2、屋上でハグ
あの暗く寒い部屋に帰っても寂しい気持ちは湧き上がらず、すっと眠りにつく事ができた。彼のハグは慣れていない感じで初々しく新鮮だった。
「よく考えたらセクハラだわ。」
朝になって目が覚めた途端、正気に戻ったのか自分がとんでもない事をしでかしたのではないかと、さあっと血の気が引いてしまう。今日は土曜日で仕事は休みだ。とにかく洗濯をして掃除をしてそれから考えよう。
夕方には3度の洗濯と全ての水周りの掃除、部屋の掃除シーツや寝具の交換を終わらせていた。彼についてどう謝るか考えていたのに無心で終わらせてしまった。
「明日は日曜日、まだ休みだし何かお詫びの品を買いに行こう。」
そう思い立って朝から出かけたは良いが何も思い付かず結局、甘い物を課に差し入れするという形で落ち着いた。
「全く意味ないじゃない。馬鹿なの私。」
「これ皆さんでどうぞ!」
月曜日に持っていったチョコレートは好評で火曜日の朝には全て無くなっていた。黒川君の口にも数個渡ったようで安心した。
火曜日は朝から会議で彼とは殆ど顔を合わせなくて済んだ。
「早く謝らないといけないのに。」
そもそも彼は直属の部下ではないのであまり接点がない。間に彼の教育係を挟んでいる。水曜日は彼の教育係が付きっきりで彼の指導に当たっていたので私は近付く事すら叶わなかった。
木曜日は最近、通いだしたジムに行く日なのでサッと定時であがる。今日も彼は昨日から難しい案件に教育係とこなしているので謝る時間がなかった。ジムではプールに入る事にしている。短時間の運動で消費カロリーが多いからだ。それでも1時間以上は泳ぐ事にしている。最近、気付いたが水の中が好きなようだ。水の中は静かで目を閉じると不思議な感覚に陥る。
金曜日、もう謝る事を諦めかけていた。彼は全く捕まらないし、彼の周りにはいつも人がいて私のような嫌われ上司には入り辛い。このまま何も無かった事にしよう。彼の方も目が合っても会釈するだけで上司に抗議をした訳では無さそうだし。
「あの、金曜日です。」
おずおずと黒川君が私に言う。私は屋上で1人お弁当を食べていた。そこへわざわざ私を探して来てくれたようだ。無かった事にする作戦が……。
「えっええ、そうね。」
「そのぉ、この前のあれします?」
あれというのはハグの事だろう。やはり可哀想な事をした、秘密を盾にしてあんな事。
「あ、ああ!でもごめんね、よく考えたらセクハラだったから!もう忘れて!貴方の秘密は絶対に守るわ。」
「…その、晴香さんがしたいなら俺は構いませんよ。全然大丈夫です。ハラスメントじゃないです。」
「へっ、で、でも。」
「晴香さんがして欲しい事が意外だったけど、いつも本当にお世話になってるしあんな事で良ければどうぞ。」
と大きく腕を広げて待ってくれる。私は少し考えてお弁当を置き彼の腕の中に入った。2度目のハグはギュッと包まれるような優しいものだった。
「ありがとう黒川君。」
「い、いえ。」
私はシャツに化粧を付けてしまわないように顔を擦り付けないように自分の腕を彼にまわす。意外とガッチリしている。
「晴香さんはなんていうかミカンみたいな香りがしますね。」
「ミカン……。ふふっ、くくく、ミカン…ミカンって…くくく。」
私の香水は柑橘系だからそう思うのかも。私はゆっくりと離れて彼を見上げる。
「す、すみません。俺、失礼ですよね、女性に!」
「いいえ、ごめんなさい。くくく、よく分かったわね。香水よ。ミカンみたいな香水なの。ふふふ。」
「あ、そ、そうですか…。晴香さんってそんな風に笑うんですね。」
「えっ。」
なんだか恥ずかしくて冷静になり、黙ってしまう。彼は意外とガッチリしてて私よりも背が高かった。
「あ、あの?」
「黒川君ありがとう。さあ休憩も終わるわ、もう行って。」
「は、はい。ではまた来週。」
と走って階段を降りて行った。
「来週ね。ふふっ。」
私はまた座りお弁当を食べ始めた。さっき食べていたお弁当より美味しい気がした。