満員電車の音楽家と星空の車内アナウンス
夜。 一番星が輝く頃、停留所のドアを開けてやって来たのは一人のバイオリニストの青年だった。
「すまない、お茶を一杯いただけないだろうか」
青年は酷くやつれて目の下にクマがある。
「こっちに座るべ」とツムギが窓際の席へ案内した。
「オラ、ツムギ。 今ルカが美味しいお茶を淹れるから待っててけろな」
「俺はアルト……」
アルトは名前だけ言うと力なく俯いた。
ルカが棚から夜空のような深い紺色の茶葉を取り出しお茶を淹れる。
「お待たせしました。 本日のメニューは『静寂のハーブティー』です」
差し出されたカップの中では淹れたてのはずなのに湯気がほとんど立たず、まるで鏡のような静かな水面に窓の外の一番星がぽつんと映り込んでいた。
アルトが一口すすると息を吐き話し始めた。
「噂通りだ……ここの停留所のお茶を飲むと頭の中に詰まっていた何かがすーっと消えていくそうな」
「頭の中に何が詰まってただか?」
ツムギが首を傾げながら、アルトの足元にある黒い頑丈なケースを覗き込んだ。
「それ、なんだべ?」
「……バイオリンだよ。 俺はこれで音楽を奏でる仕事をしているんだ」
アルトはケースを愛おしそうに、けれど怯えるように見つめた。
「最近はこれを持つだけで指先が震える。 聴衆からの期待が重くて押しつぶされそうなんだ。 次はもっと素晴らしい演奏を、もっと新しい旋律をって求められて……いつか彼らの期待に応えられなくなったら、いつか俺の音楽に飽きて誰もいなくなってしまうんじゃないかって、そればかり考えてしまうんだ」
「頭の中が少し静かになりましたか?」ルカが聞く。
「ああ。 今は驚くほど何も聞こえない……でもまた聞こえるようになるんだろうけど」
アルトは悲しげに視線を落した。
「アルトさん! ちょっとオラと外へ出てみるべ!」
「え?」
ツムギがアルトの手を引いて外へ出る。
空には満天の星が輝いている。
「ついさっきまで一つだけだったのにもうこんなに……」
夜風に髪を撫でられながらじーっと空を見上げていると自然と口元が緩んだ。
そんな彼の横顔を見てツムギが話す。
「飽きるとか飽きないとかオラにはよくわかんねぇべ! 目の前で鳴った音はオラにとってはいつだって世界で一番新しいど! アルトさんの音、オラ聴いてみたいべ!」
ツムギの言葉に意欲が湧いたように目を見開きバイオリンを持ってくるアルト。
「じゃあ今日はツムギくんのために一曲弾こうか」
「いいんだべか!? オラ、バイオリンきくの初めてだ!」
「それは光栄だ」
アルトがバイオリンを弾き始める。
尻尾を振りわくわくしながら聴き入るツムギ。
そんな二人を停留所のドアの前から微笑ましく見ているルカ。
アルトが奏でる美しい音色は夜の静寂に響き渡り、まるで星々がその旋律に合わせて瞬いているかのようだった。
最初は震えていたかもしれない彼の指先は、今はもう迷いなく弦の上を躍っている。 誰の期待も誰の評価もそこにはない。 ただ、目の前で目を輝かせている小さな狼の獣人と、自分を包み込んでくれる夜空のためだけにアルトは心から音を楽しんでいた。
そんなアルトの楽しさが伝わったのか、ツムギが音楽に合わせて楽しそうにステップを踏みながら話し出した。
「アルトさん! アルトさんのバイオリン、なんだか遠くへ走る夜の列車みたいだべ!」
「え……?」
アルトは弓を動かしながら驚いてツムギを見た。
ツムギは満天の星空を指差し、声を弾ませる。
「聴衆の期待っていう宇宙人は今は別の星に旅立っていねぇど! ここはアルトさんだけの自由な王国だべ! 駅のホームにはハーブティーの香りと自由な時間が整列してお出迎え中だど!」
アルトの胸の奥で何かがパチンと弾けた。
期待に応えなきゃいけない、休んじゃいけない、何かを生み出し続けなきゃいけない。 そんな風に自分を縛り付けていた鎖が、ツムギの無邪気な言葉によって星空へと吸い込まれていくような気がした。
「今日は自由気ままに弾くことものんびりすることも立派な音楽だべ! まずはハーブティーでも飲んで自分を甘やかすミッションが最優先だど! ドアが開いたら、そこはアルトさんだけの聖域だべ。 思いっきり伸びをしてこの王国の空気を吸い込んでけろー!」
ツムギの「乗車お疲れさまでしたべ!」という元気な声に合わせるように、アルトのバイオリンは最高に軽やかで甘くて自由なファンファーレを響かせた。
最後の音が夜風に溶けたとき、アルトはバイオリンを抱えたまま声を上げて笑っていた。
「ははっ……! 最高の案内人だな、ツムギくん。 俺の音楽はいつの間にか窮屈な満員電車になっていたみたいだ。 君の言う通り、一度ぜんぶ夜空にでも投げて自分を思い切り甘やかしてあげなきゃな」
「おう! よくがんばったべ、アルトさん!」
ツムギが誇らしげに胸を張ると、停留所のドアの前で見ていたルカがパチパチと優しく拍手を送った。
「乗客のアルトさん、無事に自由な王国へ到着したようですね。 ハーブティーのおかわりはいかがですか?」
「いただこう」
一番星の下で始まった臨時の夜行列車は、一人の天才の心を乗せてとっても優しい終着駅へとたどり着いたのだった。
アルトを見送った後。
「ルカ! 今日は大発見したべ!」
「なあに?」
ルカが片付けをしながら振り返ると、ツムギは誇らしげにふんぞり返り尻尾をブンブンと振っていた。
「オラに物語を作る才能があったなんて」
「さっきの『自由な王国』のお話? なんだかどこかの車内アナウンスみたいでとっても素敵だったわよ」
「だべ!? アルトさんも喜んでたし、オラ、次のお客さんが来たらまた面白いお話で案内してやるど!」
「それは頼もしいわね。未来の大作家さん」
ルカはクスッと笑うと、ツムギの目の前にコロンと丸いジャガイモと小さなピーラーを置いた。
「次の物語を考える前に、まずは夜ご飯のお手伝いというミッションを最優先にしてけろ」
「あっ、ルカ、オラの方言真似したべ!」
「ふふ。 さあ、ツムギが頑張ってくれたら今夜はとびきり美味しいコロッケになるかもね」
「コロッケ!? やるべやるべ! オラ、皮むきの天才になるどー!」
小さな手で一生懸命ジャガイモを握りしめるツムギをルカは目を細めて見つめた。
窓の外では満天の星空が静かに湖を照らしている。
湖畔の停留所。
魔法使いと小さな狼の時間は、夜の静寂の中でも温かく輝き続けている。




