堅物団長、幸運(の豚)令嬢をロックオン!
王国騎士団長、アレクシス・グライフの一日は、寸分の狂いもなく始まる。
夜明けと共に起床し、冷水で身を清め、一分の隙もなく磨き上げられた純白の礼装用制服に身を包む。執務室の机に積まれた書類は、種類ごと、重要度ごとにミリ単位で角を揃えられ、彼の完璧主義を体現していた。廊下を歩くブーツの音は、まるでメトロノームのように正確なリズムを刻み、その音が聞こえるだけで若い騎士たちは背筋を伸ばす。
規律こそが力。秩序こそが美。それが彼の信条であり、史上最年少で騎士団長の地位に上り詰めた彼の力の源だった。部下たちは敬意と畏怖を込めて、彼を「鉄の団長」と呼んだ。その鉄仮面のような無表情が崩れることなど、天地がひっくり返ってもあり得ないと誰もが信じていた。
少なくとも、その日までは。
*
その日、王都は建国祭の熱気に包まれていた。色とりどりの旗がはためき、楽団の陽気な音楽が響き渡る。そんな祝祭の雰囲気とは裏腹に、騎士団本部には緊迫した報告が舞い込んだ。
「団長! 中央大通りが、完全に麻痺しております!」
「原因は?」
アレクシスは書類から目を離さずに問うた。酔っ払いの喧嘩か、荷馬車の横転か。いずれにせよ、迅速に排除すべき「不規則要素」だ。
「それが…原因は、一人の令嬢と…その、巨大な豚、であります!」
報告した騎士の声が、わずかに上ずった。
アレクシスのペンが、ぴたりと止まる。豚? 聞き間違いか。彼はゆっくりと顔を上げ、氷のような視線で部下を射抜いた。
「もう一度言え」
「は、はい! 豚です! 巨大なピンク色の豚が一頭!」
もはや、執務室で待っている場合ではなかった。王都の心臓部たる中央大通りが、豚一匹によって機能不全に陥っているなど、騎士団の沽券に関わる。
「私が出る。馬を引け」
アレクシスは自ら馬を駆り、現場へと向かった。彼の純白のマントが、風を切り裂いて翻る。その姿は、まるで秩序の乱れを断罪する一振りの剣のようだった。
*
現場の光景は、報告以上に混沌としていた。
怒号を上げる商人、泣き出す子供、立ち往生した貴族の馬車。その全ての中心に、その娘はいた。
田舎の貧乏男爵令嬢、フローラ・マーガレット。彼女は、けなげに貯めたなけなしの銀貨を握りしめ、生まれて初めて王都の祭りにやってきたのだった。きらびやかな街並み、陽気な人々。何もかもが新鮮で、彼女の心は浮き立っていた。そして、ほんの出来心で引いた福引で、彼女は人生最大の「幸運」を引き当ててしまったのだ。
「特賞! おめでとうお嬢さん! 幸運を呼ぶ大豚一頭だ!」
陽気な福引屋の言葉と共に引き渡されたのは、彼女の背丈ほどもある、丸々と太った巨大な豚だった。
そして今、その「幸運」は彼女の腕の中で「ブヒィィッ! ブゴォォッ!」と猛々しい叫びをあげ、大通りをパニックに陥れている。
「まあ、大人しくしてちょうだい、ポークリンちゃん。お家に帰りましょうね」
フローラは今しがた名付けたばかりの豚に優しく話しかけるが、都会の喧騒に興奮したポークリンは聞く耳を持たない。
そこへ、群衆を割って白馬に乗った騎士が現れた。神話の英雄かと思うほどに美しく、そして氷のように冷たい貌。
「貴様! 何をしている! 直ちにその…獣を通りからどけろ!」
雷鳴のような声に、フローラはぱっと顔を上げた。困り果ててはいたが、助けが来たとばかりにその表情はぱあっと明るくなる。
「まあ、騎士様! 助けてくださいまし! 福引で特賞が当たってしまいましたの!」
「特賞…だと?」
アレクシスの眉が、わずかにひそめられた。この混乱の元凶が、福引の景品? ふざけているのか。
「はい! 『幸運を呼ぶ大豚』ですって! でも、この子、思ったより重くて言うことを聞いてくれなくて……。騎士様、この子を宿まで運ぶのを手伝っていただけませんか?」
ほほほと朗らかに笑いながら、フローラはとんでもないことを口にした。王国の治安を守る騎士団長に、豚の運搬を依頼する者など、後にも先にも彼女だけだろう。
アレクシスのこめかみに、青筋が浮かんだ。
「戯言を……。これは命令だ。五秒以内にその場を動かせ。さもなくば、実力行使も辞さん」
「まあ、そんな! この子は幸運の印ですのに! はい、今やりますの! よいしょ、こらしょ……きゃっ!」
フローラが渾身の力を込めて豚を抱え上げようとした、その瞬間だった。
ポークリンは巧みにその腕からするりと抜け出すと、雨上がりの泥水たまりへと見事なダイブを決めた。そして、泥の飛沫を豪快に撒き散らしながら、一直線に駆け出した先は――純白の制服を纏った、潔癖症の騎士団長、アレクシスの正面。
ザッパァァァン!
世にも凄まじい音が響き渡った。
鉄の団長の、塵一つなかったはずの純白の制服は、見るも無残な泥のアート作品へと変わり果てていた。胸元には、豚の蹄の跡までくっきりと刻印されている。
周囲の騎士たちが、カッと目を見開いて絶句した。市民のざわめきが、水を打ったように静まり返る。誰もが、この世の終わりが来たかのような顔で、泥まみれの団長を凝視していた。
「……………………」
アレクシスは、自分の身に何が起きたのか、すぐには理解できなかった。ただ、鼻につく泥の匂いと、制服にじわりと染み込む冷たい感触だけが、悪夢のような現実を告げていた。
「まあ、まあ大変! 泥んこですわ! 大丈夫ですか、騎士様!?」
悪びれる様子もなく駆け寄ってきたフローラは、あろうことか懐から取り出した小さなレースのハンカチで、団長の胸元を甲斐甲斐しく拭い始めた。その行為は、泥の汚れを薄く引き伸ばすだけで、事態をさらに悪化させている。
その能天気さと、あり得ないほどの距離感のなさに、ついにアレクシスの思考回路は焼き切れた。
「……全員、聞け」
地獄の底から響くような、低く、冷たい声だった。
「この女と……この豚を、公務執行妨害及び騎士団長への侮辱罪の現行犯で、一時拘束する! 丁重に、屯所へ『お連れ』しろ!」
こうして、おっとり令嬢フローラと幸運の豚ポークリンは、王国で最も規律に厳しい場所へ、団長直々の命令で連行されるという、前代未聞の事態になったのである。
*
王国騎士団の屯所は、静寂と規律に支配された、いわば鉄の城だった。その一室に「保護」されたフローラは、しかし、自分が囚われの身であるという自覚は欠片もなかった。
「まあ、立派なお部屋! それに、ポークリンちゃんのお部屋まで! なんてご親切なんでしょう!」
彼女と豚は、来客用の清潔な部屋と、隣接する中庭の一角をあてがわれた。フローラは、これを「道端で困っていた自分と豚を、親切な騎士様が保護してくれた」のだと、一点の曇りもなく信じ込んでいた。
翌朝、アレクシスが部屋の様子を窺いに来た時、フローラは満面の笑みで彼を迎えた。
「おはようございます、騎士様! 昨日は本当にありがとうございました。ところで、その制服をお貸しくださいな。私が綺麗にお洗濯いたしますわ」
「……貴様、自分がどういう状況か分かっているのか」
アレクシスは、この娘の底なしの能天気さに眩暈を覚えた。
「はい! 騎士様のご厚意で、雨風をしのげるお部屋と、美味しい朝食までいただいております! このご恩は、私の洗濯技術でお返ししませんと!」
そう言って、彼女は自信満々に胸を張った。
アレクシスは深いため息をついた。この女に何を言っても無駄だ。彼は、昨日の泥まみれの制服を侍従に持ってこさせた。侍女に任せれば済む話だが、この女が「恩返し」を諦めない限り、またどんな騒動を起こすか分からない。いっそ、目の前でやらせて監督した方がマシだと判断したのだ。
それは、彼の人生で最大級の判断ミスだった。
中庭に用意されたタライと洗濯板を前に、フローラは腕まくりをして張り切った。
「お任せください! 我が家の洗濯は全て私の担当ですもの!」
しかし、彼女が勢いよく石鹸を泡立て始めた途端、事態はアレクシスの想像を遥かに超えた。タライから溢れ出した泡は、見る見るうちに中庭を埋め尽くし、雪景色のような有様になった。
「きゃっ! 泡が、泡が止まりませんわ!」
泡の海の中で、フローラは楽しそうに(本人にそのつもりはない)悲鳴を上げる。その光景を、遠巻きに見ていた若い騎士たちは、必死で笑いをこらえていた。あの鉄の団長が、泡まみれの令嬢を前に、ただ呆然と立ち尽くしている。歴史的瞬間だった。
結局、洗濯騒動は他の騎士たちが総出で後始末をすることになり、アレクシスの制服は、なぜかほんの少し縮んでしまった。
*
その日から、屯所での奇妙な日常が始まった。
アレクシスは「厳重な監視が必要」という名目で、日に三度、フローラの元を訪れた。それは、彼の完璧なスケジュールに組み込まれた、唯一の「不規則要素」だった。
朝は、フローラに「ポークリンちゃんが寂しがりますわ」とせがまれ、不承不承ながら豚の餌やりを手伝わされた。巨大な豚が、団長の差し出すカブを「ブヒブヒ」と嬉しそうに食べる光景は、騎士たちの間で「ポーク元帥への謁見」と呼ばれ、新たな名物となった。
昼は、フローラのとりとめのない故郷の話を聞かされた。貧しいけれど、家族と笑い合って暮らした日々の話。彼女の話は、何の変哲もない日常の連続だったが、不思議とアレクシスの心を和ませた。彼は無表情で聞いていたが、その瞳はいつになく穏やかだった。
そして夜。
「騎士様、今日もお疲れ様でした。故郷のハーブでお茶を淹れましたの。よく眠れますわよ」
フローラが差し出す温かいカップを受け取るのが、一日の終わりになった。カモミールの優しい香りが、彼の張り詰めた神経をそっと解きほぐしていく。
アレクシス自身、自分の変化に戸惑っていた。規律の権化であるはずの自分が、なぜこの秩序を乱す塊のような女を罰するのではなく、世話を焼いているのか。彼女の笑顔を見るたびに、胸の奥が温かくなるこの感情は、一体何なのか。
彼の変化は、周囲の者たちの方が敏感に感じ取っていた。
「おい、見たか? 今日の団長、口元が少し緩んでいたぞ」
「ああ。ポーク元帥が団長のブーツを舐めた時だ。いつもなら斬り捨てられてもおかしくないのに」
副団長のベルンハルトは、長年の付き合いである主君の見たことのない表情に、目を細めていた。彼は苦労人だが、この微笑ましい変化を歓迎していた。
「団長にも、春が来たのかもしれんな」
ベルンハルトは、フローラの身元調査報告書をそっと机の引き出しにしまった。彼女が、祭りのためにけなげに貯めた有り金を、王都までの旅費でほとんど使い果たしており、帰る金にも困っていることを、アレクシスにはまだ知らせずにいた。この嵐が、もう少し長く続くことを願って。
*
一月が過ぎた頃、ついにアレクシスはその事実を知ることになった。きっかけは、フローラ自身の言葉だった。
「騎士様。……私、そろそろ領地に帰らないといけませんわ」
ある日の夕食後、彼女は寂しそうに切り出した。屯所の食事は豪勢で、ポークリンもすっかり懐いてしまったが、いつまでも甘えているわけにはいかない。
「家族が心配していますし、それに…これ以上ご迷惑はおかけできません」
彼女は、帰りの旅費をどう工面するか、という現実的な問題に頭を悩ませていた。その健気な様子に、アレクシスは胸を締め付けられる思いだった。
帰す? この女を? この騒々しくも、穏やかな日常を終わらせる?
それは、考えられなかった。
アレクシスは執務室に戻ると、ベルンハルトを呼びつけた。
「フローラ・マーガレット嬢の身上について、報告しろ」
ベルンハルトは、覚悟を決めて報告書を差し出した。アレクシスはそれに目を通すと、しばらく黙り込んだ。そして、顔を上げると、いつもの鉄仮面の下で、確固たる決意を固めていた。
「……仕方ない」
彼は静かに呟いた。
「ベルンハルト。法務官を呼べ。緊急の布告を作成する」
「は…? 布告、でありますか?」
「そうだ。『王都の安全保障に関する特別措置法』だ」
翌日、騎士団の名で、極めて限定的ながらも公式な布告が発令された。
『建国祭において発見された、特異な性質を持つ大型生物(通称:ポークリン)は、その予測不能な行動により、王都の安全を脅かす危険性があると認定する。よって、当該生物及びその監督責任者であるフローラ・マーガレット嬢の身柄は、安全が完全に確認されるまでの期間、無期限に王国騎士団の管理下に置くものとする』
副団長ベルンハルトは、そのあまりに無理のある、公私混同極まりない文書にサインしながら、天を仰いだ。我が主君は、恋をするとここまで大胆になるのか。彼は、もはや何も言うまいと心に誓った。
*
その日の夕方、アレクシスは布告の写しを手に、フローラの部屋を訪れた。
「騎士様? これは…?」
難しい言葉の並んだ羊皮紙を首を傾げながら読むフローラに、アレクシスは厳かに告げた。
「そういうわけだ。貴様と…その豚は、まだ帰すわけにはいかなくなった。王国の決定だ」
「まあ! では、まだこちらにいてもよろしいのですか!?」
フローラの顔が、ぱあっと輝いた。彼女は、自分が国家レベルの危険人物(と豚)に認定されたことなど露知らず、ただ滞在が延長されたことを無邪気に喜んでいる。
「よかったわ、ポークリンちゃん! まだ騎士様とご一緒できるんですって!」
豚に抱きついて喜ぶ彼女を見て、アレクシスは罪悪感と安堵感が入り混じった、複雑なため息をついた。
こうして、鉄の団長による、おっとり令嬢の強引な囲い込み計画は、見事に成功したのだった。
季節は巡り、屯所の中庭に金木犀が香る頃になった。
フローラとポークリンが屯所に来て、早三月。ポークリンは騎士たちの人気者となり、フローラはすっかり屯所の風景に溶け込んでいた。彼女の作る素朴な焼き菓子は、屈強な騎士たちの何よりの楽しみになっていた。
アレクシスは、自分の人生が、この数ヶ月でどれほど変わったかを自覚していた。執務室の机の角は、相変わらずミリ単位で揃っている。しかし、その上には今、フローラが摘んできた小さな野の花が飾られていた。それは、彼の完璧な世界に差し込んだ、温かくて不規則な光だった。
もう、手放すことなどできない。
その日の夕暮れ、アレクシスは意を決して、彼女を中庭に呼び出した。彼のポケットの中には、王都で一番の宝飾店で作らせた、小さな指輪の箱が収められている。
「フローラ・マーガレット」
いつになく硬い声だった。フローラは不思議そうに彼を見上げる。
「はい、騎士様。今日は少し帰りが遅かったのですね。夕食が冷めてしまいますわ」
当たり前のように自分の帰りを待ち、食事の心配をする彼女の言葉に、アレクシスの決意はさらに固まった。
「君に、正式な命令を下す」
「命令、ですの?」
「そうだ。生涯、私の監視下にいろ」
フローラはきょとんと首を傾げた。その反応は、彼が予想していた通りだった。彼は一歩、彼女に近づく。
「意味が、分からないか。……つまり、私の妻になれということだ」
ポケットの箱を取り出すタイミングを完全に失いながら、彼は続けた。
「返事は『はい』以外認めん。これは、騎士団長命令だ。それと…その豚も、だ。屋敷の庭なら、走り回るには十分だろう」
不器用で、傲慢で、あまりに彼らしい求婚の言葉だった。
一拍、二拍。
意味を理解したフローラの顔が、夕焼けよりも鮮やかに、ぱっと赤く染まった。
「まあ……! まあ、まあ! 私が、騎士様のお嫁さんに?」
「……不満か」
彼の声には、自分でも気づかないほどの不安が滲んでいた。
「いいえ! 嬉しいです! とても! でも…騎士様は、本当に私でよろしいのですか?」
「君以外に、誰がいる」
即答だった。その力強い言葉に、フローラの瞳から、ぽろりと一粒の涙がこぼれた。
「はい…! 喜んで! この子も一緒でよろしいのですか?」
「……ああ。言ったはずだ」
安堵のため息をついたアレクシスは、ようやくポケットの箱を取り出し、ぎこちない手つきで開けてみせた。夕日にきらめく小さな指輪を見て、フローラは満面の笑みを咲かせた。
*
後日、婚約の挨拶のためにフローラの故郷の領地を訪れたアレクシスは、新たな衝撃を受けることになる。フローラの両親も兄妹も、彼女に輪をかけておっとりとした、マイペースな人々だったのだ。
「まあまあ、団長様! うちのフローラは昔から幸運だけはありましたからのう!」
そう言って豪快に笑う父親に、アレクシスは、自分の人生がこれからさらに騒がしく、そして温かいものになることを予感し、柄にもなく微笑むのだった。
王都のグライフ邸の広い庭で、元気に走り回る「幸運の豚」を眺めながら、彼は確信していた。
私の人生で最大の幸運は、あの泥まみれの一日だったのだ、と。