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夢物語   卵

作者: 森田 享

   卵




「そろそろ出て来たらどうなんだ?」

 私は、今までに見たこともないくらいに大きな白い卵に向かって、そう言った。

その卵は、いわゆる私が、まず思い浮かべる卵の色かたち、つまり鶏の卵のようなのだが、ただそれは駝鳥だちょうの卵の十倍以上はあるだろうか。とにかく両手でも抱え切れないほどに巨大な卵なのだ。

卵は、のっぺりと表情もなく、およそ話し相手にはなりそうもないのだが、私が、その大きな卵に、こう話し掛けたのは、厚い殻の向こうに、何かが動いているのを知っていたからだった。


その大きな白い卵の中では確かに、ある生物が充分な発育を終え、今は覚醒していて、孵化の時を待っていた。

ただ、その生物は普通に孵化を待っているのではないのかも知れない。

卵で、この世に誕生する生物とは、孵化を目前に控えて、卵の中で何を考えているものなのだろうか。何が普通かは分からないが、その大きな白い卵の中の生物が考えていることは、これから誕生する生物としては特異だと言っていいだろう。

その卵の中の生物は、卵の外の世界が気になりだしてはいるが、卵の中は快適なので、まだ殻を破ろうともせずに、まだまだ、ぬくぬくと卵の中にいようと思っていた。卵の中のその安らぎを捨ててまで、あえて卵の外に出てみる理由が全く見当たらなかったからだった。


そんな卵の中の事情を、私は全く知り得ないので、私は、また卵に向かって言った。

「もう、いい加減に出て来てはどうかね?」

「…………」

「そこにいるのは分かっている。隠れている訳でもないんだろう? もう卵の中から出て来いよ」

「嫌だね。出て行ったら、いいことがあるのかい」

と卵は唐突に答えた。

やっぱりいたなと思って、私は、

「とにかく出て来いよ」

と言った。

「だから、出て行ったら何か、いいことでもあるのかね」

「何でもいいから出て来いよ」

 私は、卵と対話し始めたことに少し興奮していた。

「出たくはないね」

と卵は、いかにも高慢な態度で言い、

「卵の中がどんなにいいものか、お前は覚えているのか?」

と、いきなり反問してきた。

 卵から、このように反問されて、私は大人となった今では、卵の中の記憶というか、生まれてから物心つくまでの記憶は、ぼんやりとしていて覚えていないのが当然なので、返答に困った。とりあえず、人間としての意見を述べてみることにした。

「私は哺乳類だからね。卵の中のことは知らない。もっとも母親の腹の中、子宮のことも、もちろん覚えがないよ。卵だって、そうだろ? 卵の中のことは覚えがなくて、殻を破って外に出てからが誕生だ」

「違うな」

と卵は言った。

「何が違う?」

と私が訊くと、

「卵の中では随分前から、それも、お前たちが思うよりも、かなり前から覚醒していて、いつ出るべきなのかと、ずっと待っているもんなんだ。いま出ようか、いまは出るのを止めようかと、かなり長い間、逡巡をして、随分と葛藤するもんなんだよ」

と卵は答えた。

 私には、卵の中での覚醒が、どんな意識状態なのか見当も付かない。

「卵とは、そんなものなのかな? 卵の中では本当に孵化する前に、そのように色々と考えているのかい?」

「そうさ。卵の中では孵化のずっと前から、はっきりと自意識が芽生えているもんだ。だから、色々と考えた挙句、やっぱり卵の中でこのまま、じっとしていても仕方がない。ここを出るしかないんだな、と自分で決断して、殻を破って出て行くんだ。哺乳類が、特にお前たち人間が、子宮の中のことをまったく覚えてなくて、母体から産まれ出てからも、何年も自意識がないのとは違うのさ」

と卵は言って、殻の向こうで、人間のことを冷笑しているのが分かった。

「卵の中の生物よ。そんなに自意識が、はっきりしているのなら、早く殻を破って出て来ないといけないね」

と私は問い詰めた。

「でも出たくないのだから仕方がない。今は殻を破って外に出るのは止めとこう」

と卵は、はぐらかした。

「もうどれくらい卵の中に、そうしているんだ?」

「さあな、覚醒して自意識を持ってからは百年くらいかな」

「百年も? それでは、すぐにでも卵から出ないといけないだろう」

「でも、まだ出たくはないのさ」

「しかし、生物である以上、寿命というものがあるだろう?」

「どうも卵の中だと、何もなくて生きている実感が無いから困るが、その代わり時も止まっているようで、寿命も死も、まだ関係ないようだよ。そもそも、まだ誕生していないんだから当然だ」

「そんな馬鹿なことはないだろう」

「人間のお前に、卵の中のことは分かるまい」

「生物である以上そのまま永久に、卵の中にいることができないのは私でも分かるよ」

「まあ、そうだろうな。それはできない」

「それが分かっているのなら、もう出て来たらいいだろう。いつまでも後のばしにしても仕方がない」

「今は、まだ出たくないのだからしょうがない。そのうちに出ようと思う」

「そのうちっていつだ?」

「時が来たら、だな」

――この卵の中の生物は、自分からは出て来る気が無いな。

と私は思った。


 私は、卵はやっぱり鳥か爬虫類、あるいは恐竜のものだろうと考えて、

「出て来ても、まだ自分は鳥のひなみたいに弱い存在だから、怖気づいているのかね」

と訊いた。

「お前たち、人間の赤ん坊と一緒にするな。殻を破って外に出れば、すぐに一人前に自立して、成体と対等くらいに活動しなければならないのが俺たちだ」

と興奮気味に卵は言った。

よし誘導尋問に引っかかったな、と私は思った。

孵化して、すぐに成体のように活動しなければならない生物だと、おそらく、爬虫類か、もしかした恐竜かも知れない、と私は推理した。爬虫類であると特定するために、こんな質問をしてみた。

「お前は恐竜の卵だろう?」

「恐竜の卵だって? もう恐竜なんて地球上では絶滅しているんだろう。化石ではない生きた恐竜の卵が、今ここにある訳がない」

「それでは、やっぱり爬虫類の卵なんだな」

「今の地球上で、こんなに大きな爬虫類の卵があると、お前は本当に思うのかい?」

「巨大なわにでも、ここまで大きくはないと思う」

「それでは、爬虫類の卵である訳がない。もし、鯨の卵があるなら、ちょうどいい大きさだとは思わないか」

また、何だか、はぐらかされた。

鯨の卵にしては小さ過ぎるのか、いやいや鯨の卵であるはずはないので、質問を変えてみた。

「まあ、何の卵であるとしても、今まで話してみて、お前は孵化したら、すぐに全力で走り出したり、泳ぎ出したりしそうな感じだな」

「まあ、すぐに自分の身を守るために、全力で走り出せる自信があるな。哺乳類でも、すぐに歩き出したり泳ぎ出したりするのが多いけど、それでも親に手厚く守られているから、羨ましいよな。苦労が少なくて」

「お前は?」

「この卵から出たら、すぐに独り立ちだ。たった一人、自力で生きてゆかなければならない」

「お前やっぱり爬虫類だな」

「なあに、意外にも、お前と同じ人間かも知れないよ」

「人間の卵なんて見たことも聞いたこともない」

「それでは人間ではないかな」

どうにも、卵は私をけむに巻こうとしている。


「何の卵であるとしても、卵の中にいることに甘えて、そのままいつまでも出てこようとしないのは感心しないね」

と私は卵を批判してみた。

 卵は猛烈に反論してきた。

「人間が偉そうなことを言うな。お前たち人間なんて、母親の腹から出て来たって、しばらくは眼をつぶっているようなものじゃないか。人間の子は、眼は見開いていても、ほとんど眠っているかのように、心の眼は閉じたままでも一向に構わないようになっている。十年以上も、ほとんど夢現ゆめうつつのように生きて居ればいいのだから、いい気なものだ。それに比べて、卵で誕生する生物は大変なんだ。卵は、わざと必要とされている以上に過剰に多くの数が産み落とされるものだ。そして、その卵の大部分が、いわば他の生物にとって当然の食物であるかのように喰われて、種の保存のための犠牲となってしまう。卵は、大抵、場合によっては、ほんの一握りの者しか生き残れないようになっているから、自分も孵化する前に喰われてしまうのじゃないかと、卵のままでいるのも不安なんだ。しかし、もっと不安なのは、俺たち野生の世界に生きるものは、一度卵から出たら最後、眼も、心の眼も大きく見開いて、必死で闘い続けなければならない。誕生した瞬間から、生存を懸けて一瞬一瞬を全身全霊で生きることが求められる。そんなの恐くて仕方がないから、俺は卵から出たくはないのだ」

「恐いからって、殻に閉じこもったまま、外の世界で生きることを拒み続けるつもりなのかい?」

「お前たち人間は、もう、とうに忘れてしまったようだが、野生で生きるというのは、本当に大変なことなんだ。今、死ぬか生きるかの連続なんだ。それは、もちろん持って生まれた頭脳と身体の優劣があって、天性の才能とか能力の問題でもあるけど、ほとんどは自分の力だけでは、どうにもならないことばかり、つまり多くのことは運に左右されると言っても過言ではないんだ。例えば、亀の卵が、どこの砂浜に産み落とされたか、お前たち人間や獣に、ほじくり返され易いところなのかどうか、卵の殻を破って、周りの砂を跳ね除けて、地上へ出てみて、その砂浜に鳥が沢山いるのかどうかは、ほとんど運でしかない。その日の天候や風向きも、光や海水を目指して波打ち際を必死に這い回って、どんなに早く這って行けたとしても、鳥に喰われずに無事に海水の中に逃げ込めるかどうかは、ほとんど運でしかないんだ」

 この卵の持論を聞いていて、あれ、もしかしたら、この卵は、見たこともないような大亀の卵なのかな、とも思ったが、亀の卵は、ほぼ完全な球体だから、鶏の卵とは形状が違う。


 今のところ私は、この卵が何の卵かという断定に失敗している訳だが、さて、これから、どうやってその糸口を訊き出そうかと思案していると、卵の方から、こんなことを訊いてきた。

「卵の外の感じはどうかね?」

「卵の外の世界が気になるのなら、出てくればいい」

「出て言っても、お前たち人間みたいに親が待っていて助けてくれる訳でもないし、心配事がいっぱいなんだよ」

「孵化したあとは親が巣を守ってくれたり、餌を運んで来たりしないのかい?」

「巣なんて見えるのか、近くに親がいたか。なんにも無いだろう?」

なるほど、何も無い。ただ大きな卵が一つあるだけだ。巨大な怪鳥の卵ではないことは特定できたのだが、ますますこれが、なんの卵なのか見当が付かなくなってきた。何か手掛かりはないものだろうか。

「あとどれくらい、卵の中にいるつもりなのかね?」

「あと百年くらいかな」

「あと百年? そんなに長く卵の中に居られるものなのか?」

「卵だからな」

 私は、いよいよ、卵の中の正体が知りたくなった。知りたくて堪らなくなったので、あえて対話を止めてみた。

 私は黙った。すると卵も黙った。こちらから話し掛けなければ、卵はもう何も話さないのかも知れない。

私は人間だから、寿命とかの問題もあるし、とてもこの卵が孵化するまで、百年も待ってはいられない。しかし、もう少し待っていれば、おそらく卵は痺れを切らして、殻を破って外の世界を覗くに違いない。

でも、卵は、そのまま、眠ってしまったようだった。卵の外の世界には、今は全く興味が無いのかも知れない。卵の考えていることは分からなかった。とにかく、放っておけば、そのまま卵の中にいるつもりなんだろうな、と私は思った。

そんなに卵の中というのは快適なんだろうか。外なんかには出て行きたくもないほどに快適なんだろうか。


私の方が、もう我慢ができなくなった。

このあと、卵を割ってみて、この卵が爬虫類などの生物の卵ではなく、卵が単に外界と内側を隔てている殻に過ぎないと気づくことになろうとは、私は思いもしなかった。

私が遂に卵を割ってみると、卵の亀裂の向こうからは、中学生時代の同級生のような少年が、私を見つめ返していた。

私は、その少年を見た瞬間に、とても嫌な予感がしていた。

卵の中の少年は言った。

「ついに卵を割ってしまったな。後悔すると分かっているのに」

「私は、もう卵を割るより他に、どうしようもなくて割っただけだ」

「とにかく一度、殻を割ってしまったからには、殻はもう元には戻らない。お前は取り返しの付かないことをしたと言うことだ」

卵に、こう言われて、このあと私は、人生には、まず取り返しの付かないことがあるのを改めて思い知らされることになった。

卵の中の少年は、私の開けた亀裂の周囲の殻を打ち破って、どんどん穴を広げていった。そして、ほとんど半分割れかけた卵の中から這い出てきて、私と対峙した。

私の嫌な予感は的中した。その少年は、創造力は豊かだが、夢想家と言うか妄想癖が強いと言うか、とにかく何かと言い訳ばかりして、嘘もよく付く、ちょうど精通したばかりの私自身だったのだ。


「鳥類だろうが、爬虫類だろうが、哺乳類がろうが、関係ない。この世に出て来てしまったからには、野生の王国だろうが、文明社会だろうが、問題は、ただ弱肉強食の世界に、一人で如何に立ち向かうか、と言うことだ」

と、思春期の私は早くも、まだ世界を、そんなに知りもしないはずの浅はかな知識経験で、偉そうなことを口にしている。卵の中での知識経験しかないくせに、実に生意気そうな少年だ。私は、この少年をとても好きになれそうにはない。

とにかく、そのようにして、思春期を迎えてしまったばかりの自分自身を目撃した私は、その時から、私という生物が飛び込んだ人間社会における生存競争、自然淘汰に対する闘いが始まったことを思った。今は大人の私が、その思春期以降に歩むこととなる苦しい道のりや、思い悩んできた日々を振り返っていた。

後悔ではないが、私は、卵を割るより他に仕方がなかったこと、卵の中から出て来ざるを得なかった運命に、言いようもないくらい、もう取り返しが付かないのだな、と残念な思いがした。




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