56.行方眞67歳④
「さぁさぁやって来ました老害審判です! 本日の対象者はT大卒の行方眞医師六十七歳です!」
北山アナウンサーは、この日は行方に対して『老害』という言葉を使わなかった。先日国からきつく要望されたように、行方を死刑回避させるための戦略だった。
「T大博士課程を修了されてから、S市で心療内科のクリニックを開業されているお医者様です。地元の人たちに頼りにされ、愛されている評判の良いクリニックだそうですよ」
ごりごりに見え透いた忖度具合だが、自分の立場を守るためには仕方なかった。
行方眞は、上下濃い紺色の上質なオーダーメイドのスーツに、オフホワイトのワイシャツを着て、シルクの淡いピンク色のネクタイを付けていた。
堂々と壇上に立つ姿は、俊秀の医師そのものだった。
「それでは行方眞さんのプロフィールムービーをご覧頂きましょう! 皆様、行方先生のプロフィールムービーを良くご覧になって、冷静な判断をお願いしますね!」
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行方眞は、地方都市の医者一族の二人兄弟の次男として生まれた。代々続く医師の家系で、父親と祖父は総合病院を経営していた。兄はK大を卒業後医師として祖父と父の跡を継ぐべく総合病院へ就職した。
眞は幼稚園に通っていた時には英語とドイツ語をマスターし、高校卒業程度の数学も完璧に理解するなど、周囲からは神童ではないかと言われていた。
私立の小学校に入ってからは極めて優秀な成績を収めた。運動も得意で、幼少期から空手を習い少年野球にも精を出した。
中学校は受験をしてその地域で最難関の学校に入った。そこでも眞はすこぶる優秀だった。この頃には空手は辞めていて、甲子園出場を目標に野球一本で勝負していた。
エスカレーター式で付属の高校に行くと、野球に青春を捧げながらもT大医学部を目指して猛勉強をした。それでなくても優秀だった眞の成績はますます磨きがかかり、三年間学年トップを維持した。野球で甲子園に行く事は叶わなかったが、今でも野球観戦を趣味にするほど野球はかけがえのない存在となっている。
眞は現役でT大医学部に合格すると、単身上京し家庭教師のアルバイトをしながら勉学に励んだ。アルバイトをしなくても生活費には困らなかったが、教えるという作業をする事は自分にとっても過去の知識の見直しとなって、良い勉強になるのでしていたのであった。
T大医学部を博士課程まで修了後、同大付属病院で研修をし、十年間務めた。
その後、生まれ故郷の地方都市S市に戻り、心療内科クリニックを開業した。
その間に結婚をし、妻との間には一男二女の子供にも恵まれた。
心療内科クリニックは「感じの良い先生」「切り口が爽快な先生」として評判になり、地域の精神医療においてなくてはならない存在になっている。
現在も患者を多数抱え、頼りにしている人間は数多くいる。週に一度は都内のクリニックでも診療を受け持っている。そちらでもすこぶる評判が良く、診療に欠かせない医師として重宝されている。講演活動も精力的に行っており、心と身体のメンタルヘルスを易しい言葉で紐解く内容は全国で評判が高いものとなっている。
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S市役所の職員が作ったプロフィールムービーは、行方眞の優秀さと、そのぶれない勤勉さを前面に押し出したものになっていた。国から力を入れて作れと言われていたので、少しの手抜きも許されなかった。江中は何日間も徹夜してこの動画を作った。
「さぁぁ、プロフィールムービーの放送が終わりました。行方先生は地域の皆様にも、東京の患者さんにも、さらには全国の皆様にも愛されているとても素晴らしいお医者様なのですね!」
北山アナウンサーは、内心ではこの美辞麗句がつまらなくてしかたなかった。
(死ねばいいのに、こんな成功者)
内心では、そう思っていた。老害審判を担当したがために家族を失った自分と、それに引き換え全てを持っている行方医師が羨ましかったのだ。
しかし、この審判が死刑になれば自分はこの番組の担当を下ろされてしまう。つまり、自分の立場も名声も全て失くしてしまう。それだけは阻止したかった。
「それでは、行方先生ご本人から今回の老害審判にあたって弁明のお言葉を頂戴しましょう!」
現段階では、北山やS市役所担当者の努力は実を結んでおり、認定三十七パーセント、否六十三パーセントだった。