第14話 異常と日常の狭間、ミライ配信(第一部完)
カーテンの隙間から差し込む光が、白く塗られた壁に細い線を描いていた。暖房のスイッチはまだ入れていない。ひんやりとした空気が足元を這い、朝の静けさと合わさって、まるで時間が止まったような錯覚すら覚える。
目覚ましはとっくに鳴っていたはずなのに、気づかずに寝過ごしていた。ここ最近、朝がとにかく辛い。起きるだけで、どこか体の奥に澱のように溜まった疲れが押し寄せてきて、深呼吸を数回しないと体が動かない。
重い腰をようやく上げて、PCの前に座る。モニターに表示されていたのは、配信の収益管理画面。青白い光の中で数字が跳ねていた。先週比、二倍以上。グラフがギザギザと伸びていて、まるで俺の感情の波そのものみたいだった。
現実味がない。自分の声が、誰かの夜を埋めているという事実が、いまだにどこか遠い世界の話みたいだ。トーストをかじりながら、その画面をぼんやりと眺める。味はしない。
リビングの奥から、カップとソーサーが触れ合う控えめな音が聞こえた。音を立てずに動く、その気配だけで誰なのかは分かる。
「おはようございます、大和さん。今日も“監視役”……なんて言ったら怒られそうなので、サポートってことにしておきますね」
栞がテーブルにコーヒーを置きながら、いつものように笑う。軽い冗談のはずなのに、その瞳の奥には妙に透き通った光があって、まるで俺の内心をすべて見透かしているようだった。
「あ、ありがと……」
声に出すと、妙に喉が渇いていたことに気づく。
栞はいつもと変わらない。俺の部屋の空気のように、何も言わずそこにいて、何も求めずに支えてくれる。
食後、ナプキンで唇をぬぐっていると、彼女がポーチをごそごそと開けて、一本のリップクリームを差し出してきた。
「これ、使います?」
見れば一目でわかる、使いかけのリップクリーム。
まるで、それが当然の流れであるかのように自然だった。
まさかの流れに、喉がゴクリと鳴る。
え、これ、今渡されるやつ?っていうか、俺、唇荒れてたっけ……?
一瞬戸惑って、結局「あ、いや……大丈夫」と手を引っ込めると、栞がくすっと笑った。
「あ……そうでした。さすがにまだ、そういうのは早いですよね」
柔らかい声で言いながら、彼女は少しだけ首をかしげた。でもその言い方には、“いつかは当然”だとでも言いたげな、どこか決めつけのような響きがあって……一瞬、背筋に冷たいものが走った。
なんとなく目をそらして、コーヒーに口をつける。さっき淹れてくれたばかりなのに、すっかりぬるくなっていた。
口に広がったその温度のせいか、それとも別の理由か、なんとも言えないざわつきが、じわじわと胸に広がっていた。
ほんの数秒だったけど、静けさがやけに長く感じられた。
栞が自分のスマホを開き、ふとこちらに画面を向けてきた。
「見てください、これ」
そこには、俺の寝顔が待ち受けとして映っていた。寝相の悪さも、口の開き具合も、全部しっかり撮られている。
「だって……かわいいから」
悪びれもせずにそう言った栞の声が、静かな部屋の中に、やけに静かに響いた。
アイコンや時間表示の邪魔にならないように、俺の顔がぴったりと中央に収まる構図。
ゾクリとした。けど、どこかくすぐったくて、少しだけ嬉しいとも思ってしまった。
けど、それにしても、ちょっと恥ずかしすぎだろこれ。
寝顔、角度、光の入り方まで完璧って……いや、待て……もしかして結構な枚数撮られてたりする?
……いやいやいや、深く考えるな。ツッコんだら負けだ。たぶん。
栞はコーヒーにそっと口をつけた。
マグカップの縁に触れた唇が静かに離れていく。その仕草が、妙に落ち着いて見えた。
それ以上、俺は言葉が出てこなかった。
「……そういえば、今日の生放送って十九時からですよね。あと、切り抜き投稿は午後二十一時。下書きは昨日のうちに済ませてましたけど、予約投稿はまだですよね?」
栞がカップを置く音とともに、落ち着いた声が聞こえた。
思わずそちらに視線を向ける。
驚いた。言ってない。誰にも教えてない。投稿スケジュールも、収録内容も、全部俺が一人で決めていたはずなのに。
「……なんで知ってんだ?」
栞は問いかけに答えず、ただ微笑んでいた。
その笑顔は、ごく自然で、無邪気にすら見える。だけど――どこか確信に満ちていて、答えなんて求めていないような、そんな静かな強さをはらんでいた。
まるで、「知ってるのが当たり前でしょ」とでも言いたげに。
そもそもスケジュール、どこからバレた?メモ帳?下書き?……いや、さすがにそれは見られてない……はず。
俺がパスロックかけたあのメモ、見た? いや、そんなバカな……。
笑って流したけれど、心のどこかにぬるい違和感が残った。
この部屋には、日常が戻ってきたように見える。けれどその“日常”は、いつの間にか少しずつ、誰かの手で形を変えられているのかもしれない。
栞の笑顔は今日も変わらず、温かいコーヒーの湯気の向こうで静かに揺れていた。
昼過ぎ――窓際に差し込む光が少しだけ角度を変えて、机の端に斜めの影を落としていた。
コーヒーの香りもすっかり薄れて、空気はゆっくりと午後に移り変わっていく。俺は、手元の箱を見つめながら、しばらく動けずにいた。
白い、小さな箱。余計な装飾はないけれど、光を反射するパッケージは、やけに新品の存在感を放っている。
収益が確定したとき、自然とこれが頭に浮かんだ。
ひび割れた画面、鈍いタッチ。栞が当たり前みたいにそのスマホを使ってるのが、ずっと気になってた。
文句ひとつ言わずに我慢してる姿が、妙に引っかかって。
新しいのを渡したら、どんな顔するんだろうって思った。
喜んでくれたら、それでよかった。
ゆっくりと息を吐いてから、箱を手に取り、そのままそっと栞の前に差し出した。
「……大和さん?」
声に顔を上げると、栞が小首を傾げていた。俺が差し出した箱を、きょとんとした顔で見つめている。
「……これ、私に?」
その声は驚いていたけど、どこか抑えてるような響きが混じっていた。
俺は無言で頷く。それだけで十分だった。
栞の指先が、ゆっくりと包装に触れる。紙を破らずに丁寧に剥がすその仕草が、なぜか少しだけ震えていた。
やがて中身が現れると、彼女の目が大きく見開かれる。そして、ふっと口元が綻んだ。
「ありがとうございます……っ」
その言葉には、かすれたような温度があった。
笑ってくれた。それだけで、なんだか報われたような気がした。
「じゃあ、これからも“恋人未満”としてがんばりますね」
栞がふざけた調子で笑う。
反応する間もなく、彼女はスマホを両手で抱きしめるようにして見つめた。
「……大事にしますね」
小さな声。その響きが、部屋の静けさに溶け込んでいく。
十代の女の子から、こんなふうに喜ばれるなんて、思ってもみなかった。
誰かに真っ直ぐな感情を向けられることも、最近じゃほとんどなかったから。
そんなに大したものをあげたつもりはなかったけど、あんなふうに抱えられると……。
目を逸らしながら、なんとなく言葉を探す。
このまま何も言わないのも落ち着かなくて、照れ隠しのように声が出た。
「……じゃあ、そろそろデータ移すか」
栞が顔を上げる。頬にまだ、ほんのりと紅が残っている。
「はいっ、お願いします……」
少し笑ったその顔は、さっきよりもずっと柔らかかった。
USBケーブルを挿しながら、栞のスマホをPCに繋ぐ。
俺の手元にあるモニターには、無数のファイルが一覧で表示されていく。
その中に、アプリのキャッシュ、古い写真、何かのスクショ……いかにも整理されていないフォルダたちが並んでいた。
データ移行用のフォルダを指定して、転送を開始する。
カリカリとHDDが回る音が、室内の静けさをかすかに満たしていた。
ふと、コピー元の画面をスクロールしていた指が止まる。
その一枚の画像が目に飛び込んできた。
『ママと久しぶりにデート♡』
そう書かれたキャプションとともに、笑顔の栞が映っていた。
日付は──配信の直前。
喉が鳴った。画面の中の彼女と、今すぐ隣にいる彼女が、一瞬だけ重ならなくなる。
……ママ? あいつ、義理親とは絶縁してるって言ってたよな?いや、これ、義理親か……?
頭の中が真っ白になった。
思考が、スッとどこかへ飛んでいった気がした。
視界の端で光が滲む。手の中のマウスが汗ばんで滑りそうになるのを、なんとか耐えた。
「……え?」
声にならない声が、喉の奥で空転した。
指先が止まる。
息が浅くなる。
「……これ、なんだ?」
自分でも、どんな声で出たのか分からなかった。
背後から足音。そして、すぐに気配が止まる。
「……どうかしましたか?」
心臓が跳ねた。
首筋に冷たい汗がにじむ。
まるで見られたかのような錯覚に襲われて、背中にざわっと悪寒が走った。
「え?あ、いや」
声が少し掠れていた。
振り返らずに、俺は画面を閉じた。
「……ああ。これでいい」
そう返して、スマホをそっと机に戻す。
その一連の動きを、栞は見ていたはずだった。
けれど彼女は、何も言わなかった。
“聞かれなかった”んじゃない。
最初から、“聞くつもりなんてなかった”──そんな気がした。
スマホを戻してからも、気まずい沈黙が続いた。
栞はそれ以上何も言わず、俺も言葉を探すふりをして、デスクの周辺を片づけ続けた。
一つひとつの動作がぎこちなくて、まるで誰かに見られているかのような居心地の悪さだけが残った。
昼の光がいつのまにか部屋から去って、カーテンの外は夕暮れに染まり始めていた。
その夜。
昼間の写真が、まだ頭から離れない。
栞の笑顔、そして“ママ”という言葉。
あれが何を意味するのか、訊けなかった自分にも苛立つ。
それでも、夜はやってきた。
頭から離れないあの写真の残像を引きずったまま、夜が静かにやってきた。
カーテンの外はすっかり暗くなり、灯りを落とした室内に、微かな布団の擦れる音が響く。
背後から、栞の声が聞こえた。
「今日も一緒に寝ていいですか?」
振り返らずに、「……布団、分けるからな」とだけ返す。
「は~い」
そう言いながら、布団の中に入ってくる気配がした。背中合わせの体勢。
しばらく、無言のまま時間が流れる。
その沈黙を破ったのは、栞だった。
「ねえ、大和さん……もし、全部がウソだったら、どうします?」
一瞬、冗談かと思った。
けれど、笑える空気じゃなかった。
返事に困っていると、背中越しに声が続く。
「……境界線、ちゃんと守ってくださいね。指一本でも越えたら、叩き起こしてください」
冗談のはずなのに、その声に誘い込まれるような温度があった。
ドキッとした。喉が詰まりそうになる。
その一言に、試されてる気がした。
「……お前な」
声が上ずるのを、なんとか抑え込んだ。
その直後、布団越しに背中がそっと触れた。
偶然を装ったような、でも確実に“届いてる”距離感だった。
鼓動の音が、静寂を破るように脈打った。思わず息を呑む。
“全部”って、何のことだ?
あの写真か。それとも──
考えるな。
考えたら、全部崩れてしまう。
「さっきの質問だけど……そんなこと、考えたくない」
「うん、私も……考えたら壊れちゃいそうで、怖いから」
背中が触れたまま、俺はまぶたを下ろした。
指先が、ほんのわずかに揺れていた。
どれだけ不安を隠しても、震えは嘘をつかない。俺もそうだった。震えながら、叫んでいた。
何かを守りたくて、何も信じられなくなって……それでも、誰かに縋りたくて。
──全部、栞と同じだった。
「……ねえ、大和さん」
小さく、背中越しに声がした。
「……私、きっと、大和さんのこと……好きなんだと思います」
俺は、すぐには返事ができなかった。というより、できる状態じゃなかった。
それはあまりに唐突で、でも、栞の言葉はただの告白じゃなかった。まるで、何かを確かめるみたいに、わずかに力がこもっていたから。
だから俺も、静かに視線を上げて、返事をしないまま、そっと布団を引き寄せた。
彼女の背中を包むようにして、何も言わず、ただそばにいる。
たぶん今は、それだけで良かった。
窓の外は、少しずつ青みを帯びてきていた。時間の流れが、ようやく現実を連れてくる。
部屋の空気がわずかに肌寒く感じられた頃、俺はそっと体を起こした。
立ち上がって、コーヒーでも淹れようかとキッチンに向かう。通りすがりに、モニターの隅に新しいDM通知が浮かんでいるのが目に入った。
ふと足を止めて、その文字列に視線が吸い寄せられた。
──差出人:立花ミライ
本文:「地下アイドルをやってる18歳、女です。枕営業を断ったら干されて、今も業界の人に追われています。助けてほしいです……」
一瞬だけ、見なかったことにしようかとすら思った。
でも、自然と視線が文字をなぞっていた。
──またか。
けれど、その瞬間、腹の奥がふっとざわめいた。
“これ、またヤバいタイプだったらどうしよう……”
そんな、くだらない疑念が頭をよぎった。
依頼内容じゃなくて、その向こうにいる“人間”の方に、無意識で構えていた自分がいた。
いや、違う──栞のことがあって、神経質になってるだけだ。俺が勝手に警戒してるだけだ……多分。
……でも、また誰かに手を差し伸べていいのか? 本当に俺で、助けてやれるのか?
深く息を吸い、吐いた。
全部が救えるわけじゃない。
でも──あのとき、手を伸ばしたのは、俺だった。
なら、答えは決まってる。
俺は画面をそっと閉じて、リビングを振り返った。
「おーい、栞。起きてるか?」
そう呼びかけると、ソファの上で丸まっていた栞が、もぞもぞと毛布の中から顔を出す。
「……起きてます」
「じゃ、朝飯……いや、昼飯か。何か作るけど、リクエストあるか?」
栞は目を細めて、しばらく思案したあと、小さく呟いた。
「……何か、作ってくれるんですか?」
その声は妙に穏やかだった。
けれど、どこか──“いつも通り”を守ろうとするような、微かな違和感があった。
俺は、あえて気づかないふりをして笑った。
「いつも作ってもらってばっかだしな、そのかわり、過度な期待だけはすんなよ?」
でも、内心では分かっていた。
テーブルの端、栞のスマホに“写真が完全に削除されました”の通知が表示されていた。
何を消したのか、考えるまでもない。
昨日、俺が見たあの写真が、もうどこにも存在しないってこと。
俺はその通知から目を逸らすように、ゆっくりとモニターの電源を切った。
その音だけが、妙に澄んだ部屋の中に響いた。
終