第1話 マッチョ令嬢、婚約を破棄される
「君との婚約は破棄する!」
第一王子アレクシスから高々と宣言されたときにも、公爵令嬢コマンゾネスは微動だにしなかった。
2メートルを超える身長に、首、腕、胸、胴、脚にいたるまであらゆる部位が丸太のごとくに鍛えあげられた強靭なる体躯、眉や眼光までもたくましく、黄金としか形容できないほどに光りかがやく長髪――
“マッチョ令嬢”という異名に名前負けをするどころか、「この世のあらゆる言葉は彼女の筋肉のまえに無力だ」と当代きっての筋肉評論家に感涙を流させた肉体をもって、彼女はその突然の婚約破棄にこう答えた。
「それが殿下のご意向なれば、謹んで承ります」
そうして、コマンゾネスがその返答とともに放ったのは――あまりにも美しい敬礼であった。
ここ、メイトリクス王国においては、古来の慣習により男女それぞれに別の挨拶法が用いられており、コマンゾネスのその所作は女性のする最敬礼の意を表するものである。
ひざを曲げ、片手でふくらんだスカートを優雅におさえ、もう片方の手は胸へと添える。
絢爛豪華なる魔法学園の卒業パーティーの会場へ、あるいは稀代の芸術家が人類のとり得る最も美しい姿の彫刻をプレゼントしてみせたのでは、と群衆にゴクリとつばを飲ませるほどのふるまい――
いや、見よ。
その内面にひそむ、コマンゾネスの憤怒を。
デッドリフトや懸垂にて極限まで鍛えあげた背筋が膨張し、壮麗なるドレスの背なかがビリリと破れたではないか。
しかし、もともと広く肩を見せるデザインであったドレスはそのたくましい三角筋や僧帽筋に支えられ、落ちもせずコマンゾネスの姿態をひきつづき彩っている。
自分を連行するためにとり囲む第一王子の私兵隊を視界にとらえながら、
(結局、なにをやっても断罪イベントは回避できなかったわね……)
とコマンゾネスは思案にふけっていた。
コマンゾネスが転生前の記憶をとりもどしたのは、およそ2年前に108回目のベンチプレスをあげているときであった。
バーベルの重さは400キロ。これ以上の重さにすると、軸として活用している世界樹の枝が折れてしまうため、やむなくこの程度の重さでひかえて数をこなすこととしているのであった。
おつきのメイドのアンヌは悲鳴をあげる。
「お嬢さまァ! 国によっては国宝ともされる貴重な世界樹の枝を、なんですかその面妖な筋トレ? 尿モレ? のグッズとして活用するだなんてバチあたりな。いまは亡きご主人さまがご覧になったらどんなに悲しむか……!」
したたる汗をタオルであらあらしくぬぐいながら、コマンゾネスは
「わたくしは10代、尿モレにはまだ早いわ……。亡くなったお父さまへの敬意を忘れず、母なる世界樹をはじめとした自然への感謝を胸に――正確には大胸筋に宿しながら、筋トレにはげんでいるのよ。不敬など、どこにもないわ、アンヌ」
とおごそかに答えた。
いまにして思えば、この世界には存在していなかったバーベルという筋トレグッズをコマンゾネスが思いつくことができたのは、転生前の記憶の残滓によるものであったろう。
コマンゾネスの誇る大胸筋の右側が、ピクンとはねた。
そう、自分は――病弱な女子高生にすぎなかったはずの自分は日本という国で17年生きたのち、病没したはずであった。
それがいまや、どういうことだろう。
岩をも砕けそうな自分のてのひらを見、大腿四頭筋に滞留するとまどいをキュッと筋肉を圧縮せしめることでねじ伏せ、姿見へと移動したコマンゾネスは鏡面にうつったその転生後の肉体に見とれた。
生命にみちみちた巨躯、筋繊維の一本一本にいたるまでみなぎるパワー。
思わずポージングをし、白く揃った歯をニカッときらめかせてみせる。
「お嬢さまァ! そのサイドチェストとかいうポージングはアレクシスさまのお顔がひきつるのでおやめくださいと何度申し上げたことか……ッ!」
アンヌの絶望の咆哮を耳に入れ、ポージングを少々変えつつ、コマンゾネスは自分の置かれた立場を理解した。
これは、自分が病室で夢中になって(あるいは、つらい現実からのがれるように)プレイしていた数ある乙女ゲームのなかでも、いわゆる「バカゲー」と呼ばれるもののひとつ――『聖女の祝福と怪女の筋肉』の世界であろうことを。
そして、自分がその怪女――悪役令嬢コマンゾネスとして転生したのであろうことを。
(この乙女ゲームにあるまじき強烈な見た目、見まちがいってことはなさそうね……?)
そう自分に問いかけると、今度は大胸筋の左側がピクンピクンとおどることで肯定してくれる。
プレイヤーは主人公の聖女として2年間にわたり魔法学園へ通い、同学校のさまざまな男子たちと恋をするゲームであったはずだが、その恋路をさまざまな手段でジャマするライバル役のコマンゾネスは、たいていのルートで第一王子から婚約破棄を告げられ最後には死んでしまう。
記憶をとりもどしてからは、どうにか自身の破滅をまぬがれることができないかと奔走していたものの、「シナリオの強制力」とでもいうべき力にはばまれ、どうしても自分の見覚えのあるイベントにもどってきてしまうのだった。
そしていま、ゲームのフィナーレを飾る学園の卒業パーティーを迎えてしまい――自分は断罪されようとしている。
「中庭へ連れていけ! 処刑だ、すぐに処刑するんだッ!」