56 選ばれなかった愛
「修一さん…、ごめんなさい…」
その言葉は、まるで千切れるような痛みを伴って、葵の唇からこぼれ落ちた。修一の優しい眼差し、包み込むような温かさ、そして何よりも、絶望の淵から自分を救い出してくれた恩義。それら全てが、葵の胸を締め付ける。しかし、一度芽生えてしまった心の揺らぎは、もう止められなかった。葵は、修一に別れを告げることにした。
そして、言葉に詰まりながらも、幸樹と付き合うという事実も、彼に伝えた。それが正しい選択なのかどうかはわからない。ただせめてもの償いとして、曖昧にせず、相手を明確にすることが、葵に残された唯一の誠意だと感じていた。
修一は、ただ静かに葵の言葉を聞いていた。その表情は、いつもの穏やかさを保とうとしているようにも見えたが、葵にはその奥に深い悲しみと絶望が滲んでいるのが分かった。この時まだ、修一と幸樹の間に横たわる、深い因縁を知らない葵は、修一の寂しそうな表情は、純粋に別れのショックによるものだと受け止めていた。
葵の涙は、止まらなかった。それは、修一を傷つけたことへの罪悪感と、自らの身勝手さへの自己嫌悪。そして、大切な存在を手放すことへの、深い哀しみだった。
修一の愛は、確かに葵を救った。しかし、回復した葵の心が求めたのは、守られるだけの愛ではなかった。幸樹との出会いが、彼女の内に眠っていた情熱を呼び覚まし、社会と再び繋がる高揚感を与えた。その新たな光に、葵の心は抗えなかったのだ。
『本当に…ごめんなさい…』
葵は、その言葉を心の中で何度も何度も繰り返した。唇を噛み締め、こぼれ落ちる涙を拭うこともせず、ただ修一の静かな視線を受け止めていた。修一の無償の愛に救われ、ようやく立ち直れた自分。その彼を、今、自分の手で傷つけているという事実が、葵の心を深く苛んでいた。




