最強の大魔導士様、中身がへたれすぎて困惑中なのですが
「準備は整いました。後はあなたに出ていただくだけです」
ある人物の背中に、私はそう告げる。しかし、彼は窓の外を見つめたまま、動こうとしない。
「何を考えてらっしゃるんです?」
ため息交じりに尋ねると、彼はようやくこちらを振り向いた。神様に愛されたとしか言えない、美しく整ったその顔は、しかし今、ひどい苦痛の色に染まっている。
「……今、物凄くお腹痛くて」
伏せられた長いまつげの上を、憂いが滑っている。
「道中で万が一漏らすことがあったら、その後の私の人生はどうなるんだろうと、ずっとそう考えているんです」
そう言って、彼は儚げな表情を浮かべる。
「まあ、終わりでしょうねえ。十中八九、これからの通り名は脱糞卿ですよ」
「……やっぱり行くのをやめちゃだめですか?」
「何言ってるんですか。行くんですよ、へたれ野郎。ほら、みんな待ってるんですから」
私は男の手を掴んで、無理やり部屋から引きずり出す。
「ちょ、ちょ……! 今、物凄いせめぎ合いの最中なんです……! もう少しデリケートに扱ってもらえたりしませんか……!」
「往生際が悪いですね。安心してください。もしも漏らしたら、その時は私が終わらせてあげますから。物理的に」
「え……?」
固まりついた彼を、私はしょっ引いていく。本当に情けない。まさかこれが天下の大魔導士様だなんて、誰も信じられないに決まってる。私だって、最初は信じられなかった。
はあ……。またため息が出る。一体全体どうしてこうなったのか。そもそもの始まり。この人との出会い。それは一か月ほど前、私がこの街にやってきたことにさかのぼる。
*
ルーナリア帝国、その帝都から離れること十数日。私、アイシェ・フォン・リーゼンバーグは、北部中枢都市メイデへと向かっていた。北部は昔から魔物が多い。そこに点在する居住地の生活を成り立たせるため、メイデは中継地点として重要な役割を担っている。
「それにしても、若いお嬢さん一人で、いったいここらにどんな用事があるんだい?」
商団の馬車に乗せてもらっていると、乗り合わせた商人が、今更だけど、と首をかしげて尋ねてくる。
「私は……」
その時、
「魔物が出たぞ!」
叫び声に馬車から顔を出すと、商団の最後尾の馬車に、何かが飛びかかっているのが見えた。
「急げ! 早くメイデまでたどり着くんだ!」
一団は森の中を全速力で飛ばしていく。
「間に合うんですか⁉」
「分からん! ただ、あの一台は切り捨てることになるかもな!」
「だったら、私が行きます!」
マントの下の剣を抜くと、私は荷台の上に飛び乗った。物凄いスピードに振り落とされそうになりながらも、隊列を組んだ馬車の上を飛び移っていく。やがて、私は魔物に襲われている馬車へとたどり着いた。そうするうち、馬車は森を抜け、一気に明るい日差しが降り注ぐ。
これは——かぎ爪兎だ。人間と同じほどの大きさのこの魔物は、発達した鋭い爪で馬車にとりつき、馬車を破壊している。私はそれめがけて剣を振り下ろす。しかし、その瞬間、目の前で光線がかぎ爪兎を貫いた。かぎ爪兎は地面に落下し、もう追いかけてこなくなった。
遠距離攻撃魔法。それもこんなに正確に。私は唇をかみしめ、魔法の飛んできた方向を睨みつける。平原の奥、そこには巨大な城門に囲まれた城と街がそびえ立っていた。これがメイデ——大魔導士の治める街だ。
*
その後、一団は無事にメイデへとたどり着いた。城門が開けられ、街の中へと迎え入れられる。
「さっきは災難だったな。ここまで来たらもう安心だぞ」
門をくぐると、城壁を守る兵士たちがやって来る。
「いや、危機一髪だった。死ぬかと思ったよ」
商人の台詞に、
「いやいや、メイデの目と鼻の先で、死人が出るわけないさ。なんたって、ここにはあの方がいらっしゃるんだから」
と、兵士は得意気に胸を張る。
「あの方……」
私が呟くと、
「そうさ。ほら、ちょうど今あそこに……」
彼が指さす城壁の上に、その人はいた。
「わ……」
思わず声が出るくらい、本当に美しい人だった。腰まで達する銀色の髪の毛が、すっと風になびく。細身の長身は、ゆったりとしたローブに包まれている。どことなく中性的なその顔は、まるで神様の最高傑作のように美しく整っている。
彼はゆっくりと階段を下りて、私たちのいる城門のところにやって来る。
「あの……!」
私は声を張る。
「あなたが……大魔導士殲滅卿でいらっしゃるのですか」
この世界では、限られた一部の人間のみが魔力を有している。魔法を使って国を守る魔導士は誰もが尊ぶ英雄だ。そして、その魔導士の最高位こそ、国に数人しかいない大魔導士なのだ。
「はい。ここ、メイデの統括を仰せつかっています。エリアスと申します」
そう言って、彼は礼をした。
彗星のように突如現れ、わずか数年のうちに、大魔導士に上り詰めた男。それが殲滅卿エリアスだ。年齢は確か二十二だったか。だとして、それ以外の情報は謎に包まれている。確かなのは、圧倒的才能のみ。我が国始まって以来の魔法の天才と名高い、英雄の中の英雄だ。
「はじめまして。アイシェ・フォン・リーゼンバーグと申します。今日よりお世話になると、お話を通していただいていたかと存じますが」
「ああ、リーゼンバーグ殿ですね。ご到着をお待ちしていました。こちらこそ、どうぞこれからよろしくお願いします」
私がはるばるメイデまでやってきた理由。それは殲滅卿のお付き武官になるためだった。
一言に魔導士と言っても、そこには二種類いる。魔法のみを極めた、純粋な魔導士。そして、魔術に加え、武術をも修めた魔導騎士。殲滅卿は前者だ。よって、物理戦闘の方はからっきしらしく、武芸に秀でた側仕えを探していた。私はその腕を買われ——というのが、表向きの理由。まあ、裏について、今さら考えることはしないけど。
「それなら、仕事がてら街を案内しますよ。さっそくですが、どうぞついてきてください」
言われるまま、私は彼に続いて街へと繰り出す。流石は中枢都市だ。人も物も集まって、予想以上に栄えている。魔物の被害もあり、北部は厳しい状況だと聞いていたが、もしかすると正しい情報が伝わっていなかったのかもしれない。
そして、どうやら殲滅卿は人望が厚いらしい。歩くだけで、老若男女が取り囲んでくる。街全体をぐるりと一周する頃には、日がとろとろと落ちていった。
ようやく城に入ると、しかし、息をつく暇もなく、殲滅卿は大広間へと向かった。交易を行う貴族や商人が大量に集まっているためだろう。そこでは豪勢なパーティーが催されていた。
「まあ、殲滅卿!」
「お待ちしておりましたのよ!」
入口をくぐった瞬間、物凄い勢いで押し寄せる令嬢たちに、私はごみみたいに吹っ飛ばされた。えっと……ここは盛り場ですか? なんでこんなところに令嬢たちが? そう思ったが、あわよくばこの天才に娘を近づけて——ということか。
かわいい令嬢に取り囲まれ、殲滅卿がまんざらでもなさそうに微笑んでいるのが見える。邪魔するのも悪いか、と私は大人しく側を離れる。
それからしばらくの間、令嬢たちの黄色い歓声がここまで聞こえていたが、
「あら? 卿はどちらへ?」
「どこかへ行ってしまわれたわ」
「またなの? いつも途中で席を外してしまわれるわよね」
見ると、本当だ。殲滅卿はいつの間にか姿を消している。さては、気に入った令嬢と抜け出して、今頃よろしくやってるんだな。まったく優雅なご身分だ。
結局、殲滅卿は終盤にしれっと戻ってきて、それっぽく宴会を閉めた。器用な人だ。
「これから、仲良くやっていきましょうね」
城の一室まで私を送り届けると、最後、殲滅卿はそう言って去っていった。
*
そして、この春、私のここでの生活が始まったのだ。
街を囲む防御結界を保つことが、殲滅卿の一番の仕事だった。その他では、この街から旅立つ旅団に防御魔法を与えること。道中の情報を集め、安全なルート作りに役立てること。北部地域全体の繋がりを守るために大切な——だけど、はっきり言って、大して苦労もない楽な仕事だ。
それなのに、毎晩パーティーはあるし、辺境伯以上の収入を得ているし、女にもてもてだし、ほんと、この人上手くやってるよなあ、と思う。
こうしている間にも。命がけで戦って成果を上げている魔導士たちがいる。十六の同輩たちも、魔導士としての実績を積んでいる。私も早く登竜門である、魔導騎士団への入団をしなければいけないのに……。平和ぼけした場所で、焦りだけがつのっていく。
空虚な生活の中、事件が舞い込んできたのは、そんなある日のことだった。殲滅卿の元へ兵士たちがぼろぼろの商人を連れてきた。
「ソマリの森で巨大な鳥がお仲間をさらっていった、と」
話を聞いて、殲滅卿は考え込む。
「おそらくですが、まだ殺されてはいないでしょう。鳥の魔物は、大抵獲物を生きたまま巣に運ぶものですから。かと言って、猶予がそれほど残されているわけでもありませんが」
「そんな……」
打ちひしがれる商人らに、
「大丈夫ですよ。今すぐに私が救い出しに向かいます」
「なんとありがたい!」
「流石大魔導士様!」
彼らは神様でも拝むみたいに頭を下げる。にこにこしてそれを見ている殲滅卿は、さも当然といった調子なんだろう。相変わらず自信満々ですこと。
あっ、でも……。その時、私はいいことを思いつく。
「もちろん、私もご同行します」
これはチャンスだ。この人が何かする前に、私が魔物を打ち取り、実力を証明して見せる。
*
結果、私は殲滅卿と二人で、ソマリの森へとたどり着いた。
「話ではこの辺りですね。魔力も微小に残ってますし、縄張りと考えて間違いないでしょう」
「じゃあ、今でもこの近くに……?」
「ほら、さっそくお出ましですよ」
びゅうと吹く風に身体をあおられると、次の瞬間、上空に巨大な鳥が出現していた。
「風切り鳥。なかなかに厄介な魔物です」
殲滅卿は言う。
だが、風切り鳥は空中にとどまるだけで、何か仕掛けてくる様子はない。ただ、殲滅卿と互いににらみ合っている。
「……なんですか。ただでかいだけの鳥じゃありませんか」
今がチャンスだ。私はすかさず矢筒から矢を引き抜き、弓を放った。矢は真っ直ぐ飛んでいき、魔物の腹に突き刺さる——はずだった。だが、途端に強い風が魔物の周囲に発生し、矢は力なく落下する。風魔法……⁉
「下がってください、リーゼンバーグ殿……!」
瞬間、風の刃がこちらめがけて放たれる。だめだ、防ぎきれない……! 固まる私の前に、防御壁が立ちはだかって、斬撃を跳ね返す。殲滅卿が作り出したのだろう。だが、彼の注意が私へと向いた隙を、風切り鳥は見逃さなかった。瞬く間に風の渦が地面から立ち昇り、気付けば私たちは空中に吹っ飛んでしまっていた。
*
「うう……」
地面に転がっていた私は、ゆっくりと目を開ける。不思議なことに、怪我はまるでしていない。
とりあえず、まずは殲滅卿を探さなければ。身体を持ち上げ、辺りをぐるりと見回した私は、近くの茂に人がいるのに気付く。両手足を地面について、倒れるようにうずくまっている。そして、その衣装には見覚えがあった。
「殲滅卿……⁉」
私は駆け寄る。
「ご無事ですか⁉」
「ええ……。でも、動けなくて……」
「怪我をなさったんですか⁉」
「いえ、それは大丈夫なんですが……」
「では、いったいどうしたんです⁉」
この様子は明らかにおかしい。きっと何か重大な理由があるはず——
「その、腰が抜けて……」
「は?」
一瞬、耳を疑う台詞が聞こえた気がしたけど、流石に聞き間違いに決まってる。私がそう思っている間に、
「と、というか、実は、もう結構無理で……うっ」
口元を手で押さえたかと思った途端、殲滅卿はおろおろと吐き出した。えっと……今、何が起こってるんだろう。この人は最強の魔導士で、めちゃくちゃ美人で、いつでも自信満々で……。
「……いったいどうしてこのようなことに⁉」
きっと深いわけがあるのだ。さっきの魔物による何らかの——
「……いから」
「え?」
「そんなの、怖いからに決まってるでしょうが!」
殲滅卿は必死の形相で絶叫した。
「いや……」
私は苦笑する。
「いやいやいやいや」
まさか。有り得ない。
「だって、あなた、大魔導士じゃないですか!」
「魔導士だって、怖いものは怖いんですよ!」
「だけど……魔物となんて何回も戦ってるんでしょう!」
「だからって慣れるわけないじゃないですか! 今だって、下手すれば死んでいたかもしれないんですよ⁉ もう怖くて怖くて!」
「そんなの、魔法でやっつければいいじゃないですか! 魔法が得意なんでしょ⁉」
「そりゃあ魔法はできますよ! だけど、攻撃魔法なんて、ちょっと間違えたらこっちが死ぬかもしれないんですよ! そんな危ないものを使って、安心できる方がおかしいでしょう!」
「あっ、そう! だったら、魔物も魔法も怖いから、戦うのはしたくないって、そう言えばいいじゃないですか!」
「そんなこと、今さら許されると思いますか⁉ 無理に決まってるでしょう! 気付いたら、大魔導士殲滅卿なんて呼ばれて、みんなに担ぎ上げられちゃって、もう収拾がつかないんですよ……!」
そう言って、殲滅卿はぼろぼろと涙を流し始める。
「もうやだ……。ほんと、やめたい、この仕事……」
あ、そうか。私は全てを理解して、そして叫んだ。
「このへたれ野郎があああああ!」
この時、私は図らずも知ることとなってしまったのだ。天才魔導士とあがめられるこの男、殲滅卿エリアスが、その実とんでもないへたれ野郎であることを。
「だとしても、今はそうやってへたれてる場合じゃないんです! 早く立ってください!」
「私だって頑張ってるんです……! だけど、できなくて……」
殲滅卿は地面でなめくじみたいにぐにゃぐにゃしている。それを見ているうち、私の視線はどんどん冷えていく。
そして——ほんと、どうしてこうなったんだろう。私は酸っぱい臭いがするお荷物を、背負って運ぶことになった。
「とにかく、魔物のところへ向かいましょう」
殲滅卿を背負って進みながら、私は言う。
「今頃巣に戻っているはずです。一旦魔力を確認しましたから、探知できますよ」
そう言って、殲滅卿は目をつぶる。
「あ……分かりました。今からお送りしますね」
途端、情報が直接私の脳内に流れ込んでくる。まったく無駄に高性能のお荷物だ。
結果、私たちはあっという間に岩山にたどり着いた。
「着いちゃいましたね……」
到着早々、殲滅卿は泣き言を言う。
「感知結果によると、この岩山の中に空洞があって、そこが風切り鳥の住処らしいです。風切り鳥は頂上の穴から出入りしているようですけど、外に出てこさせた方が何かと楽でしょうね」
「どうやって風切り鳥をおびき出すおつもりで?」
「とりあえず、この山を爆破します。そうすれば、流石に出てくるでしょうし」
「なるほど、山を爆破……」
私は復唱しかけ、
「え、今なんて……」
「じゃあ、やりますよ」
私が言い終わるより早く、殲滅卿は弱々しく指を動かした。その瞬間、目の前で物凄い爆発が起きた。わー、すごーい。岩山が崩落していくー——って、いや、何、この威力? 普通、爆発魔法なんて、馬車一つ吹っ飛ばせたら気絶レベルなんだけど?
その時、おぞましい鳴き声と共に、岩山の中から風切り鳥が姿を現した。
「うああ、来ちゃいましたよお……」
殲滅卿は今にも泣きだしそうな声を出す。
「私はあれの相手をする……しかないですもんね。リーゼンバーグ殿は、中にいる人々を連れ出してください」
嫌々といった調子で言うと、殲滅卿は地面を蹴り、空中に飛び上がった。そのまま風切り鳥のところまで上がっていく。浮遊魔法、それも高度の。私はあっけにとられていたが、言われた通りここは彼に任せ、岩山の中へと急ぐ。
奥まで進むと、そこには商人たちがいた。
「君、魔物はどうした⁉」
「この爆発はなんなんだ⁉」
「殲滅卿がいらっしゃっているのです。今、魔物と戦っていらっしゃいます」
怯えていた人々は、殲滅卿の名前が出た瞬間、もはや全てが解決したみたいに笑った。
「良かった、助かったんだなあ」
「まだ助かったと決まったわけでは……」
「大丈夫だよ。あの人が負けるはずないからさ」
「でも……」
人々の無事を確認できた私は、一人急いで岩山を出た。
「お帰りなさい」
そんな私を迎えたのは、完璧な笑顔だった。無傷で立っている殲滅卿。その足元には、巨大な魔物が横たわっている。
「あの……それ……」
「ああ、もう討伐しましたよ。持って帰ったら、城の料理人が喜ぶでしょう。今夜は焼き鳥が食べられそうですね」
殲滅卿は微笑んで、何もない場所に死体をしまい込んだ。空間魔法だ。なんか……いや、もう何も驚かないでおこう。
「殲滅卿!」
「助けてくださりありがとうございます!」
そのうち、商人たちがやってきて、顔を輝かせる。
「あなた方が無事で何よりです。疲れているでしょう。後はゆっくり街で休んでください」
殲滅卿は全員に軽く回復魔法をかけ、
「さあ、帰りましょうか」
と、救世主面で微笑んだ。
そして、私たちは歓声と共に凱旋した。
「ありがとう……ありがとうございます……!」
仲間と再会した商人たちは、涙を流して殲滅卿にすがりつく。そんな感動シーンを遠巻きに見ていると、
「リーゼンバーグ殿」
「へ、へあっ⁉」
いきなり呼ばれ、私は素っ頓狂な声を上げる。
「今後のことについてお話ししたいので、少しお時間を頂戴してもいいでしょうか?」
そう言って、殲滅卿は不敵に微笑んだ。
「わ、分かりました」
その後、私と殲滅卿は、二人きりで長い長い廊下を進んでいく。城の奥まった場所にある部屋は、おそらく彼の私室だろう。そこに入った途端、ばたん、と扉が閉じられる。
あれ? これって、実はかなり危険なのでは? 正体を知られてしまったからには、ここで死んでもらうとか、そういう展開なのでは? 途端、すっと血の気が失せていくのが分かった。
「あ、あの……!」
しかし、私が言い終わる前に、
「先程は醜態を晒してしまい、誠に申し訳ございませんでした……!」
殲滅卿は物凄い速さで土下座した。
「あの時は私も気が動転して、どうかしてたっていうか……。とにかく、忘れてください……! さっき見たこと、あと、今私がやってることも忘れてください……!」
そう言いながら、彼はごんごん額を床に打ち付ける。あ、良かった……へたれだ。そう安心しかけ、しかし私は気を引き締める。ピンチを切り抜けて満足するのでなく、むしろチャンスにする心構えでいなければ。
「忘れられるはずがありません……。ルーナリア一の魔導士と名高い殲滅卿が、まさかこのような腰抜けだっただなんて……」
私はひどくショックを受けた声音を作る。
「もしも、私がショックのあまりこのことを触れ回り、皆が知ったらどうなるでしょう……? きっと皆、私よりもショックでしょうね……。あんなにかっこいいと思ってた殲滅卿が、まさか……」
その台詞に、殲滅卿の青い顔がさらに青くなる。
「ですから、取引といきましょうよ。私は魔導騎士団への入隊を叶えたいんです。何らかの功績があれば、推薦を得て、入隊が可能になります。ですから、私が武功を立てた時、あなたは私を魔導騎士団へ推薦してください」
よくもまあ、一瞬でこんなことを思いつく。ああ、自分の悪知恵の才能が怖い。
「え? たったそれだけでいいんですか?」
「もちろん」
「分かりました。ですから、どうか……」
「ええ、これは私たちだけの秘密です」
今度、不敵な笑みを浮かべるのは私だった。
「これからよろしくお願いしますね、大魔導士様」
そして、弱みを握った私と、へたれ魔導士の生活が始まったのだった。
*
そして、冒頭の場面に戻る。
殲滅卿を引きずりながら、私はため息をつく。私は物凄く後悔していた。なぜか。この人が度を越したへたれだったからだ。そして、最悪なことに、秘密を知ってしまった私は、唯一泣きつける相手と認定されてしまって、面倒くさいことこの上ないのだ。
あと、これは新しく気付いたことだけど、この人、魔導士に向いてないだけじゃなくて、人間に向いてない。ただでさえ仕事にストレスを受けてるくせに、街の人の頼みを片っ端から引き受け、自分で自分を追い詰めていく。怪我人や病人の治療、物の修理、迷い猫探し、子供の遊び相手に、果てには悩み相談……。いや、もう魔法関係ないじゃん。お前はいったい何がしたいんだ? そう突っ込みたい。
そんな雑用、適当にやればいいのに、完璧な大魔導士様を演じているものだから、この人は全てを完璧にやろうとする。そして、毎度毎度そのプレッシャーでげっそりしているのだ。外面の良さをいい加減にすればいいのに。ほんと、魔法が上手いだけの阿呆だ。見てていらいらする。
武功を立てる計画も、まったく上手くいかない。チャンスがあるのは、定期的にある魔物の討伐だけ。だとして、この外面だけはつよつよの魔導士が、大抵の場合魔物を瞬殺してしまう。私はいたずらに体力だけ消耗して、結局何もできないでいた。
私が苛立っているのに気付いたんだろう。
「そんなに根を詰めず、気楽にしていてくださいよ」
討伐から戻った後、殲滅卿は吞気なことを言った。
「実際のところ、私の名前があれば、入団は確実に通ると思いますよ。業績をでっちあげたところで、どうせばれませんし。だから、無理をする必要なんてないんです。お望みなら、今すぐにでも推薦できま……」
「馬鹿にしないでください」
私はむっとする。
「そのような姑息な手段を使わずとも、ふさわしさを証明して見せます。あなたには、私をちゃんと認めていただきますから」
「はあ」
殲滅卿は首をかしげた後、
「そういえば、あなたに手紙が来てましたよ」
と、手紙を差し出してくる。
最悪。家からの手紙だ。私は読まないままそれをしまい込んだ。
まったく、どいつもこいつもわたしのことをなめてる。絶対、なめてる。私は荒々しく殲滅卿の部屋を後にした。
*
それからまた二十日ほどがすぎた、ある日。私たちは、泊まり込みで集落を三つ回る討伐の任務に出た。一件、二件、と順調に討伐を終え、夕方には三件目の村にたどり着く。村人から状況を聞いているうち、殲滅卿の足元に一人の少女がぱたぱた駆け寄ってきた。
「あの! まどーし様! これ、魔法で直してください!」
幼い少女が差し出したのは、壊れたオルゴールだった。
「だめだよ。魔導士様は魔物を退治するために来て下さったんだから」
父親がたしなめるが、
「いいですよ。討伐の合間に直しておきます」
殲滅卿は爽やかに微笑んだ
「できるんですか?」
「ええ、できますよ」
「ありがとうございます! 良かったな!」
父親は娘共々顔を輝かせる。
今日はもう遅いということで、討伐は明日の朝一で行うことになった。私たちは用意してくれた家に寝泊まりしたのだが、
「いや、できないんですけど……!」
部屋の中でオルゴールをいじり始めて数分、殲滅卿はぼろぼろ泣き始める。はあ……思った通りだ。
「どうなってるんですか、これ? 仕組みが分からないんで、魔法以前の問題です……」
「ほんと、愚かですね。断れば良かったのに」
「もっとできないですよ、そんなこと……」
結局、殲滅卿はその後も、かっちゃかっちゃかっちゃかっちゃ……うるっさい! 私は耳をふさいで眠った。
そして翌朝。殲滅卿はまだ機械と格闘していた。え、一晩中やってたわけ……? そして、一晩かけてもできなかったわけ……? 私は二重の意味で頭を押さえることになった。
その後、私たちは森に入った。森の浅い部分で大蟷螂の目撃があったため、被害が出る前に対処するということだった。しばらく歩き、その姿を捉えた途端、殲滅卿が攻撃魔法で瞬殺する。はいはい、いつも通り。
「さあ……オルゴールをやりますか」
だが、その時、大蟷螂が動いた。その大鎌が殲滅卿の背中に切りかかる。私は飛び出して、首を落としてとどめを刺した。その際、太ももを少し切られたが、これで完全に仕留めたはずだ。
殲滅卿は振り向いて、状況を確認すると、
「うわああああああ!」
この世の終わりのような形相で、叫び始めた。え? いや、倒したんですけど? なんで悲鳴上げてるわけ? おかしいんじゃないの? あ、そうだ、この人頭おかしいんだった。
「ごめんなさい! あなたの手を煩わせてしまって、おまけに怪我まで!」
彼は私の前に跪くと、すぐに回復魔法をかけ始める。
「ごめんなさい……。ほんと、ごめんなさい……」
うわっ、顔から出る液体全部出てる……。
「別に気にしないでくださいよ。そもそも、あなたを助けるのが付き人の仕事ですし」
「そう……ですね。リーゼンバーグ殿にはずっと助けてもらってました。さんざん弱音を聞かせて……あなたに甘えてしまっていた。考えてみれば、本当にみっともなくて……ごめんなさい。今までずっと、ほんと、ごめんなさい……」
いや、気付くの今さらかよ。その突っ込みは置いておいて、
「卿はもう少し人に頼るべきです。あなた一人でやらなきゃいけないなんて、別に言われてないでしょう。特に今はお疲れのようでしたし、助けられたところで、謝るような理由は何もないですよ」
「いや、でも……」
「人に頼るのが苦手なら、まずは私で練習してください。私のことは、全面的に頼ってもらっていいですから。いつでも力になりますよ」
「どうして……そんなこと言ってくれるんですか……?」
殲滅卿は涙でうるんだ目でこちらを見上げてきた。うわ……美人の泣き顔って、改めて破壊力がすごい。
だけど、
「仕事だからです!」
私はきっぱりと言った。
「そう割り切ってしまえば、あなたも頼りやすいでしょう?」
「確かに……! リーゼンバーグ殿は凄いです!」
「そうです。私は凄いんです。ほら、今のうちにオルゴール、見ておきますね」
私はオルゴールを受け取って、その構造を調べ始める。
「多分、分かったと思います。ここの歯車が……」
私の説明通り、殲滅卿は魔法で部品を作って、組み立てなおす。無事に完成したオルゴールからは、柔らかい音色がこぼれだす。はっきり言って、そんなに難しくなかった。多分、この人はめちゃくちゃ機械音痴だ。
「良かったあ……」
だけど、嬉しそうだから、言わないでおこう。
私たちは並んで村へと戻り始めた。
「でも、あんまり無茶はしないでくださいよ。あなたに怪我をされると、私、辛いんです」
「別に……無茶なんてしてません」
「リーゼンバーグ殿は努力家で熱心でいらっしゃるけど、そのせいで根を詰めすぎなんじゃないかと心配なんです」
「どうしてそう思われるんです?」
「あなた、毎晩、剣の稽古をなさってるじゃないですか。努力家でいらっしゃるなあ、といつも感動していたんですよ」
「見てたんですか……⁉」
「すみません、だめでしたか?」
「別に……。でも、凄くなんてないです。才能がないから、努力しなきゃいけないだけなので」
「才能のことはよく分かりませんが、あなたの剣の腕前は見事だと思いますよ。それに、討伐の時はいつも私が戦いやすいように動いてくれますし。リーゼンバーグ殿は、本当に心強いパートナーです」
私のことを見ててくれて、そして褒めてくれた。こんなの初めてだ。
「……ありがとうございます」
たったこれだけで、気に食わなかった殲滅卿が、物凄くいい人に思えてくるから不思議だ。私はきっとちょろいんだろう。
「その……呼び方、リーゼンバーグ殿じゃなくしてもらってもいいですか? そう呼ばれるの、あんまり好きじゃないんです」
「それなら、アイシェ嬢でよろしいですか?」
「そう……ですね。だけど、私、令嬢って柄でもないですし、どうぞ呼び捨ててください」
「呼び捨てなんて絶対無理ですよ……! せめてアイシェさんじゃいけませんか?」
「じゃあ、それでお願いします」
「それなら、私も役職名じゃなくて、名前で呼んでいただいてもいいですか?」
「どうしてです?」
「殲滅卿って呼ばれると、その度に緊張するんですよね」
「うわー、相変わらずへたれですね」
「ええ、そうなんですよ」
「分かりました。じゃあ、エリアス様で」
「いや、私は様なんてつけられる人間じゃないですよ」
「それなら、くそへたれ野郎とお呼びしましょうか? 選択肢はその二つです」
「あ、様でお願いします」
「そう言えば、どうして殲滅卿なんて呼ばれるようになったんです?」
「どうしてなんでしょうね。私もよく分かりません。別に自分でつけたわけでもないですし」
「そうなんですか。安心しました。自分でそれを選んでたら、ちょっとやばいなって、ずっと思ってたんで」
「今、さらりとひどいこと言いましたよね……?」
軽口を交わすうち、私たちは村にたどり着いた。討伐を終えたことを説明した後、エリアス様は少女にオルゴールを返す。
「ありがとう!」
大喜びの少女に手を振られながら、私たちは村を後にした。
「お疲れ様です」
「はあああああ、これで一安心です……」
村を出て、エリアス様は魂が抜けたようなため息をつく。
「どうしてあなたがそこまでするのか、やっぱり私には分かりません」
「みんなには……本当にちょっとした困りごともなく、幸せに暮らしてほしいんですよ。苦しいこととか、悲しいこととか、あと、面倒くさいこととか、そういうのが全部なければ、きっとそれが一番だと思うんですよね」
「うわ、流石、へたれたお考えですね」
「そうですよ」
エリアス様はあっさりと認める。
「そして、そんなへたれた幸せのために、私にできることがあるなら、何でもしたいんです」
そう言って微笑む姿が、なんだかひどくかっこよく見えて、ほんと、恐ろしい人だ。
その日のうちにメイデに戻った私たちは、今夜も今夜とてパーティーに出ていた。エリアス様は相変わらず途中で消えてしまった。あれだ、逢引きだ。そりゃあ、あの人が女性に人気があるのは分かる。だから、仕方ない。対して私は——って、何考えてるんだ? 今日の私はおかしい。疲れてるのか?
自分で自分に悶々としてると、
「あら? リーゼンバーグ嬢じゃなくって?」
美しく着飾った令嬢が登場する。
「大魔導士様の付き人になったって、まさか本当のことだったのね」
「お久しぶりです。カルメリア嬢」
ニーナ・ウル・カルメリア伯爵令嬢。辺境伯の娘で、中央にいた頃、数回パーティーで一緒になったことがある。
「ねえ、殲滅卿はどこにいらっしゃるのかしら? 私、ぜひお話がしたくて」
「すみません。実は私も知らないのです」
別の女性と仲良し中です、とは流石に言えない。
「噓よ。自分が相手にされないからって、嫉妬して意地悪をしているんでしょ? ひどいわ」
「そう言われても、知らないものは知らないのです」
「……出来損ないのくせに!」
カルメリア嬢は捨て台詞を残し、荒々しく去っていった。私は最初ぽかんとして、少したってひどく気が滅入ってきた。これだからパーティーは嫌いなんだ。どこか一人になれるところを探そう。
庭園まで出てきた私は、人目につかなそうな茂の中に立ち入った。だが、そこには既に先客がいたのだ。
「……何してるんですか」
「……隠れてます」
そこにはエリアス様がうずくまって震えていた。てっきり、女を部屋に連れ込んでるのかと思ったら、いったいこの人は何をしてるんだろう……。
「パーティーなんてものは、いったいどうしてこの世界に存在するんですか? しかも、この場所、毎晩やってるんですよ。狂ってる。かれこれ二年間、毎晩駆り出されて、もう頭がおかしくなりますよ……」
エリアス様は頭を押さえる。
「特に、なんです? どうして私なんかが若いご令嬢のお相手を? 向いてないですって……」
「まあ、令嬢方は魔物より怖くないじゃありませんか」
「いや、こっちはこっちでめちゃくちゃ怖いですよ……!」
「そうなんですか?」
「仕事ならまだしも、こういう場面で、特に若い女性となんか、何を話せばいいのか分からないんですよ。自分がいつ変なことを言って、彼女たちの気分を害してしまわないか……。その緊張で、もう胃が……」
「何言ってるんですか。エリアス様の顔で迫れば、どんな女性だっていちころですよ」
「いちころ……?」
彼は物凄く困惑した表情をする。
「例えば、いい感じの台詞で口説いてみたら?」
「口説く……?」
「何なら、もっと強引なことだって許されると思いますよ」
「強引……?」
あれれ、おかしいなあ。
「え……もしかして、その顔でご経験がおありでないと?」
「経験……?」
わー、やっぱりそうだったー。私は眉間を押さえる。薄々予感はしてたけど、やっぱりこの人、そっち方面もへたれなんだ……。
「あ……。でも、私も一応若い女性って分類なんですよ。私とは平気に喋れるんですね」
それはいいことなのか、それとも、まるで意識されてないだけなのか……。いや、意識って何? どんな意識? 私はどんな意識を求めてるの?
「アイシェさんは別ですよ。魔導士になってから、誰かといてこんなに安心できるの、アイシェさんが初めてなんです。だから、令嬢どうのこうのじゃなくて、私の中で特別な立ち位置にいるんです」
多分、これは天然だろう。分かってる。ほんと、ずるい人だ。こんなことを言われたら、悔しいけど、顔が熱くなってしまう。
「アイシェさんは、こんな私でも、愛想をつかさないでくれて凄いです。本当なら、幻滅して、離れていってしまうはずなのに」
「そうですか? 私はこっちのエリアス様もいいと思いますよ」
私は微笑んだ。
「それに、そう思うのはきっと私だけじゃないですよ。みんながあなたのことを慕うのは、完璧な大魔導士様だからじゃない。あなただから、好きなんです。だから、もう少し自分のこと、そして私たちのことも信じてください」
その言葉に彼は目を丸くした後、
「来てくれたのがアイシェさんで、本当に良かった」
少年みたいに、顔をくしゃっとさせて笑った。
「そんなこと……」
どきり、と心臓が脈打つ。いや——落ち着け。この人とはただの仕事上の関係。そんな相手に、どきり、なんて馬鹿げてる。私は突発的に拳で心臓を殴打する。
「えっ……怖い。いきなりどうしたんですか」
エリアス様は若干ひいた顔をする。
「少し動悸がしたもので。でも、もう大丈夫です」
手のひらを突き出し、私はきっぱり言い張った。
「そうですか。お若いでしょうけど、健康には気を付けてくださいね」
その後、私たちはパーティーの終盤まで時間を潰し、頃合いを見計らって会場に戻ってきた。途端、カルメリア嬢がこちらに突進してくる。私のことをめちゃくちゃに睨んで、だけど、エリアス様の前に立つと、すぐに美しい笑顔を浮かべる。
「お初にお目にかかりますわ。私、ニーナ・ウル・カルメリア伯爵令嬢と申します」
「はじめまして。ここ、メイデの統括を……」
二人はしばらく自己紹介し合っていたが、
「そうだわ。リーゼンバーグ嬢って、かなり変わっていて、驚かれたでしょう?」
カルメリア嬢はなぜか私に会話の矛先を向けた。
「いい身分の令嬢なのに、ドレスも着ないで、剣ばかり振り回して。昔からそうなのです。でも、それには事情がありまして。こうして彼女を雇った時点で、きっとご存知ないのでしょう? リーゼンバーグ嬢は有名なのです。実は、彼女、ま……」
「すみません」
その台詞を遮ったのはエリアス様だった。
「あなたに教えていただかずとも、彼女のことは自分の目で見て理解しているつもりです。彼女はとても優秀な私のパートナーで、そして、私にとってはそれで十分なのです」
エリアス様は美しい笑みを浮かべる。
「そ、そうですの……。へえ……パートナー。へえ……」
やばい表情のカルメリア嬢を残し、そのままパーティーはお開きになった。
「怖かった……。令嬢殿の機嫌が悪くなってるのが分かって、あ、これ、殺されるかも。もう、死ぬしかないなって思いました。ほんと、よく泣かなかったですよね、私」
帰り道でのエリアス様は、先程と別人かのようなへたれ発言をかます。
「そんなに怖いなら、どうして言い返してくれたんです?」
「当たり前じゃないですか。アイシェさん、困ってたでしょう? それに、わざわざ言い返すというより、思ってることをそのまま言っただけですし」
やっぱりこの人はずるい。
「私……お仕えするのがエリアス様で、本当に良かったです」
また例の動悸がやってきている。だけど、今度はもう抑える気にならなかった。
*
それからの日々は、本当に満ち足りたものになった。エリアス様に認めてもらえてる。必要としてもらえてる。それが本当に幸せだった。エリアス様の側にいられるだけで、私はいつも胸がいっぱいになる。世界が今までとまるで違う。初めてきちんと居場所ができたみたいだった。
季節は春を過ぎ、夏が到来した。そんなある日、一仕事終え、城の回廊を歩いていた時のこと。
「これはこれは、出来損ない令嬢殿ではありませんか」
いきなりの台詞に振り向くと、五十かそこらの男が嫌な笑みを浮かべて立っている。
「……お目にかかるのは初めてかと存じますが」
「私は二級魔導士、リッチェル・ジーク・ディアボルト。初対面だとして、何しろあなたは有名ですからね。貴族に生まれながら、魔力をまるで持たない面汚し、リーゼンバーグ侯爵令嬢殿」
その台詞に、身体が動かなくなる。
「大人しくすればいいのに、騎士の真似事をして、その上、騎士団の入団試験に落ちるなど、よくもまあここまで家の名前に泥を塗れたものですね。魔力のないあなたが、魔導騎士団に入れるはずがないでしょうに」
「……魔法を使えずとも、魔物を倒すことができれば、魔導騎士団には入れるはずです」
「魔法を使えない魔導士などおかしいでしょう。どうやら頭も悪いのですね」
ひどい言われようだが、私は耐えるしかない。彼の発言は無礼などではない。私は貴族として扱われていないのだから。
「本当に汚らわしい。私は許せないのですよ。あなたたちのように、この世界の秩序に反する存在が。まあ、あなたにもう用はありませんが。用があるのは、あの殲滅卿の若造なので」
それだけ言って、男はあっという間に去っていった。私はしばらく動き出せなかった。
この世界で、魔法は貴族のみが扱えるものとされていた。私の生家、リーゼンバーグ侯爵家は、昔から優秀な魔導士を輩出している指折りの名家だった。現将軍である父。兄たちも皆優秀で、騎士団に入っている。それなのに、一人娘である私だけは、まるでその才を受け継がなかった。あの家で私にあったのは、針の筵のような生活だった。
すっかり忘れていたのに……。邪念を打ち払うように、私は城の中庭まで行って、そこで何度も素振りをする。だけど、だめだ。出来損ない。その言葉が、様々な人の声で脳内に響き渡る。
「わあ、また剣の練習ですか? 本当に努力家で凄いですねえ」
その時、緊張感のない声がやってきた。
「そんなに稽古ばかりして、嫌にならないんですか?」
エリアス様がこちらに歩いてくる。
「そんなことありません。私は小さい頃から、ずっと魔導騎士団に入ることを夢見てて……。そのためなら、どんな努力だってしてきたんですから」
私は呟くように言う。
「そういえば……エリアス様は、どうして魔導士になりたいと思ったんですか?」
「やだなあ。魔導士になりたいと思ったことなんて、あるわけないじゃないですか」
エリアス様はへらっと笑った。
「ほんと、この世界って不思議ですよねえ。私みたいに、魔法に熱意も愛着もない人間が、魔法の天才だとか言われて、そして大魔導士になっちゃうんですよ? 本当なら、私なんかよりもっと与えられるべき人がいるはずなのに。そうだったら、きっと……」
「は?」
物凄く低い声が自分の喉から漏れていた。
「それって、私のこと、馬鹿にしてるんですか?」
「え?」
「名門貴族の家に生まれながら、魔力がまるでない私のことを、出来損ないだって馬鹿にしてるんですかって言ってるんです!」
私は声の限りに怒鳴った。
「そりゃあ、分からないでしょうね! 天才には! だって、何の苦労もしたことがないんですもん! いいなあ、才能! 生まれついて天職があって、しかもそれが英雄の魔導士様! それなのに、魔導士なんかなりたくなかったとか……」
許せない。この人の全部が許せない。
「むかつくんですよ! なんであなたが大魔導士なんですか⁉ 熱意も憧れもないくせに! あなたなんて、魔導士の資格ないです! さっさとやめてくださいよ! 今すぐ魔導士をやめて、いらなくなったその才能……私に分けてくださいよ……!」
怒っていたはずなのに、どうしてだろう。気付けばぼろぼろ涙が頬を伝っている。
「……いいですよ。私、もうやめますから。あなたのお付きも、魔導騎士団に入るのも」
何か言おうとするエリアス様に背を向け、私は一目散に逃げ出した。そのまま、自分の部屋に戻ることもせず、城門のところで中央行きの商団の馬車に乗り込む。
私はその手に手紙を握っていた。父上からの手紙。いい加減頭も冷えたことだろう。もう好き勝手にやらせるつもりはない。戻ってくれば、それなりの縁談を見繕ってやる。そういう内容だった。
もういいや。もう、全部終わりで。運が良ければ、どこかの側室程度にはなれるかもしれない。魔力がまるでない娘では、絶対に正妻にはなれないから。
街を出発した馬車は、あっという間に宿駅についた。明日の出発まで、ここに宿泊する。私は商人たちに交じり、一階の食堂で夕食を取った。
「ねえ、ずっと思ってたんだけど、やっぱり君、殲滅卿の付き人の子でしょ!」
座っている私に、若い青年たちが寄ってくる。
「殲滅卿、元気?」
「元気って?」
「いや……実際のところ、そろそろあの人も限界なんじゃないかって」
声を潜めると、彼らは同じテーブルに座り込んでくる。
「街に魔導士が一人しかいないなんて、メイデはかなり狂ってるんだぞ」
「魔導士会上層部の嫌がらせだろ」
「大魔導士様、なんて聞こえはいいけどさ。持ち上げて、仕事を全部押し付けてるんだ」
それは初耳だった。
「そんなにあの人の仕事って大変なんですか?」
「そりゃそうだ。結界を張り続けるのって、普通、交代で、しかも三人一組でやるもんなんだぞ? 一人の集中が切れても大丈夫なように」
「それが一人ってことは、一瞬も気を抜けないってことだ。朝から晩まで気を張り続けるから、寝てるのかどうかも怪しいし」
「それに加えて、貴族や商人との付き合いだろ? 討伐に出させられて、旅団の世話もさせられて、街の雑用まで……やばいくらいの暗黒職だよ。魔法が好きだとしても、そろそろ限界なんじゃないかって、専らの噂なんだけど、実際のところはどうなんだ?」
あの人、魔法なんて好きじゃないんですよ。そう言ってやりたかった。好きでもない仕事で、しかも激務、同業者たちには嫌がらせを受け、それなのにどうしてあの人は魔導士を続けてるんだろう。いや、答えは分かっていた。
「あの人は……私たちのことが好きなんです。一人一人のこと、本当に大切に思ってて、幸せに暮らしてほしくて、だから……」
ごめんなさい。ごめんなさい。何の苦労もしたことがないなんて、言ってごめんなさい。あなたは自分を犠牲にして、苦しんでまで、人々の暮らしを守り続けていたのに。
私が黙り込んだために、私たちのテーブルは静まり返ってしまう。
「ああ、間違いない。あれは絶対にディアボルトだった」
「なんであいつがここに来てるんだ?」
反対に盛り上がっているのは、すぐ隣のテーブルだった。
「ディアボルト……?」
記憶に新しい名前に、私は反応する。
「前のメイデの魔導士だ。最悪だったよ。ただでさえ疲弊した北部を、汚職と怠業でさらにだめにした。殲滅卿と交代して、問題が明らかになって、どっか外れに飛ばされたって聞いてたけど。今さらこっちに何しに来たんだろう」
「私も今日メイデで見かけて……殲滅卿に用事があると言ってましたけど……」
周囲に他の役人はいなかったし、何かの仕事というわけではなさそうだった。私的な来訪だったんだろうか。
「妙だな。あそこの仲は最悪のばっちばちだ。ちょっと顔を見に、なんて絶対にないぞ」
となると——なんだか嫌な予感がする。
「大変だ!」
その時、ばたん、と扉が開いた。
「メイデの結界が崩壊した!」
*
時間は少し遡り、アイシェがメイデを飛び出して、まだしばらくもたたない夕方のこと。
「それで、いったい何のご用件で?」
謁見の間では、エリアスとディアボルトが対峙していた。
「あなたは西南の地で勤めていらっしゃると聞いていたのですが」
「そんなもの、とっくにやめた。なぜ私が、あのようなひなびた土地に身を沈めなければならないのだ」
ディアボルトは、不愉快そうに鼻を鳴らす。
「そちらの話も聞こえてくるぞ。大魔導士殲滅卿、随分と調子に乗っているらしい」
つかつかと歩み寄ると、ディアボルトはエリアスの目と鼻の先に、ずいと身体を寄せた。
「さあ……どうでしょう」
エリアスは目を伏せる。
「最近、色々とありまして。もしかすると、私は魔導士にふさわしくないのかもしれないと、今はそう考えています」
「おや。私もまったくの同感だ。貴様は魔導士にふさわしくない。絶対にな」
瞬間、エリアスは床に崩れ落ちた。
「魔力は探知できても、人間の動きは感知できないようだ。最強というのは魔物相手のみか」
鋭い何かが、エリアスの腹に突き刺さっている。
「貴様などのために、私は田舎町へと左遷され、出世ルートから降ろされた! 貴様のような、ふさわしからざる下民のために!」
回復しようにも、魔力が腹に刺さったものに吸われていく。寄生型の魔法植物——宿主の魔力を吸った分、蔓が成長していくという代物だ。
「さて、これが結界石かな」
ディアボルトはエリアスの腕輪を取ると、それを魔法で粉砕した。途端、結界が崩壊する。
「自分が何をしているのか……分かっているんですか……?」
「もちろん。私は二年間、貴様への復讐だけを考えてきた。どうすれば一番辱しめ、苦しめてやれるか。それだけを考えてきた。気付いているだろう? 物凄い数の魔力が、メイデに迫ってきていることを。ざっと二百くらいかな。時間をかけて、近隣の魔物を使役し、ここを襲うよう命じたかいがあった。殲滅卿は結界の保持に失敗。メイデは魔物に滅ぼされる。貴様はそれを自分の目で見るのだ。何をすることもできずにな」
高笑いするディアボルトの足元に、エリアスは力なく倒れていた。
*
急げ。早く、早く、あの人のところに——。私は馬に飛び乗って、深夜の森を突っ切り、全速力でメイデへと向かっていた。
東の空が白み始める頃、ようやくメイデの街が見えてくる。城門の一部が崩壊している。街の中にまで魔物が入り込んでいるに違いない。
崩れた部分から乗り込むと、私はそこにいた魔物を三匹ほど一気に切り殺した。
「何があったんですか⁉」
戦っている兵士に、私は尋ねる。
「結界が破れて……一気に魔物の大群が攻めてきたんだ」
「いったい殲滅卿はどこに⁉」
「おそらく城だ」
指示された方向を見て、私は呆然とする。植物の太い蔓に覆いつくされ、城はほぼ壊滅している。いったいあそこで何が起きているのだろう。
「とにかく、あの人が来てくれるまで、なんとか持ちこたえなくちゃな」
それでも、エリアス様の存在はまだ希望だった。
しかし、
「おい、あそこ……!」
城の先端。そこまで伸びた蔓に、人影が宙吊りになっている。まるで死んでいるかのように、ぴくりとも動かないそれは——
「そんな……」
「殲滅卿が……」
もはやあの人は私たちを助けてくれない。彼を失った今、メイデは魔物に立ち向かう術を失った。人々は絶望し、もう立ち上がれない——
「早く殲滅卿を助けに向かうぞ!」
「おおっ!
」
いや、違う。
「どうして……」
私は声を震わす。
「今までずっと助けてくれたんだ。俺たちだってあの人を助けたいに決まってる」
「やっと恩を返せるんだ。今動かなくてどうする」
「あんたも来てくれ! 殲滅卿を除けば、ここではあんたが一番強い!」
「ああ、ここは俺たちが食い止める。だから、頼む。殲滅卿を——エリアス様を救ってくれ!」
部隊の半分を残し、もう半分と共に、私は城に向かって走り出す。
ここに、エリアス様の助けを待つだけの人間はいなかった。動けなくなった彼を見放す人間もいなかった。老人や子供を含めた非戦闘員まで、街中が立ち上がって、自分ができることをやっている。街を——いや、何よりもエリアス様を救うために。その光景に、目頭が熱くなる。
あなたに守られた人たちは、同じように、あなたを守りたいと思っている。あなたが困った時は、みんなが力になりたいと思っている。完璧じゃなくたっていい。一人で戦うことなんてない。みんな、あなたのことが大好きなんだ。あなたの力になりたいんだ。
立ちはだかる魔物と対峙し、兵士はどんどん減っていく。
「後は頼む!」
城の前で、ついに最後の兵士と分かれる。みんなの思いを継いで、私は全力で荒れ狂う蔓の上を走っていく。
「エリアス様!」
ついに頂上までたどり着いた。エリアス様を捕らえている蔓を切ると、その身体を抱きかかえ、城の中に飛び込む。ここは——謁見の間だろうか。もはや天井が吹き飛び、屋上と化している。横たえると、腹に刺さった蔓を抜き、止血処置を施す。
「ア……アイシェさん……。ごめんなさい、わ、私が……」
「大丈夫。助けにきたんです。私だけじゃありません。街中のみんなが、あなたを助けようと、今も必死で戦ってるんです。だから、もう安心して……」
その時、
「おや、出来損ない、戻ってきたのか」
「やはりお前の仕業か、ディアボルト!」
私は立ち上がり、声の方向を睨みつける。
「ほお……。殲滅卿のために舞い戻るとは、世界の異物同士、仲がいいのだな」
「異物同士だと?」
「大魔導士殲滅卿。その正体を教えてやろう。いいか? こいつはただの平民の餓鬼だ。かつて魔族に滅ぼされた、名前すら残っていない村のな。貴族の血などまるで引いていない、魔導士たるにふさわしくない下賤な生き物。それが大魔導士など、許されるはずがない。出来損ない令嬢も、勘違い大魔導士も、私がこの場で駆逐してやる」
言うが早いが、私たちめがけ、雷の矢が次々と放たれる。
「ふざけるな!」
私はそれを剣で振り払う。
「何がふさわしくないだ! 何が下賤だ! エリアス様は本気で人々を守りたいと思っている! それが、彼を大魔導士たるにふさわしい存在へと押し上げたのだ! 断言する! エリアス様は最高の魔導士だ!」
いける——。攻撃の隙間を見極め、私は突進し、ディアボルトを押し倒した。
「お前こそ、実力がないからこそ、血筋などにこだわるんだろう? 弱い奴ほどねちっこいというのは本当なのだな。お前など、所詮、エリアス様の足元にも及ばない、雑魚魔導士……」
「この……出来損ないの分際で!」
ディアボルトは、思い切り私の顔を殴り、髪の毛を掴み上げて立ち上がった。
「その顔ごと燃やしてやる!」
彼の手のひらに光が集約する。それが私に迫ってきたその時、何かが彼の手をはじいた。手のひらの肉が貫通し、そこからだらだら血が流れているのが目に見える。
「すみません。私の大切なパートナーに気安く触らないでくれませんか」
見ると、エリアス様がつかつかと歩み寄ってくる。
「き、貴様、なぜ動け……」
「おい」
エリアス様は、今まで聞いたことがないくらい低い声を出した。
「さっさとその手を放せって言ってんだよ、このど三流!」
片手で私のことを奪うと、もう片方の手でディアボルトを殴り飛ばした——って、噓でしょ。この人、こんなことできたんだ……。
「頑張ってくれて、ありがとうございました。もう大丈夫ですよ」
回復魔法をかけると、彼は私をそっと床に下ろした。
「今さら起きたところで、もう遅い!」
同時に、倒れていたディアボルトも立ち上がる。
「その身体には、もはや戦える魔力は残っていないのだからな!」
しかし、エリアス様は不敵な笑みを浮かべた。
「ねえ、おかしいとは思わなかったんですか? あなたがぼろぼろにしたこの地域の後任になって、今年で二年目ですが、普通、二年かそこらでここまで復興しませんよ」
「何が言いたい?」
「はっきり言えば、ずるをしていたということです。魔導士の行えるずるなんて、まあ一つしかないでしょう?」
「……まさか、この地域全体に貴様の魔力を供給していたと……⁉」
「そう。つまり、私の魔力はほとんど私の中にないんですよ。今この瞬間も、そのほとんどが人々の回復に使われている」
「なぜ……そこまでして……」
「人々のことを助けたいと、私はずっとそう思っていました。彼らは私が守らなければだめなのだ、とも。でも、本当はただ、私が怖かったんです。彼らを失ってしまうことが。だけど今、みんなが自分の手で戦っている。私を助けようとしてくれている。そして、アイシェさんはここまで来てくれた。だから、私はみんなのことを信じようと思ったんです」
今まで切り離されていた魔力が、彼の中に戻っていく。これが本来の魔力なのだ。
「ここからは全力で戦わせてもらいます」
エリアス様は両手を組み、呪文を詠唱する。途端、光り輝く数百という魔法陣が街中を埋め尽くす。そこから光の柱が現れたかと思うと、魔物を一気に打ち抜いていく。百を超える大群は、一瞬で、ちり一つ残さずに蒸発した。あまりにも圧倒的な力だった。殲滅卿。なぜその名前がついたのか、もはや疑問の余地はない。
最初絶句していたディアボルトは、しかしぶつぶつ何かを呟き始める。
「出でよ、銀鱗竜!」
最後、絶叫と共に、巨大な魔法陣が上空に光ったかと思うと、猛々しいドラゴンが現れた。ドラゴンは耳をつんざくような咆哮を上げる。
「銀鱗竜の鱗は、あらゆる魔法を跳ね返す! 殲滅卿、貴様には手も足も出るまい!」
ディアボルトは勝ち誇ったように叫んだ。
「アイシェさん」
だけど、エリアス様は静かにこちらを向いて、微笑んだ。
「私のこと、信じてくれますよね」
「ええ、もちろん」
私は立ち上がる。何も言わずとも、私たちの考えは通じ合っていた。私が引き抜いた剣に、エリアス様が魔法をかける。
「私もアイシェさんのこと、誰よりも信じています」
その言葉と同時に、私は崩れた柱を駆け上がり、ドラゴンめがけて飛び出した。柱から飛ぶと、空中に魔法で足場が作られる。ドラゴンが炎を吐くと、目の前に防御壁ができる。完全に信頼して、後衛を任せられる。だから、私は真っ直ぐに突っ込んでいく。
最後、足場を力いっぱい蹴り上げ、ドラゴンの面前に飛び上がる。その首めがけ、剣を振り下ろす。一撃だった。一撃で首は切断され、ドラゴンは力なく落下していった。
「……化け物が、二匹」
ディアボルトは口から泡を吹いて倒れた。
夜が明け、山際から出た太陽が、崩れ去った城を照らす。白い光の中、エリアス様が立っている。私はその目の前に着地した。途端、エリアス様が倒れるように抱き着いてくる。
「な、何するんですか……!」
いきなりのことに、私は頭が真っ白になる。
「ちょっと離れてください……!」
そう言っても、エリアス様は離れようとしない。まずい。これは非常にまずい。そう思うのに、身体が動かない。くそっ、もう認めるしかないだろう。多分、私はこうされて喜んでる。この人のことが好きだから。大好きだから。
「アイシェさん……」
耳元で美しい声が私の名前を呼ぶ。その先に続く言葉は——
「腰が抜けて動けなくなっちゃいました……」
そう言って、エリアス様は情けなく鼻をすすり上げた。
一瞬言葉を失った後、
「このへたれ野郎があああああ!」
私は叫んだ。
*
そして、事件は終結した。中央に移送されたディオボルトは、その後すぐに魔導士から除名されたらしい。そろそろ裁判が始まっている頃だ。くだらないプライドで街を滅ぼそうとした罪は重い。下る刑罰は、死刑で一番軽いだろう。
メイデの街は順調に復興していた。先頭に立とうとしたエリアス様は、街中一致の意見であれからしばらく休暇を与えられた。
その代わりに奔走することになったのが、この私だ。当たり前のように一人で魔物を討伐し、こうしてみると、私はここで確実に成長していたらしい。
そんなある日、私はエリアス様に呼び出された。
「これ、あなたに」
渡された手紙を開け、愕然とする。それは魔導騎士団合格の知らせだった。
「推薦状を送っておいたんです。ドラゴンを打ち取った功績で。これで、晴れて魔導騎士団に入隊ですね」
そう。私は騎士団に入りたかった。今、その夢がかない、嬉しくてたまらない。そのはずなのに——
「だけど、寂しいです」
エリアス様はふっと微笑む。
「アイシェさんには感謝してもしきれません。何度も心を、そして命まで救われた。あなたがいなかったら、きっと私はだめになっていた。あなたに出会えたことは、私の幸せです」
「そんな……」
「それに……あなたとの時間は、とても楽しかった」
はにかんだように笑うエリアス様を見ていると、胸の奥が痛くて痛くてたまらない。
「……私も同じ気持ちです」
喜びのさなか、瞳が涙でうるむ。
「あなたに出会えて、本当に良かった」
*
それでも、別れの日はやってきた。メイデの人々は皆、私との別れを惜しんでくれた。
「アイシェさんなら、きっと素晴らしい魔導騎士になりますよ」
城門のところで、エリアス様はきれいに微笑んだ。
「ありがとうございます」
私も笑顔で返し、馬車に乗り込んだ。これでいい。これが正しいことなんだ。彼にとっても、私にとっても。
いよいよ馬車が動き始めた時、
「エリアス様! 私……」
私は後ろを振り返って叫ぶ。言いたいこと。言わなければならないこと。それがまだ残ってる。
「……私、絶対、あなたみたいに大切な人々を守れる、そんな強い魔導士になってみせます!」
でも、それを言うにはまだ早い。いつか立派な魔導士になったら、その時、きっと——
「だから、その時まで、最強の座で待っててください!」
*
帝都に戻った私は、修練魔導士として忙しく過ごしていた。夏ももう終わりだ。メイデを離れてから、あっという間に一月がたってしまった。
今日の仕事は夜会会場の警備だった。私は会場から離れた、薄暗い庭園を警邏する。そういえば、パーティーの度、あの人はよく逃げてきていたな。そんなことを思い出す。
その時だ。傍らの茂に倒れている人間が視界に飛び込んでくる。
「ちょっと! 大丈夫ですか⁉」
酔っ払いだろうか。駆け寄った私は、固まりつく。月明かりに、銀糸のような美しい髪が浮かび上がる。噓でしょ……。どうして、いや、有り得ない。私の幻覚に決まってる。
「エリアス様……?」
「その……お久しぶりです、アイシェさん」
美しい顔がこちらに向けられる。間違いない。エリアス様だ。
「……どうしてあなたがここにいるんですか⁉」
「えっと、あの後色々あって、私もこちらに呼び戻されることになりまして……」
「だったら連絡くらいしてくださいよ!」
「だって、なんだか言い出せなくて……今さらどんな顔しようとか、そういうこと考えてたら……うっ、気持ち悪い」
エリアス様はお得意の吐き芸を披露してくれた。
「久しぶりの帝都に緊張して……。私、ここでやっていける気がしないんですけど」
私はため息をつく。
「とりあえず、私に出会えてラッキーでしたね。水場まで連れていって差し上げますよ」
私は手を差し伸べる。
「ええ、本当に出会えて良かった」
エリアス様はそう言って、私の手を取った。
しかし、
「あ……今の手、ちょっと吐いたやつついてたかもしれないです」
「……へえ、そう」
私はすうっと息を吸い込み、そして叫んだ。
「このくそへたれ野郎がああああああ!」