第10話 煙と共に立ち上がる、希望配信
煙草の煙がゆっくりと視界を濁らせていく。朝日がカーテンの隙間からわずかに差し込み、散らかった机の上を淡く照らしている。
俺は寝不足の目を擦りながら、もう何本目かも分からない煙草の灰を灰皿に落とした。胸の奥には焦燥感と無力感が入り混じった感情が渦巻いていて、まともに眠る事も出来なかった。
深く溜息をついて天井を見上げる。ピンマイクの録音データ、小糸に渡した証拠も解析が難航していて、完全に行き詰まっていた。
心のどこかで「これでいいのか?」という迷いが消えないまま、それでも逃げ道はない。明日は決戦の日だ。サテライトの社長にあんな大口を叩いてしまった以上、引き返すこともできない。
ただただ胃がキリキリと痛む。
その時、玄関のドアが静かに開く音がして、慌てて煙草を灰皿に押しつける。やばい、また栞に「吸い過ぎです」って言われちまう……情けないけど、怒られないように咄嗟に隠すクセがついちまった。
「あっ、大和さん……おはようございます」
顔を覗かせた栞は、昨日から隣の部屋で寝泊まりしているはずなのに、すっかり俺の部屋に馴染んでいる。キッチンに直行してエプロンをつけるその仕草が自然すぎて、妙に気恥ずかしい気分になる。
「朝ご飯作りますね」
栞が振り返って微笑むと、朝っぱらから無駄に胸がざわついた。いや、俺もういい歳だろ。こんな年下の子に振り回されてどうすんだ、と内心で呆れるが、それでも彼女の笑顔を見ると少しだけ元気になる気がした。
キッチンで珈琲を淹れる彼女の後ろ姿をぼんやり眺めていると、なぜか妙に落ち着く。こんな日常も悪くない──不覚にもそんなふうに考えてしまう。彼女を巻き込んだ罪悪感はあるものの、栞の存在に救われていることも否定できない。
栞が部屋を片付け始めたとき、昨日運び忘れた荷物に気づいた。
「あっ、すみません……片付け忘れちゃってました」
慌てて荷物を持った彼女の手元から、教科書に挟まれたプリントが舞い落ちた。拾い上げて目を通したそれは健康診断票だった。普通の女子高生としての生活を奪われ、どこにも居場所がなくなってしまった栞のことを考えると、胸が締めつけられた。
「大和さん……?」
顔を上げると、栞が心配そうに見つめていた。その距離が思ったより近く、心臓が妙にうるさくなる。
「あ、悪い……これ、お前の」
慌ててプリントを差し出そうとしたが、そのとき、ふと頭の中で何かが閃いた。
すぐにスマホを手に取り、以前視聴者から送られてきたDMを開く。もしかすると、まだ使える手が残されているかもしれない。
だがその瞬間、突然スマホが震えだした。画面に表示された名前を見て、俺は思わず舌打ちを漏らす。
柚子。
「ちっ……」
思わず出た声に、栞が不思議そうに問いかける。
「どうしました?小糸さんからですか?」
「え?あ……うん!そうそう、小糸から!」
嘘が下手すぎて自分でも呆れるが、柚子の着信が止まない。彼女の名前を見るだけで、過去の記憶がざわつく。仕方なく通話に出る。
「もしもし……」
『あ、大和?今、神楽坂の駅前のカフェにいるんだけど、ちょっと会えない?』
柚子の余裕のある声に軽く苛立ちながらも、栞にバレないよう声を抑えて返事する。
「わ、分かったよ……すぐ行く」
通話を切って立ち上がると、栞が不安そうに見上げてきた。その視線が刺さるようで、微妙に胸がざわつく。
「どこか出かけるんですか?」
彼女に正直に話せるわけがない。栞が柚子を気にしていることはわかっているから、なるべくその話題には触れないようにしてきた。余計な不安を与えたくないだけなのに。
「ああ、ちょっと動画の件で小糸に呼ばれたから、すぐ戻る」
玄関のドアノブに手をかける。背中に感じる栞の視線がやけに気になる。振り返ると、不安げな瞳が俺をじっと見つめている。そんな顔するなって。すぐ戻るから──言葉にせず心で呟き、外に出た瞬間、五月と言うのに、肌寒い風が身体を包んだ。
冷たい空気を吸い込みながら、神楽坂の駅前へ向かって歩く。やけに胸がざわついているのは、栞の視線を振り払うように家を出たからなのか、それとも柚子に会うことへの後ろめたさなのか、自分でもよく分からなかった。
神楽坂駅前のカフェに着いて、ドアを開けると、コーヒーの香りと暖かい空気が俺を包んだ。
店内を軽く見回すと、窓際の奥の席に柚子の姿を見つける。相変わらずの派手な金髪と整ったメイク、その華やかさは少しだけ場違いに思えた。
俺に気付いた彼女が、ゆったりと手を振ってくる。仕方なく小さく手を挙げて返し、彼女の向かいに座った。
「久しぶり。元気そうで安心した」
柚子は相変わらず余裕のある笑みを浮かべている。
「まあな」
彼女はホットラテを手元に置き、相変わらずの余裕を崩さずにこっちを見てくる。その目に言葉はないが、視線の奥で探ってくる気配がある。ああいう無言のプレッシャー、昔から少し苦手だった。
軽く頭を掻きながら椅子に体を預けると、ボーイが近づいてきた。俺は反射的に
「コーヒー、ブラックで」と告げる。
「で? 俺に何か用か?」
言い終えた瞬間、柚子が少しだけ目を細めて笑う。
「相変わらずせっかちね。昔からそうだったわよね。何かあったらすぐ本題に入るタイプ」
「こういうの、長々するの苦手なんだよ」
そう言って視線を外す。少し遅れて運ばれてきたコーヒーの香りに意識を逃がした。苦味の強い香りが心を落ち着かせてくれる気がして、一口すする。苦ぇ……けどこれがいい、寝不足で混濁する頭がスッキリする。
向かい側の柚子が一瞬、言い淀んだ。唇がわずかに動いては止まり、目線だけがテーブルの縁をなぞっていた。
……妙に静かだな、と思った次の瞬間、柚子が顔を上げた。
「佐久間さんが、会社に戻ってきてほしいって」
思わずコーヒーカップを置く手が止まった。名前を聞いた瞬間、胃の奥がズンと重くなった。喉の奥がカラカラに乾くのを感じる。
「……佐久間さんが?」
柚子の表情に変化はない。ただの連絡係みたいな顔して、その名前を口にする。その態度に、胸の奥が苛立ちでざわつく。
「大和は不器用だったけど、仕事はできてたじゃない? 佐久間さんは大和のそういうところ、ちゃんと評価してたのよ」
どの口が言ってんだ。思わず笑いそうになった。
「今さらどの面下げて戻れるってんだよ。俺はもう、あそこに戻るつもりはない」
柚子が、少しだけ芝居がかった表情を浮かべる。寂しげな目元、わざとらしく伏せたまつ毛。昔からそうだった。弱いふりして、こっちの情に訴えようとする。
「私は……あなたが会社で苦しそうにしてたの、分かってたつもりだった。でも、当時はどう声をかけたらいいか分からなくて……」
苦しそうって……お前のせいで辞めたんだよこっちは……。
「……あっそ。で、それを今さら俺に聞かせてどうしたいわけ?」
柚子は首を振る。その仕草も演技にしか見えなかった。
「違う。あの人が、どうしてもって」
まるで他人の願いを代弁するだけの役みたいな顔で、手を伸ばしてきた。だがその手をすっと避けて、ゆっくりと立ち上がる。
「悪いけど、俺はもう前に進んでる。戻るつもりはない」
財布を取り出し、コーヒー代をテーブルに置く。椅子のきしむ音がやけに大きく響いた。
「大和……っ」
呼び止める柚子の声を背中に受けながら、俺はカフェを出た。
外に出ると、思ったよりも冷たい風が吹いていて、少しだけ頭が冷えたような気がした。
イライラとざわついた気持ちを鎮めるため、駅前の喫煙所へ向かう。煙草を取り出し火をつけると、ようやくひと息つけた。吐き出した煙がぼんやりと空気に溶けていく。
柚子が口にした言葉が頭から離れない。
──『会社に戻らない?』
落ち着かない気持ちのまま、俺はスマホを取り出して元同僚の原田に電話をかけた。数回の呼び出し音の後、『お~大和か?』と原田の呑気な声が響く。
「おう、久しぶりだな。今話しても大丈夫か?」
『ああ、ちょうど休憩中だ。それにしても、お前が急に辞めたせいで課長、かなりご立腹だったぞ』
課長が怒った? 辞表を叩きつけた時の、あの無関心な態度を思い出す。
「あいつが怒るわけないだろ。むしろ使えない奴が消えて清々したって顔してたぜ」
俺の冗談に原田が笑う。
『お前、仕事はできる方だったからさ、お得意さんでお前がいなくなったからって理由だけで、契約打ち切って来たとこが何社かでてんだよ』
意外な事実に煙草を持つ手が止まる。
「マジか……初耳だぞ」
『しかもここだけの話しだけどさ、佐久間さん、お前が取って来てた契約書のサイン、自分の名前に書き替えてたのがバレて、課長がそれにご立腹らしいんだよ。下手したら犯罪だし、けっこう大事になるかもな』
それを聞いて、俺は思い出す。確かに佐久間さんは要領がよく、よく飲みに連れて行ってくれた時も、自分に世渡り術を得意げに語っていたことを。
『あの人、立ち回りだけはよかったけど、仕事はからっきしだったからな。そのツケが回ったんだろ。ま、俺からすればいい気味だけど』
ようやく柚子がわざわざ俺を呼び出した理由が理解できた。どいつもこいつも、自分勝手で腹立たしい。
だが原田との会話で、少しだけ肩の力が抜けた。
『落ち着いたら飲みに行こうぜ、お前の退職祝いにな』
原田のいつもの軽口に、俺もつられて笑ってしまう。ほんの少しだけ、気が抜けたような気がした。
「祝うってなんだよ。もちろんお前のおごりだよな?」
『お前、俺が小遣い制なの知ってて言ってるだろ……?』
「冗談だよ。そんときはまた連絡する」
電話越しに、原田が少しだけ黙った。
『了解。……なあ大和、一つ聞いていいか?』
間が空いた分だけ、その声が妙に真剣に聞こえた。
「なんだよ改まって」
『仕事辞めて……正解だったか』
一瞬、返事に詰まる。正解かどうかなんて、考えたこともなかった。
けど──
「なんだよ急に……まあ、正解かどうかは分らんが、それなりに充実してるよ」
言葉にしてみると、意外とすんなり口から出た。
『そっか……そろそろ戻るわ』
「ああ、またな」
電話を切ったあと、もう一度だけ煙を吸い込んで、灰皿にに押しつけるように火を消した。
煙の向こうで、朝見たあの紙のことがふと頭をよぎる。そこへ原田の言葉が重なって、何かが引っかかった。
……いや、もしかして。
胸の奥に残っていたざらつきが、少しずつ熱に変わっていくのを感じた。
考えてみれば、朝からずっと、何かに苛立っていた気がする。焦り、行き場のない怒り、そして諦めかけていた無力感。
だが今、朝の違和感と、たった今耳にした話と、この煙の匂いが胸の奥で静かにぶつかり合って、沈んでいた何かが、ごくわずかに動いた気がした。
確信なんてない。ただ、手繰り寄せた何かがある──そんな予感。
それだけで十分だった。
ふっと笑みがこぼれる。今度は自嘲でも皮肉でもない、素直な笑い。
「サテライト……首洗って待ってろよ」




