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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

花葬島

 本作には露骨な社会風刺と攻撃的な表現がございます。決して気持ちの良い話ではありませんので、苦手な方はご注意ください。また、あくまで小説として受け止められる方のみ、お読みくださいますようお願い申し上げます。

 幾重にも重なる波の向こうに、緑色の影が見えてきた。

 花葬島。

 太平洋沖に浮かぶ小さな島で、僕の故郷だ。産業の未発達な田舎で、俗世から切り離されていると云って良い、いわば孤島である。

 無論、交通の便は非常に悪く、帰省するには一苦労である。僕は今、見知らぬ漁師を説得し、やっとの思いで島に向かっていた。もっとも、漁師はいまだに怪訝な視線を僕の背中に投げかけているが。

 元来、よほどのことが無い限り、花葬島に足を踏み入れる人間などいない。ましてや、島で起こったある現象が、人々を何処までも遠ざけていた。

 奇病の流行である。

 花葬島の住民は、植物の寄生に脅かされていた。ある者は腕から、ある者は耳の穴から、花が生えてくるのである。人の身体から生えた植物は、いずれ宿主を覆いつくし、死に至らしめる。

 被害者の死体を解剖して調べると、植物は紛れも無く自然界に存在する『普通の植物』だという。死因は、生えてきた植物の根が、脳や臓器を侵したためと見られている。しかし、現象そのものは依然として解明されていない。

 島の名にふさわしい、恐ろしくも美しいその奇病は、『花葬島の呪い』として、一部のメディアやインターネットを通じて話題を呼んだ。だが、それは島民を慰めることも助けることも無い一過性の嵐だった。現代の科学では到底太刀打ちできない呪いの強さだけが、時代の片隅に、不気味に取り残されていた。

 僕はショルダーバッグを背負い直し、揺れる船の上を降りた。船はけたたましいモーター音を響かせて、そそくさと去っていった。次に彼がやってくるのは、今日の午後六時過ぎということになっていた。

 古い船着き場は、苔が繁殖し、緑色の絨毯のような様相を呈していた。懐かしさよりも、果てしない年月の重みを、僕は感じた。音も無く、歩き始める。

 僕が花葬島を出たのは、高校受験がきっかけだった。奇しくも奇病が流行り出したのと同じ時期である。早くに両親を亡くした僕は花葬島との絆が弱く、幸か不幸か、すんなりと花葬島から逃れることになった。

 もちろん、故郷を捨てたという事実に対して、気おくれが無かったわけでもない。ただ、自分の身を守るだけで精いっぱいだった僕には、人間的にも経済的にも、島の友人らを連れて逃げることは不可能だった。

 浮かんでくる当時の友人らの顔を振り払いながら歩き続けると、島で唯一の売店『サンシャインマート』の赤錆びた看板が見えてきた。店内には蛍光灯が灯り、驚くべきことにまだ営業している。僕は重いガラス戸を横に開き、足を踏み入れた。

「いらっしゃい」

 店主の春枝婆ちゃんが声をかけてきた。

「こんにちは」

 僕は、云う。

「おや、珍しい。本土の人かい」

「ええ、まあね」

 春枝婆ちゃんは僕のことに気付かなかった。春枝婆ちゃんの瞼には、赤い蔦がいくつか覆いかぶさっていた。僕は何も云わずに、店内をうろつく。十年前と変わらない匂いが満ちていた。棚はずいぶん低く感じられ、品ぞろえは一層悪くなっていた。僕は古い缶コーヒーを手に取り、120円と一緒にカウンターに置いた。

 春枝婆ちゃんの手が、ふと、止まった。

「も、もしかして、ミナト君かい?」

 僕はぎょっとして立ち尽くした。その態度が、春枝婆ちゃんのささやかな疑惑に対する明らかな答えとなってしまった。

「ああ、ああ、ミナト君。そうだろ?」

 春枝婆ちゃんは慄くように震えながら、僕の手を握った。

「婆ちゃんには判るよぉ、ああ、ミナト君が帰ってきてくれたよぉ」

 僕は何も云えないでいた。春枝婆ちゃんはそっと手を離すと、すっと涙を流しながら、僕の顔のほうを向いて笑った。

「はぁああ、よぉく、帰ってきてくれたねぇえ。ああ、ああ、御代なんか要らないよ。それより、なんっも無くて、ごめんねぇ。こっちには、しばらく居るのかい?」

 春枝婆ちゃんの顔面に張り巡らされた蔦を視ながら、僕はやはり、何も云えないでいた。

「こんにちは」

 僕と春枝婆ちゃんの静謐な時間に、聴き慣れぬ男の声が割り込んできた。

「ああ、先生! こんにちは」

 春枝婆ちゃんは元気に云った。先生と呼ばれたその若い男は、白衣を着ており、島民とは一味違う雰囲気の持ち主だった。

「おや、その方は?」

「昔、島に住んでた、ミナト君だよぉ、帰ってきてくれたんだぁ」

 春枝婆ちゃんは勝手にそう紹介した。

「こんにちは」

 僕は男を観察しながら云う。

「これはこれは、遠いところをお疲れ様。刈場と云います」

 名前を受け取ってしまったので、僕は応えるしかない。

「高崎ミナトです」

「昔、住んでいたのですか?」

「ええ、まあだいぶ昔です」

 刈場先生は先ほどの僕と同じように、店内を一巡してから缶コーヒーを買った。

「それじゃ、また来ます」

「はぁいぃ、お疲れ様ですぅ」

 僕も刈場先生と一緒に外に出た。

「ミナト君、帰りにまた寄ってよぉ、お茶用意してるからねぇ」

 僕は答えなかった。

 外に出ると、蝉の鳴き声が出現していた。

「ミナト君とやら、少し一緒に歩きませんか」

 刈場先生は唐突に云った。僕は正直、気が乗らなかったが、この男に対する興味も捨てきれなかった。

「いいですよ」

「いやー、しかし今日も暑いなぁ。ああ、いや、本土のほうが暑いですか?」

 歳が近いと分かってか、刈場先生はとてもフランクに話しかけてきた。

「まあ、それほど変わらないです。暑いですね」

「ミナト君は、帰省? ご実家はこっち?」

 僕らは西に向かって歩き出していた。

「いえ、もう家族は居ないんで、まあちょっとした感傷旅行ですよ」

「そうですか」

 僕は刈場先生の横顔を伺った。

「先生は、研究ですか」

「もちろん!」

 先生は朗らかに云った。僕はその勢いに気圧された。先生は続けた。

「花葬島の呪いを科学の力で解き明かし、寄生された人々を救うのが私の夢です」

「大変ですね」

「ああ。おそらく世界で一番大変な事だと思いますね。正直、死人を生き返らせるくらい難しい」

 それは誇りとも自嘲とも受け取れた。変わった人だな、と僕は思った。

「あの塔を御覧なさい」

 丘の近くに至った時、先生は突然そう云い、前方を指差した。強い午後の日差しに目を細めながら僕は、先生の指の先を見つめる。島から百メートルほど沖の海面から、ぼんやりと黒い影が、突き出しているのが見える。

 あんなもの、僕が住んでいた頃にあっただろうか? もっとも、昔の記憶なんて曖昧なものだ。僕は本当にこの島で『暮らして』いたのだろうか。今となっては古い映画の中の話のようだ。

「なんですか? あれ?」

「名前はありません。私たちはただ、『あの塔』と呼んでいます。いつの間にか出現したのです」

「はあ」

「私の見立てでは、『あの塔』がこの島の奇病の発生源です」

「えっ」

「『あの搭』がときどき煙を噴くのですよ。その煙が、種子なんですね。つまり、『あの搭』の煙に巻かれたら最後、花葬島の呪いを受け、植物人間になってしまうというわけです。おっと、ここで云う植物人間とは、もちろん世間一般のそれとは違いまして──」

 あまりにも衝撃的なことを、さらりと云ってのける。僕はたじろぎ、『あの搭』に視線を奪われながらも一歩後退した。

「そ、そんなことが分かっているのですか」

「はい。私の客観的理論的研究の成果です。動物実験と人体実験によって因果関係を証明しました」

「じ、人体実験ッ?」

 とんでもない言葉が次々と出てくる。

「え、ああ。もちろん、ナチスのようなことをしたわけではなくてですね、ただ結果として、たまたまデータが取れたということですよ。例えば、ほらね」

 云いながら、先生はゆっくりと白衣の袖をめくり上げていった。僕は息を呑んだ。腕の点滴針を打つような箇所から、青い一輪の花が凛と咲き誇っていた。

 僕はめまいがしてきた。狂っている。典型的な、マッドサイエンティストだ。

「大学は? その成果は、発表されないのですか?」

「学会は今年の春に辞めました。学者も政府も、誰もかれも、相手にしてくれません。酷いものです」

「そんな……」

 先生はからからと笑った。

「いやいや、確かに、まだデータ不足なのですよ。どうすればそれが起こるか、条件と結果は分かっているのですが、云ってみれば『なんとなく』見当がついているに過ぎないのです。どうしてそれが起こるのか、またどうすれば予防・治療できるのか、条件と結果の間にある『過程』がすっぽりと抜け落ちているわけです。そういうわけですから、私がこうして島に残り、研究を続けているのです」

「ど、どうして、そこまでして……。もともと先生は花葬島と関係が無いのでしょう?」

 訊くと、先生は真っ直ぐ前を向いたまま口元を歪めた。

「さあ。どうしてでしょうね。絶望的な事しか愛せない性分なのですよ」

 先生はそう云い、高らかに笑った。そして今度は逆に、僕に訊いてきた。

「狂っていると思いますか?」

「え」

 僕は言葉に詰まる。先生はそれを見て満足そうに微笑んだ。

「別に良いのですよ。なんと思われても。でも私にとっては、危険を感じながらも現状に甘んじて島に住み続けたり、感傷などというわけのわからないものに呼ばれて戻ってきたりする当事者たちのほうが、よっぽど不思議な存在に思えるのですけどね」

 僕は押し黙った。

「とまあ、貴重なお時間を奪ってしまいましたね。つまるところ、ミナト君、私が云いたいことはですね。君の安全に関わることです。もし君が寄生されたくなかったら、『あの搭』や、煙に近寄らない事です。幸い、煙が発生するのはいつも真夜中と決まっています。それまでに島を去ることですね」

「警告どうも。云われなくても、僕は夕方には帰りますよ」

「それは良かった。いや、良くなかったのかな、私としては。一緒に研究できる人が来てくれれば嬉しいのですけどね。いやはや、久しぶりの客人とあって、ちょっと期待してしまいましたよ」

先生は白衣のポケットに両手を突っ込み、肩をすくめた。

「それじゃ、失礼」

 先生はそう云い捨て、とぼとぼと畦道を帰っていった。

「ちょっと待ってください」

 僕は自分でも気づかない間に、彼を引き留めていた。

 先生はゆっくりと顔を振り返らせた。

「あの、先ほどの話、本当なのですか」

「本当、とは」

「煙が原因とか」

「詳細なデータが見たいのですか」

「いや、そういうわけでは」

 僕は石を蹴り、走って先生の横に追いついた。

「どうにかなるんじゃないですか。例えば、『あの搭』を壊してしまうとか」

「『あの搭』を壊す? ああ、なるほど」

「学会レベルで証明できなくても、とにかく実力行使と云いますか…。そうすれば、病気も無くなったりするんじゃないですか?」

 先生はにやりと笑った。

「もし、『あの搭』の下から、種子の煙がモクモクと噴き出して来たらどうするのですか?」

「あ…」

「おそらく、そんな濃度の煙を浴びたら日本中が一瞬でウッドマンになってしまいますよ」

「じゃ、じゃあ、壊すんじゃなくて、カバーをかけるとか」

「カバーを掛けに行く人が嫌がるでしょうね。『あの搭』が煙を『吐き出す』のは真夜中ですが、搭の付近には煙が停滞していますし」

「それじゃあ、なんだろう、こう、マスクとか何かで」

「第一、吸ったら駄目というわけでも無いんです。触れてもアウト。防護服も効果があるかどうか」

「う…」

「遠くから搭を破壊する壊すミサイルなんてもってのほか、巨大なカバーをこしらえることも、それを遠くからかぶせる技術も無い。私たちに出来ることは、地道な人体実験と動物実験だけです」

「そんな…」

「なかなか絶望的ではありませんか」

「でも、先生は解決するつもりでいらっしゃる」

「もちろんです。私は難しいパズルを解くのが好きです。そして解き終ったパズルなどゴミでしかない」

「花葬島を解き終ったら、また何処かに流れるということですか」

「まだ、そんなに先の事は考えていません。それに花葬島は美しいし、私みたいな者が長居するにはもったいないくらいです。ある種、解決を躊躇っている自分も認めざるを得ないくらいでしてね」

 僕はやはり、からかわれているような気分の悪さを感じた。できればすぐにでも先生をこの島から追い出したいくらいだった。しかし先生の揺るぎない哲学感と、そして科学力を前にしては、爆発しそうな苛立ちを押さえつけるしかなかった。

 僕はすっと息を吸い、言葉を探し、そして仕掛けた。

「もし、万一、誰か協力者がいれば、そんな躊躇いを断ち切って、一気に解決に至らしめるということもあると思いますか──?」

 先生は身体を正面に向けて、僅かに驚きの表情を見せた。その顔が、大地が雲によって翳るようなスピードで、ゆっくりと、満足げな、悪魔めいた笑顔に変わった。

「それは、ミナト君が危険な研究に協力してくれるということですか?」

 僕は息を呑んだ。脳裏に、赤い蔦に埋もれ行く春枝婆ちゃんの姿が浮かんだ。

「何をすれば、不足分のデータが集まるんですか」

 僕は応えた。

 先生は寄生されたほうの腕を差し出し、握手を求めた。

「付いてきたまえ」


 先生の研究室は、島に一つしかない診療所を作り変えたものだった。僕はその外観に一瞬、懐かしさを覚えたが、室内に入るとまるで見たことの無い内装になっていた。そこにあったはずの亀のぬいぐるみや、絵本は消失し、代わりにコンクリートの壁が露出して、機器やコード類が繁殖していた。

「驚きましたか。君が居ない十年の間で、この島の地域社会は変わりました。前の先生が亡くなってから、病人は本土に運ばれるようになったのです」

 先生はそう説明しながら、奥へと僕を誘った。

「現在取り掛かっているものは、種子の煙の遮蔽実験です。様々な材質・厚みのケージによって捕縛された実験動物を、夜中に流れてくる煙に曝露し、発病の有無を調べるというわけです。そしてこちらがその結果です」

 先生はショーに誘うかのような動作で、デスクの上を照らした。そこにはおびただしい数の箱が並んでいた。金属製のもの、透明なもの、カラフルなもの、籠のようなもの、目の細かい籠のようなもの──。そのいずれの中にも、ラットの死体が入っているようだった。そのうちいくつかは緑色に変色しており、藻が覆っているようだった。

「先ほど、地道な人体実験しかないと云いましたが、実はそれなりの佳境に差し掛かっています。といいますのは、今までの検証で、経口摂取以外でも感染する事、目の粗い網やプラスチックのような密度の低い素材では遮蔽できない事、曝露時間と発病の早さにはある一定の比例関係がある事、などが分かってきているからです」

「だいぶ、解明されてきているのですね」

 僕は驚かずにはいられない。アナログな実験ではあるが、最先端のものだ。

「もちろん、実験自体はかなりの数をこなしていますからね。ただ」

「ただ?」

「やはり過程と原理は分からない。これを知るためには、『あの搭』に行って、発生源を調べることが避けられません」

 なるほど。

「それじゃあ、遮蔽実験の結果を踏まえて防護服を用意し、いよいよ『あの搭』に踏み込むわけですか」

「そうです。しかし、主たる実験者である私が出向くわけにはいかない。何故なら、万一、遮蔽実験の結果が誤りだった場合、根が張って帰って来れなくなってしまうかもしれません。研究が途絶えてしまうのです」

「つまり、保身のためですか」

 僕は毒づいてみた。ところが先生はなんら気を悪くする様子はなかった。

「そうです。そして研究のためです。この研究をしている者は、現在、世界に私しかいない。今まで協力者を探して、居なかったわけですからね。私が死んだら研究が死ぬ。今までのラットたちも無駄死にということになる。それだけは絶対に避けなければいけません」

「遮蔽実験の不確かさはどの程度のものなのですか?」

 僕は訊いた。

「煙の正体と発病の原理が分からない以上、どこまでも付きまとうと云えるでしょうね。煙の正体に関しては、奇病の発生の直後から世界中で研究されてきたのですが、疫病学的・光学的・化学的・物理的、いかなる手段をとったとしても、ついぞ同定されることはありませんでした。つまり信じられるものを信じて、やるという段階です」

 とにかく正体不明というわけか。いよいよ呪いめいている。先生と煙の正体を議論するつもりはないが、素人考えでは到底及ばない難しさなのだろう。

「分かりました…」

 僕は云い聞かせるように云った。

「僕が防護服を着て、『あの搭』に行ってきます」

 そう云い切ると、さすがに、先生も少しは驚いたようだ。

「本当ですかっ」

 僕は黙って頷く。

「私の研究成果を信頼するというのですか」

「さあ。それは分からない」

 信頼は実績によってのみ築かれる。先生の思想は、どうも気に食わない点が多いが、少なくとも、先生は実績を積み上げてきたように僕には思えた。

「でも、まかりなりにも、ここは僕の故郷だ…。僕がやるべき事である気がする…」

 そうだ。僕は今、花葬島に還ってきている。東京で暮らしているとき、どんなに遊んでも騒いでも、花葬島はいつも僕の胸の底にあった。それが僕を掻き見出し、仕事も勉強も、人間関係もなんとなくこなし、僕は根なし草のような、いい加減な毎日を送ってきた。花葬島は僕を縛り、呼び戻そうとしてきたのだ。おそらく、それに決着をつけるべく、僕は還ってきたのだ。先生は理解できないと云ったが、それもそうだ。きっと、運命的な力が、僕を動かしているのかもしれない。

「ああ、ああ」

 先生は激しく動揺しているようだった。

「素晴らしい! ミナト君。君は一体…。颯爽と現れ、私の研究を成就させようというのか…。ああ、なんという……」

 気づくと、先生は壊れたように涙を浮かべていた。

 僕は一瞬で、先生は可哀想な人なんだな、と分かった。この人はきっと、誰よりも運命に近づきたくて、もがいてきたのだろう。絶望的なものにしか魅力を感じれない……それはどんなに、乾いた日々だったのだろうか。そんな一人の孤独な男への情が、僕の気持ちをより高ぶらせた。

「本当は、僕は逃げるべきじゃなかったんです。十年前に」

 僕は再び云い聞かせるようにそう呟いた。

 先生は意気揚々として、隣の部屋に入っていき、すぐに戻っていた。手には重そうなツナギが抱えられている。

「それは…」

「これは、私が開発した花葬島用の防護服です。知り合いの企業に頼んで、オーダーメイドしてもらいました。ラットの遮蔽実験を参考に、特殊な鉛化合物を含むガラス繊維で構成されています」

 僕はそれを受け取った。想像以上に重く、不思議な感触だった。

「これを、着てくれるのですか?」

 僕は黙って頷いた。先生は大粒の涙を流し、絞り出すように、

「ありがとう」

 確かにそう云った。奇妙な感じだった。あれほど厭な感じの人間だったのに、何かにひたむきになって涙を流す姿というのは、どうにも眩しいというか照れくさいというか。これまでぼんやりと生きてきた僕にはない輝きだった。

 僕はさっそくガラスの服を着てみた。着心地は悪くない。RPGで云う『伝説の防具』を装備したような気持だった。

「どうですかね」

 云うと、先生は何も云わずに、感慨深げに僕のことを視ていた。

「決行はどうしましょうか。いつが良いですか」

 僕は少し考えてから

「今日、もう行きましょう。準備はできているのでしょう?」

 そう答えた。実際、僕自身、かなり動揺していた。花葬島についてから知った病気のことは、何もかもが衝撃的で、怖さも大きい。それだけに、決心が鈍らないうちに決行してしまったほうが良いと判断した。

「確かに、準備としては、カメラ等もそろっていますし、特に何ら問題はないのですが、本当に良いのですか? もう少し考えてみては…」

 先生はここに至って弱気になっているようだった。自分自身が侵されるのは許容しても、他人が傷つくのは嫌なのだろう。案外優しい一面も持っているのだ。先ほどラットの死を無駄にしたくないと云ったときもそうだった。

「間を置くと決心が鈍りそうで」

 僕は云った。

「実は、私もですよ。ミナト君。君と今日初めて会ったのが嘘のようで、夢のようだ」

 先生は僕の肩に手を置いて、もう一度ありがとう、と云った。


 先生が用意したワインで、ささやかな間食を取ったのち、僕らはモーターボートで『あの搭』を目指した。夜になると煙の排出が強くなるので、陽が暮れないうちが勝負だ。

 僕の任務は、『あの搭』の内部を、できる限り写真に収める事だけだった。考察は後でじっくりすればよい。先生の頭脳があれば、写真だけとはいえ、そこからいくつもの重大な事実を引き出すことができると、僕も思っていた。

 先生は実験的に分かっている安全地帯のギリギリまでモーターボートを接近させ、そこからはゴムボートを使って僕を『あの搭』に放つ。

「ミナト君。我々が懸念すべきことは、人智を超えた超自然科学的なことだけだ…。こう云っては何だが、私は『あの搭』に『大いなる意思』のようなものを感じる」

「大いなる意思ですか?」

「そうだ。科学者のくせにこんなことを云ってはなんだが……。手段としては、確かに壮大な電気化学反を使っているのかもしれないが、その背後には、我々を滅ぼそうとする巨大な存在が居て、『あの搭』を作ったのではないかと思えてしまうのだ」

 僕は心底ぞっとした。

「だから『彼』が本気になった時、果たしてその防護服がどれだけの意味を発揮できるかどうか…。とにかく気にするべきは、ミナト君が植物に侵されないかといいうことだ…。そして、どんなに少しでも、怖いと思ったら、すぐに引き返すようにしてくれ」

「分かりました…」

 そんなことを云ったら、先生も同じではないか、と僕は思った。僕らは恐怖と信念で結束していた。

 ボートは半径二十メートルほどの場所まで近づいた。先生に異常はなかった。煙はまだ見えなかったが、僕は膨らませたゴムボートに乗り込み、先生の手を離れた。

 目の前になった『あの搭』は、人工的とも云えるほどつるつるした黒い表面を湛えていた。周囲を回ると、ぽっかりと入口のような穴が開いていた。

「何かあったら、すぐに戻るんだぞ!」

 先生が後ろから叫んできた。防護服の視界の片隅に、先生の白衣を見送って、僕はいよいよ搭の内部に潜入する。

 僕は渡された懐中電灯のスイッチを入れた。

 搭の内部には、人工的な階段が設えてあり、上へ上へと昇っていた。これは一体…。僕はさっそくカメラを構え、フラッシュを焚いて写真を撮った。シャッターの音が響く以外は何も聴こえず、どうにも現実感に乏しい領域に踏み込んでいる気がしたが、デジタルカメラの画面には、つややかな黒い通路が確かに切り取られていた。

 僕は歩みを進める。

 煙が、濃くなってきた。 

「ひっ」

 僕は一瞬、段を踏み外す。

 無機質な壁面に空いた穴から、件の煙が噴き出していた。これに触れると、植物に寄生されるという…。僕は息を呑み、十秒、二十秒と立ち尽くした。とてつもない恐怖だった。植物に寄生されると、一体どんな感じを味わうのだろうか。むず痒しさか、倦怠感か、刺すような痛みか──。

「いや、大丈夫だ。僕には防護服がある…」

 僕は意を決し、階段を上った。白い防護服の表面で、煙の対流する様子が視認できた。その内側では、一筋、二筋の汗が流れる。

 身体に異常はなかった。先生の研究成果が実を結んだのだ。僕は安堵し、ゆっくりと階段を上がっていく。途中から階段はらせん状になり、狭い搭の内部で、僕を上へ上へと導いていた。ずっと同じような景色の連続だった。階段があり、一様な黒い壁があり、ときどき煙が噴き出している小さな穴がある。監視カメラや、照明や、植物などといったオブジェクトは何もなかった。

 それでも、僕は数段上がるたび、何度も何度も写真を撮った。何も見落とすまいと思っていた。

 階段の終わりが見えた。らせん階段が、頭を落とされた蛇のように唐突に、途切れていた。最終段には、一メートル四方の床が張ってあった。見上げると、天井は三角コーンを下から見上げたような構造になっていた。

 結局、何も無かった…? 僕は呆気にとられ、しかし、とびきりの不気味さを胸に刻みながら、最終段に至った。

「あ!」

 そこには、一台の古いパソコンが置いてあった。理屈は分からないが、電源は生きているようで、ディスプレイが青白い光を投げ出していた。

 これで、搭は人工物だということは疑いようが無くなった。僕は写真を数枚撮り、画面に向かい合う。一体、誰がなんの目的でこんなものを作ったのだろうか。

 点けられたままのデスクトップには、一つの文書ファイルがぽつりと置かれていた。タイトルは「花葬島」。

 僕はマウスを手に取った。息を呑み、カーソルをそれに合わせ、ダブルクリックした。

 パソコンが古いのかファイルが重いのか、ロードに時間がかかっているようだ。

 それを見ていたときだった。

 サワサワサワ──。

「え」

 僕は恐ろしい音を聴いた。

 音の正体を知らないうちに、それが恐ろしいものだと気付いた。

 僕は階段を振り返るも、何もない。煙の勢いも、なんら変わらない。

「なんだ」

 僕は声に出した。そうしていないと、精神の均衡が保てないと思った。再びパソコンの画面を見る。画面はロード中のままだ。フリーズしていないだろうな、と僕はマウスをハチャメチャに動かす。そのとき、防護服の内側、僕の頬のあたりに、何かが触れた。

「うわああ!」

 次いで、虫に強く噛まれるような痛みが、腕や首筋のあたりから湧き上がってきた。

「え、嘘だろ、おい」

 サワサワ、サワサワ。

 蔦の伸びる音だ、これは。

 気付くやいやな、僕の視界に黄色い花びらが出てきた。

「うわ、うわ」

 僕は慌てて顔を掻きむしろうとするが、それは防護服の内側なので、どうしようもない。

 ああああ、違う! こんなんじゃない! こんなハズじゃなかった! 

 違う! 逃げれば、逃げれば良かったんだ! 運命でもなんでもない!

 畜生! 先生! 防護服に欠陥!? いや、違う。さっきまで大丈夫だったのに、突然だ! 先生が悪いんじゃない。こんな搭を創ったやつらが悪いんだ! 大いなる悪意が作用しているのだ。

「くそ! くそ!」

 僕は意地になって画面を抱え込んだ。

 ああ、根が、肉に食い込んでくる。蔦が絡まる。おそらく、もう駄目だ。一体どうしてこんなことをするんだ! 僕だって好きで花葬島に生まれたわけじゃない! なのに、どうして! いつの間にかこんなものを建てやがって、いつの間にか僕を巻き込みやがって、 畜生! 馬鹿野郎! 愚か者め! 悪魔め!

 見てやる、睨み付けてやるぞ。こんなふざけたことをした犯人を。そして、呪ってやる!

 やっと、ファイルが開かれた。

 僕は目を見開き、大急ぎで、それを斜め読みした。読めば読むほど、震えてきた。蔦は僕の震えを吸収するようにしなやかに伸び、防護服の袖のところを破り、ついに青い花が顔を出した。


 ──幾重にも重なる波の向こうに、緑色の影が見えてきた──ミナト君、帰りにまた寄ってよぉ、お茶用意してるからねぇ───さあ。どうしてでしょうね。絶望的な事しか愛せない性分なのですよ──でも、まかりなりにも、ここは僕の故郷だ───僕がやるべき事である気がする──。


 全ては、残酷に仕組まれていた。

 嘘だ、と僕は思ったが、どうしようもなかった。僕は間違ったのだ。僕は自ら、悪夢の上に戻ってきてしまったのだ。僕は今、生きた意味を知った。それは同時に、今から死ぬことに他ならなかった。涙が溢れてきた。それを吸って、植物たちはまた一層育つだろう。

 逃げれば、逃げれば良かったのだ。何処までも、何処まででも逃げれば良かったのだ。こんなハズじゃなかった。くそ、甘かった。イタイ、苦しい! 想像していたのとゼンゼンチガウ! 畜生、呪ってやる。こんなものを作りやがって! 未来永劫、恨んでやる。憎んでやるぞ。

 故郷で花に包まれて死ぬ僕は、どうだ、甘く美しいか?


 END


少々長めでしたが、最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 相変わらず面白かったです。 もっとふくらませれば長編にもできそうな内容ですね。 [気になる点] すみません。オチが自分にはよく理解できなかったです。
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