30.悪夢
「はぁ……はぁ……はぁ……!」
男が暗い道を走っている。周囲には何もない。ひたすら暗闇が広がる無の空間だ。
「来るな! こっちに来るな! 来るなぁぁぁ!」
男は必死にそれから逃れようとするが、上手く足にスピードが乗らない。走っているようでいて走れない、もどかしい、足が重い。
「走れない……! こんなに必死に走っているのに前に進まない。何故だ。足よ動け! じゃないとあれに捕まるぞ!」
それは男の五十メートル後方を追って来ていた。
黒いフードマントを被った骸骨のそれは、まさに死神だった。手には鎌ではなくライフル銃を持っている。
「逃げろ……! 逃げなければば殺られるぞ!」
男はなおかつ逃げようとする。だが前に進めない。
「くそぉぉぉ! 足よ動け! もっと早く逃げるんだ!」
そう叫んでいる間にも、どんどんと死神は近付いて来る。逃げようとする男に向かい、死神は冷淡にこう告げる。
「死刑、執行!」
ライフル銃から弾丸が放たれる。弾丸は一直線に男めがけて飛んでくる。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
***
「……た……なた……あなた!」
男は誰かに叩かれて目を開けた。全身汗まみれで、息は上がっているし自分に何が起きていたのか正しく把握するのに少しの時間を要した。
「はぁ……はぁ……生きて……いる……」
「あなた、大分うなされてたわ。またよ。最近毎日うなされているわ」
「水を……水をくれ……」
男はベッドサイドから水を取ると、一口含んで溜息を付いた。
「またいつもの悪夢だ。いつもの死神の……」
「慎二さん、あなた無理をしているのよ」
男、北山慎二は国営放送のアナウンサーとして、老害審判の放送に携わっていた。初めて目の前で銃殺される老人を見てからというもの、毎日この悪夢にうなされている。
「慎二さん……無理を続けないでお仕事を辞めてくださらない? 私、もうこんなあなた見ていられないわ」
妻の聡美は、北山を宥める様にそう言い聞かせる。
「ダメだ。老害審判を世の中に伝える事は、俺にしか出来ない大切な仕事なんだ」
北山は、この仕事に誇りを持っていた。四半世紀続けて来たアナウンサーという職業を誇っていた。
「でも、あなた毎晩辛そうだわ」
「辛いだなんてあるもんか。俺はこの仕事に誇りを持っている」
「どんどん痩せて行っているし、食事の量もどんどん減って行っているし。このままだと倒れるわよ?」
「倒れたら倒れたで本望だ。俺はそんなにやわじゃない」
北山は妻が何を言っても聞く耳を持たずと言った感じの返事を繰り返した。
「そう……何を言ってもダメなのね。こんな時にこんな事を言いだすのも悪いんだけど……」
「なんだ? なにか話があるのか?」
聡美は一瞬目を伏せて声色を落とすと、今度は真っ直ぐと北山を見据えてこう言った。
「えぇ……離婚して下さい」
「何!?」
北山にとっては青天の霹靂だった。妻の聡美とは仲睦まじく過ごしていたし、娘の亜理紗だって幼稚園に通っていてこれからお金が掛かる時期だ。なのに何故離婚なのか。
「何故……何故離婚なんだ?」
「亜理紗が幼稚園でいじめられているのよ。『お前のパパは死刑の手伝いをしているんだ!』ってね」
「そんな……私は手伝いなどしていない! 老害審判を正しく伝えるために自分の仕事を全うしているだけだ!」
「でも、あなたのアナウンスが回を増すごとに興奮して行っているのは視聴者目線で見ても明らかだわ。だから、もうこのお仕事は辞めて欲しいってお願いしているの」
「私のアナウンサー人生を潰すつもりか!?」
「ほら……! 言っても無駄! 私もう亜理紗を連れて出て行きます」
そう聡美は言い放つと、深夜一時だというのに寝室のドアをバンッと開けて出ていき、あらかじめある程度まとめてあった荷物を持ち、亜理紗を連れて出て行った。
「何なんだ……どいつもこいつも……! 私はアナウンサーとして正しい事をしているだけだ……!」
北山には全てが納得いかなかった。自分は正しい事をしている。そう信じているのだから。
しかし、亜理紗が幼稚園でいじめられているのは事実だった。親たちはなるべくならば子供に刺激的な映像は見せまいとして、子供の前で堂々と老害審判の中継を観る事は避けていたが、スマホで観ているのを覗いてしまったり、会話の話題に上がったりする事で、その司会をしているのが亜理紗の父だと子供たちにもすぐに認識されたのだ。
子供は残酷だ。思った事をそのまま口に出す。また、大人たちの口ぶりから北山アナウンサーが死刑の手伝いをしていると判断したのだろう。その無邪気な心から出て来た言葉は亜理紗のメンタルをずたぼろにした。そんな亜理紗を見ていた聡美はもうこの状況に耐えられなかったのだろう。
そしてこの夜、北山の説得を試みたが、北山が聞く耳を持たないので出て行ってしまったのだった。
北山は聡美と亜理紗が出て行ってしまった家のキッチンで、「寝酒だ!」と強い酒を一気に煽り、気絶するように寝てしまった。




