3 新たな苦痛
自宅に戻った葵は、震える手でスマートフォンの電源を切った。もう何も見たくなかった。何も聞きたくなかった。唯一、心の支えにしようと縋ったのは、恋人である黒崎 賢吾だった。賢吾は大手商社に勤めている。葵が電話で事情を打ち明けた時、驚きと怒りに声を震わせ、すぐに駆けつけてくれた。
「大丈夫か、葵。俺がついてる。こんなひどいこと…絶対許さない」
最初はそう言って、優しく抱きしめてくれた。その温かい腕の中に、わずかな安心を見出せた。徹夜で憔悴しきった葵の隣で、彼はただ黙って寄り添ってくれていた。
だが、その慰めは、日に日に薄れていった。
事件から数日。賢吾と会社帰りに待ち合わせし、あるレストランで食事をとっている時だった。賢吾は少し苛立ったような表情を見せ、突然、堰を切ったように言葉を吐き出した。
「なあ、葵…会社の連中がさ、俺を見ながらなんかニヤニヤしやがるんだ」
箸を持つ手が止まった。葵は顔を上げ、賢吾を見た。彼の目は、困惑と、ほんの少しの恨みがましさを含んでいた。
「昨日なんか、商談先で、『いやぁ、黒崎さんも大変ですねぇ』とか、言いやがるんだ」
賢吾は、テーブルに肘をつき、額に手をやった。その声には、自分への同情を求めるような響きがあった。それは、葵が一番恐れていた反応だった。彼が、彼女の悲劇を、自分の不利益として捉え始めている。
「賢吾、一体何が言い…」 葵が何かを言いかける前に、彼は言葉を続けた。
「俺だって、お前との関係が公になってるからさ…少なからず影響があるんだよ。仕事に集中できないし、正直、ここ数日会社に行くのも億劫なんだ」
彼は露骨に不快感をあらわにし、自分がいかにこの状況で被害を受けているかを匂わせた。自分自身の苦しみに喘いでいる葵にとって、それは更なる精神的な追い打ちとなった。一番に理解し、支えてくれるはずの恋人が、まるで責めるかのように、自分への影響を口にし始めたのだ。
葵は、賢吾の言葉が胸に突き刺さり、鉛のように重くのしかかるのを感じた。彼もまた、好奇の目に晒され、傷ついているのかもしれない。しかし、彼の言葉は、まるで「お前のせいで」と非難されているように響いた。
「お前、本当に何も気づかなかったの?」
信頼していたはずの人の、予期せぬ本性。葵の心に、深い孤独と絶望が募っていった。