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54 秘めたる時間

 葵は幸樹と水族館に来ていた。誘いを承諾してからほどなく幸樹から提案された場所だ。無数の魚が泳ぐ巨大な水槽の前で、幸樹は楽しそうに話し始めた。

 「僕、この仕事を始めて、一番印象に残っているのは、シンさんという男性のことなんです」


 シンさんは、生まれつき体が不自由で、ほとんど話すこともできなかったという。ある日、幸樹が施設でふと口ずさんだ古い童謡に、シンさんが反応した。幸樹には、確かに歌に合わせて体を揺らしているように見えた。それ以降、幸樹はシンさんが好きなこの童謡を毎日聞かせた。すると、シンさんは少しずつ、言葉を発しようとするようになった。

 「『くぁ…』って、ほんとうにかすかな声だったけど、シンさんが初めて発してくれた時、本当に嬉しかったんです。僕はただ歌を口ずさんでいただけなのに、シンさんにとっては、『もしかしたら、もう一度言葉を取り戻せるかもしれない』って希望になっていたのかもしれないんです」


 幸樹は、ガラスの向こうを泳ぐ魚を見つめながら、静かに言った。

 「あの時、心からそう思ったんです。人って立ち直れるんだ、って」


 葵はただ静かに聞いていたが、その言葉は、まるで固く閉ざされていた心の扉に差し込む、一筋の光のようだった。葵は、自分でも気づかないうちに、幸樹の言葉に救いを求めていることに気づいた。 

 『そう、立ち直れるんだ…』


 葵は、心の中で自身に語りかけたかと思うと、咄嗟に言葉が口をついていた。

 「遠山さん、とても素敵です」

 

 葵が呟くと、幸樹は少し照れたように笑った。

 「そんなことないですよ。ただ、僕も前に進みたいだけなんです」


 その屈託のない笑顔に、葵の心は抗えないほど強く惹きつけられていった。それは修一に抱く「感謝や安堵とは全く違う、抗えない心の高揚」だった。罪悪感が胸を締め付ける。それでも葵は、彼と過ごす時間を、どうしても手放すことができなくなっていた。

 

 

 

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