、完璧に設計された街の夜景が広がっている。均整の取れた建物、効率的に配置された街灯、そして幸せそうな人々の姿。美しく調和の取れた世界だった。


美咲は満足感に包まれていた。また一人、間違った道に進みそうな人を正しい方向に導くことができた。これこそが遺伝カウンセラーとしての使命だった。


自宅への帰路で、美咲は今日の出来事を振り返った。恵の奇妙な要求は一時的な迷いだったのだろう。妊娠への不安が、非合理的な考えを生み出したに違いない。正常な状態に戻ってよかった。


玄関で太郎が迎えてくれた。「お母さん、おかえりなさい!」


完璧に整った顔立ち、輝く瞳、屈託のない笑顔。設計通りの理想的な息子だった。


「太郎、今日は学校でどんなことを学んだの?」


「数学の新しい定理を習ったよ!それから、効率的な問題解決方法も。僕、クラスで一番理解が早かったんだ」


美咲は太郎の頭を撫でた。「素晴らしいわね。お母さんの設計が完璧だったからよ」


「うん!僕、お母さんとお父さんが選んでくれた遺伝子に感謝してるよ」


美咲の胸に温かいものが広がった。これこそが親の愛の形だった。子供に最高のスタートラインを与えること。恵にもいずれ理解してもらえるだろう。


夕食の準備をしながら、美咲は恵のことを考えていた。「偶然の価値」などという非科学的な考えに惑わされて、可哀想に。しかし、適切な指導により軌道修正できてよかった。


夫の健二が帰宅した。「今日はどうだった?」


「同僚が少し混乱していたけれど、正しい判断に導けたわ」美咲は今日の件を健二に説明した。


健二は首を振った。「自然妊娠なんて、時代錯誤もいいところだな。なぜわざわざリスクを取る必要があるんだ」


「そうよね。感情に流されると、判断を誤ってしまうのね」


「美咲は正しい対応をしたよ。君の助言で、その同僚も正常な判断を取り戻せたんだから」


美咲は微笑んだ。「そうね。明日からは通常の遺伝子設計の相談に進めるわ」


その夜、美咲は安らかに眠りについた。今日という日に満足していた。社会の調和を守り、一人の女性を間違った道から救い、息子の素晴らしさを再確認できた完璧な一日だった。


翌朝、美咲は爽やかな気分でオフィスに向かった。恵が正常な遺伝子設計の相談に来てくれることを楽しみにしていた。


オフィスに着くと、恵から留守番電話が入っていた。


「田中さん、昨日はありがとうございました。でも、一晩考えた結果、やはり自然妊娠を希望します。他のクリニックを当たってみることにしました。お世話になりました」


美咲は受話器を握りしめた。せっかく正しい道に導いたのに、恵は再び迷いの道に戻ってしまったのか。


しかし、美咲はすぐに気持ちを切り替えた。これは恵自身の選択だ。間違った道を選ぶ人を、無理やり引き止めることはできない。


「仕方がないわね」美咲は呟いた。「きっといずれ後悔することになるでしょう」


午前中の最初のクライアント、新婚夫婦が到着した。


「今日はよろしくお願いします」夫婦は明るい笑顔で挨拶した。


「こちらこそ。お二人の理想のお子さんを設計しましょう」美咲は職業的な笑顔を浮かべた。


カウンセリングは順調に進んだ。夫婦は明確な希望を持っていた。高い知能、優れた運動能力、芸術的才能、そして協調性のある性格。現実的で合理的な要求だった。


「素晴らしい選択ですね」美咲は承認した。「お子さんは必ず幸せな人生を送ることができるでしょう」


夫婦は満足そうに帰っていった。これこそが正常な親の姿だった。子供の将来を真剣に考え、科学的根拠に基づいて最良の選択をする。


昼休み、美咲は太郎の写真を眺めていた。設計図通りに育っている息子の姿に、改めて遺伝子選択の素晴らしさを実感する。


午後も順調にカウンセリングが続いた。みんな合理的で、建設的で、未来志向だった。恵のような混乱した人は例外中の例外なのだ。


夕方、窓の外を見ると、完璧に整備された街並みが夕日に照らされていた。効率的な都市計画、最適化された交通システム、そして設計された人々が創り出す調和のとれた社会。美しい光景だった。


美咲は深い満足感に包まれていた。自分は正しい世界の一部として、正しい仕事をしている。恵のような迷いは一時的なものに過ぎない。社会は正しい方向に進んでいるのだ。


帰宅途中、太郎を迎えに保育園へ向かった。園庭で遊ぶ子供たちを見ながら、美咲は微笑んだ。みんな健康で、聡明で、美しい子供たちだ。遺伝子設計の賜物だった。


「お母さん」太郎が駆け寄ってきた。「今日、数学のテストで満点だったよ!」


「素晴らしいわね」美咲は太郎を抱きしめた。「お母さんの期待通りよ」


「僕、将来は遺伝カウンセラーになって、お母さんみたいに人々を幸せにしたいな」太郎は完璧に整った歯並びで微笑んだ。


「きっと素晴らしいカウンセラーになるわ」美咲は太郎の頭を撫でた。「お母さんが選んだ遺伝子に間違いはないもの」


「そうそう、今日面白いことがあったんだ」太郎は目を輝かせた。「新しく転校してきた子が『パン屋さんになりたい』って言ったの。クラスのみんな、その子を見つめて首をかしげちゃった」


「パン屋さん?」美咲は困惑した。「そんな職業は存在しないのに」


「でしょ?先生が『パン製造は完全に自動化されているから、そんな職業はもうないのよ』って優しく教えてくれた。


その子、泣いちゃったんだけど、僕たちには理由がよく分からなかった」


「きっとその子の遺伝子設計に問題があったのね」美咲は冷静に分析した。「適切でない願望を持ってしまうなんて」


「うん。僕たちはみんな、ちゃんと社会に最適化された夢を持ってるからね」太郎は誇らしげに言った。


「田中くんは医師、佐藤さんは研究者、山田さんは教育者。みんな同じように合理的だよ」


「その転校生の子はどうなるの?」

「来週カウンセリングを受けるんだって」太郎は機械的に答えた。

「きっと適切な夢を持てるようになるよ。僕たちみんなで、その子が正常になるのを見守ってあげるんだ」


美咲は息子の優しさに感動した。「太郎は本当に良い子ね。困っている子を助けようとして」

「当然だよ」太郎は当たり前のように答えた。「異常な子を正常にするのは、僕たちの義務だもの」


美咲の目に涙が浮かんだ。完璧な息子だった。設計通りの、理想的な人間に育っている。


「きっと素晴らしいカウンセラーになるわ」美咲は太郎の頭を撫でた。「お母さんが選んだ遺伝子に間違いはないもの」


二人は手を繋いで家路についた。美咲の心は平穏だった。正しい選択をし、正しい人生を歩んでいるという確信に満ちていた。


遠く空の向こうで雲が流れていたが、美咲はそれに特別な意味を見出すことはなかった。雲は雲、空は空。それ以上でも以下でもない。すべてが明確で、合理的で、完璧な世界だった。


そんな美咲の世界で、恵だけが見えない何かを追い求めて、暗闇の中を歩き続けていることを、美咲は知る由もなかった。

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