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享年十八歳 

作者:

      「享年十八歳」 

 現在、時刻は十五時三十一分を指していた。リビングの椅子に座り遠くを眺めていた私は

、引っ越しの準備に追われていた。奨学金の申請、資格試験やらで後回しにしてしまい、退去日まで二日しか残っていない。段ボールの城壁を施工していくように、見る見る周りが囲まれていった。ふと本棚の奥で眠っていた、埃だらけの卒業アルバムを手に取り、石塁を飛び越えていく少年のように流し読みする。こんなことでは、一向に準備が終わらないではないか。小一時間ほどでほとんど読み終えてしまった。最後のページの隅に、可愛らしい切言の落書きを見つけ、脳裏によぎるそのしかめっ面に、桜色の微笑みを返す。大学一年生の春休みも終わりに近づき、窓から差し込む陽光の柔らかい抱擁は母を思わせるものである。道ばたに生えた一輪のたんぽぽの綿は赤ん坊の口の大きさ程度しかなく、虚勢を張るも、母元を離れる覚悟を決めあぐねている。傍らに流れるニュースから、北陸に降らす大雪が、芽吹いた口に冷たく、はかない口付けをし、春というものの相違なる二つの顔が覗いていた。それはまるで、二年も経つだろうか。地元を離れ、東北へ向かう彼女の斜め四十五度からの横顔であった。東北には一度も訪れたことはなかったが、出発の前日に、地元を練り歩くに及んで手編みのマフラーを渡した。ショルダーバッグから、マフラーを掴む手は私をあざ笑うかのような矛盾に、拳をつくっていた。私にはもう彼女の首へマフラーをかけてあげるような余裕は残っていなかった。幼児が書いた親の似顔絵のような、紡ぐ糸が目一杯手をつかんで支えているようなそれを片手に、この寒さに融けてしまいそうな命を力強く包み込んだ。

 錆び付いた校舎へ注ぐ夏の白光を浴びながら、青々と揺れる木々を眺めていると背後から私の名前を呼ぶ声が聞こえ、その方を向くと、丸眼鏡をかけ、当時クラスでは、売れない一発屋のような必死さで、騒がしくしていた私から見ると焼灰の色をした彼女が突っ立っていた。私の学校は、田舎のありふれた高校ではあるけども制服のだささで有名であった。しかし、彼女にはそんな墓石のようなスカートも思いのほか似合っている。そんなひどいことは本人に言うことは到底言えないが

「どうしたん?らしくもなく外なんかみつめて。」

「何でもねえよ。ってかもの思いにふけっているんだから邪魔すんなよ。俺は忙しいんだから。」

彼女を見つめる俺の目は、目尻はなめらかに

瞳は優しく口すぼんでいた。もちろん、俺自身も自分の発言の矛盾には気付いていたし、改めて俺は、芸人のようであったから少しの容赦もせず、面白いと笑ってもらえるようにヘンテコを貫いていた。

「忙しいならそんなことしないでしょ。」

彼女はわかりやすく雄雄と手を広げる蜘蛛の巣に自ら捕らわれにいった蝶のようであった。

笑う彼女を見ると、無意識に口元がじんわり広がっていくのを感じた。

「ねえ、今度さ夏祭りにいかない?」

「また!?毎年行っているやん。まあいいけど。」

「夏と言えば、夏祭りやん。リンゴ飴が大好きなんだよね。」

「結局それか。リンゴ飴ってそない美味しないやろ」

「なっ!?食べてみたら?案外美味しいかもよ」

後ろで組んだ彼女の柔らかく透き通ったような両手は、全身にべったりと粘りついて絡まる糸にもがくようである。巣につかまった獲物にじりじりと近づく私は、妖艶にふりかざす目の前のそれにいやらしく大きな左足でも載せてみた。油の足りない機械のような時間

が流れていくと、

「ひかるも誘えばいいじゃん」

先ほどまで見つめ合っていた彼女の目が机に置かれた私の右腕に流れていった。

「そこまで行きたいか~しゃーないな、ほんましゃーないな、二人で行きたいって言えばいいのに」

彼女の頬は、次第にりんごのように赤めいていって口をぱくぱくさせていたが、俺自身も夏の暑さに上せたのか分からないが、胸の中に膨らむ蕾が瑞々しく、その桃色の花を全身に広げ今にも外へ出そうであった。

「んじゃ、あとでひかるに聞いてみるわ。まあ、あいつなら二つ返事でOKサイン出すやろ

」彼女はじっととりつかれたように斜め左下を見つめていて、その様を不思議に感じた私は去り際に彼女の視線をなぞっても、消しかすとコンクリートの劣化で薄汚れた平面が広がっているだけだった。ふと時計を見ると十三時頃で、次の授業まで一五程しかなかった。

急いで教室を出て突き当たりへ走った。その足取りは陸上部の幽霊部員の割に、無駄に大きく手足を振っていた。通り過ぎていく隣接した教室はいまだ騒がしく、額に汗をにじませ、その傍らで走る私は、まるで恋人を乗せた列車をおいかける少年のようであった。どこにいるとも知らないまま彼がいる教室の戸を開け、

「ひかる!!今度さ永野と三人で夏祭りいくぞ!」

声を発しながら彼の姿を探していると、黒板前の小さな群らがりから、ひょっこり顔を出して私に近づいてきた。

「何で俺もいかんとあかんのよ。二人で行ったらどうや?受験勉強で忙しいしなあ。」

「去年も三人で行っているやん。一日だけ空けてくれへん?」

眉間に皺を寄せながら、何やら難しい様子で

あったが、

「分かった。でもほんまに勉強で忙しいから

、途中で帰るかもしれんけどいい?っておい

!」

間髪入れず走り去っていく、齋藤の背中がみるみる小さくなっていった。教室へ戻ると永野は、俺の隣の席で、いつも通り静かに本を読んでいて胸をなで下ろした。

「ひかる来るってさ」

彼女を横目に席につきながら伝えると、

「そう」

期待を裏切るようなテンションと、漏れた言葉はただの空気の揺れであり、俺は幾分か後ろめたさを感じた。彼女はおっとりした性格で俺なんかと付き合うような人間には見えないが、俺と接しているときの彼女は結構五月蠅い。いや、五月蠅いというのは物理的に五月蠅いというわけではないのだが、しばしば俺にちょっかいを出してくる。ほらっ、そんなことを考えている傍らで早速、消しゴムを奪ってきたのだった。おとなしく本を読んでいればいいものの。俺の消しゴムを自慢気に見せつけてくる彼女は公園ではしゃぐ子供のように楽しそうで、昼下がり、神々しく揺れる白光の下で踊っているようだ。

「おい、はよかえせ。課題終わっとらんねん。あと五分しかないやん」

彼女の手を必死に追いかける俺の方が端からみたら、子供のようで恥ずかしい気持ちもあるがそれでも茶番に付き合いたいと思っていた私は、ようやく捕まえた小さな拳を、華奢な羽を傷つけてしまわないようにやさしく開いた。

これで終わりと思っていたつかの間、すかさず、空いていた左脇からシャーペンを奪われる、と同時にチャイムが鳴った。結局、昨日の夜にさぼった箇所が空白のまま課題を提出した。やはり、後回しはよくないと何度目か分からない決心をして、放課後に職員室へ向かった。三十分ほど説教を聞き流し、生徒玄関へ向かうと、しびれを切らしていたひかるが、俺を待っていた。

「遅すぎる。まじで帰ろうと思ったわ。」

「いや、まじですまん。ここまで長くなると思っていなかってん。まあまあそんなに怒るなって。」

ナイフのように鋭い彼の目に一縷の望みをかけて変顔をすると、途端にぐにゃりと曲がってスプーンのように丸みをおびて、お互い笑い合った。夕暮れに近づく太陽はいまだ、その輝きは眩しいが、輝き疲れて寝ているようだった。

「話変わるけど、夏祭り二人でいってこいよ

。オマエも気づいているやろ?永野がオマエのことずっと好きだったこと。」

眉の上あたりが引っ張られる。

「そんなことあるわけねーだろ」

俺の渇いた笑顔をみて、ひかるの口調は少し勢いを増した。

「いや、オマエらのイチャイチャを見せられても、」

言葉に詰まった彼の髪が、夕暮れの朱い風になびいていた。

「俺とアイツはそんな関係じゃない」

沈黙が続いて、何か話題を探していた俺は、彼と昔からよく遊んでいた公園が目についた。大きなグラウンドを持っていて、大人が草野球をしても十分に楽しめる広さであるが、その割に、遊具がお粗末で、高校生の身長には合わない上、閑散とした森の中で息を潜んでいるようだ。先週の台風による影響でその姿は、雨に打たれた凧のようである。彼を背後に荷物を投げ出して子供らしい奇声とともに遊具へ飛びついた。そこには、「純粋」という名の不条理を突きつけたように見えたかもしれないが、それしか術が無かったようにも思えるのだ。小学校からの友人で、兄弟のように接してきたひかると決別するなどどうしてできようか。そんなことが強制されるのであれば、俺は神にさえも責任をなすりつけよう。シンプルというか空虚という鉄製の棒をシャクトリムシのように上って、滑り台から彼の姿を探した。

「おい、見とけよ。」

勢いよく滑り台を滑り、いや滑るというよりも転がり落ちたようで眼前の、輝いて見えた濁水に体を打ち付けた。

「いや、やばすぎるわ~!おい、助けてや!

はよ、はよせい、助けて~!!!」

ひかるは泥遊びを愉しむ動物を前に、目が点になり、暫く人体模型のように佇んでいた

。大きくため息をついてから、空気を揺らした。

「オマエ何してんねん。あほやなあほんまに

ひかるは、ゆったりと俺の前に歩いてきた。

その顔は安らかであり、眼に映る陽は、情熱的であった。

「ちょっ、触んなて、やめーや、おい!」

「あはははつ」

彼の袖を引っ張り、純白な制服を、腕をふるうかのように得意げに、濁色が彩りを加えていく。

「お揃やな」

顎を前に突き出したどや顔に、いつも通り彼の張り手を受けてその色に似つかわしく、無様に、地面の上で転がるのであった。

夏祭りを迎える一週間前、学期末では体育祭が開催された。クラスごとに野球をするチームと、体育館でバスケットボールをするものと分かれることになったが、俺は野球が好きでバスケットボールが大の嫌いであった。下手すぎてトラベリングの齋藤と揶揄されたほどであったので、ためらいもなく野球チームへ混ざるが、永野は、外が暑いという理由で、バスケットボールを選んだ。お互い競技は違うものの、内心俺は大いに喜んでいた。

体育祭当日になる。グラウンドには、クラスごとに、軍旗を高々と掲げ戦士達が、血気盛んに騒いでいるのを見て、適当に楽しめれば良いと安堵していた俺を、拍動が鼓舞する。

「負けたら、罰ゲームね。」

横から、聞き慣れた声がすると、体操服姿で、長い髪に、八巻を滑らせ、後ろでリボン型に結った永野がいた。小柄の身体にスラッとしたボディラインが服の張付きで、顕著に現れていた。彼女の艶かしい姿を見るやいなや、唐突に本能と理性がせめぎ合い、血しぶきを流すほどの決闘を繰り返していた。大きく息を吸って呼吸を止めた。ますます、鼓動の叩く音が激しくなっているように聞こえる。

「ださっ、あんまり似合ってねえな」

これほどまでに、責任感のない台詞は初めてだった。なるほど。これが負け犬の遠吠えというやつか。

「負けたら、恭君の卒業アルバムに落書するわ」

卒業って、まだ七月だぞ。そんな約束覚えられないって」

「記憶力ないもんね~受験大丈夫?現実的に、大卒のほうが生涯年収高いよ?」

「黙れ」

容赦無く、綺麗に広がった額に指を弾いた。

その振動で、朝露を乗せた葉のような髪が、揺らいだ。

一限のチャイムが鳴ると同時に、開会式は始まる。整列した皆の顔つきはまるで生物としての誇りすら感じさせ、無数の火の玉が重なっていた。

まさか、最後の体育祭と言えども、ここまでやる気を出すとは、思ってもみなかった。なんと暑いのだ、火渡りのようでこのままでは火だるまにされそうだ。耳下辺りから一筋の汗が流れ、首を伝い膨れ上がった大動脈を覆う肌で、若干の減速を成して再び加速する。熱にやられ閉じられた目の中は、夜の空に四方から、天の川の枝が映り中央の堰へ溜まっていくようだ。宣言とともに掲げられた旗は、人一人包めるサイズで熱風の中を、我が子連れて滝を上る鯉のように泳いでいた。その必死さは鱗が波との摩擦で剥げそうになっていた。式が終わると、チームに分かれ、バスケ組は体育館にいそいそと移動した。大衆の面々を探っていたがそこに彼女の姿は無かった。

ただ、足下を眺めながら体育館へ向かう永野は、やりきれない気持ちになっていた。誰よりも齋藤を慕ってきた彼女の眼は、一歩一歩あざ笑うかのように近づいてくる闇をじっと見つめていた。

「おい、大丈夫か」

微かに認識された声の方へ顔を向けると、それはひかるであった。陸上部のエースを務め鍛え抜かれ、筋骨隆々とした彼の身体はふんわりした体操服を内側から大きく張り出していた。

「ははっ、齋藤がいなくて寂しいんちゃう?」

「ちゃうわ」

ひかるの歩幅に合わせて、彼女も、彼よりはるかに短い足を、精一杯伸ばして歩いていた

「何か元気ないやん、どうした?」

揺れる足を眺めながら、彼女はつぶやいた。

「私たち、あと半年もしないうちに卒業だよ

ね。あのバカは、実家の酒屋継ぐみたいだし

私には第一志望の大学があるし。あんたはどうするの」

「俺は、地元の大学に進学するわ。齋藤が泣きついてきそうやからな」

「もう会えないんかな」

「今の時代、どこに行っても連絡出来るし、オマエでも暇なときぐらいあるやろ。」

「齋藤一人で、酒屋切り盛りするのに、そん

な時間ないやん。お母さんの世話もせなあかんのに」

「美枝子さん、まだ良くなってへんのか。そ

ら大変やな。」

 齋藤の家は、呉八駅の坂を下っていた所にある地元の客で賑わう酒屋であった。地下100mの新鮮な井戸水をくみ上げ、隣接する蔵で酵母菌を採取し発酵と熟成を繰り返して作られる大吟醸は戦国時代に、かの織田信長公に献上するほどだ。幼少期に、齋藤の父親である与助が不運にも交通事故で亡くなった後、母の美枝子とともに店を支えてきた。

「オマエらもさっさと付き合ったらええのに

。」

何も言い返せず、彼女は俯くばかりである。

拒絶するかの如く、彼女には自身の靴が鳴らす音しか聞こえなかった。

 ひかるの身体能力は、流石、一試合目から、電光石火の如くドリブルでゴールまで駈けていく。力強く床を蹴る様は競走馬のようで、後方へおいていかれていく鬣から滴る水玉が、天井の光に照らされていた。また、空間把握能力も長けていて、味方の位置と付近の相手の距離を巧みに操っていた。味方からのパスを受け、センターラインを斜めから突き刺していく。飛蝗の如く跳ね上がって三十cm先のゴールをブロッカーの押し寄せる大波のような手の平をかわし、渾身の力を振り絞りゴール穴へ押し込んだ。歓声の渦に飲まれながらも、彼は二階で眺め下ろす永野に目をやった。

 バッターボックスに立った俺は、頭の中で野球選手の姿を思い描きながらバットを振るが、文字通り空を切ったバットの、突き出した先端に裏切られたような気分になり、目が点になった。しかし、経験もない人間が、バットの正しい振り方に今更御託を並べても仕方がない。甘んじて三振を受け入れた。ベンチへ帰って行く途中で俺はとんでもない過ちを犯した気になりすぐに辺りを見回したが、そこには他の野球チームの群れがあるだけだった。結果は、0-3の負けであった。まあ、まだ一試合目であり、余裕はあると自分に言い聞かせていたのだった。

試合時間は、諸々の事情を考慮して五回裏までであり、ある程度短縮しているものの、バスケの試合のほうが遙かに短かった。

ほとんど皺の寄っていない体操服を、見せつけるように、彼女はひかるに話しかけた。

「相変わらず、運動神経ええなあ。負けを認めるわ。」

「いや、接戦の末に負けた感じだすなや。試合見てたけど、オマエほぼ参加してへんかったやん」

「私は、敢えて後ろに下がって、大局的に試合を分析していただけや」

「急にパス出されて、外にボール投げ出してたくせに」

ひかるのにやつき顔を前に、メラメラと燃えながら膝元を蹴ったが、ほぼ効果はなかった。蹴られた勢いで思いついたように彼は、

「そういえば、アイツの試合見にいかへん?

まだ、終わってないし皆、観にいっているで

?」

彼女が頷くのを見て、二人はグラウンドへ向かっていった。グラウンドを一面に見渡す丘にバスケ組の集まりがあり、熱狂的な応援が止まる所をしらないようで、風に揺れる木々さえも共鳴していた。敗者決定戦の決勝の最中であり、群れの間を縫って中に潜り込み、バッターボックスを見ると、一匹狼のような齋藤の姿があった。書き間違いでないことを

示すためもう一度記すが、敗者決定戦である

。本命のトーナメントを終えた後、勝利数の少ないワースト二位にだけ参加することが許される、極めて不名誉な試合である。

「オマエのクラス負けそうやん、しかも敗者決定戦て。」

ひかるの言葉を聞いて彼女は強く、下唇をかみしめる。

ボロボロに汚れた服に、スライディングでもしたのか膝瘤には、擦り傷で真っ赤な血だまりがあった。目に入る汗の痛みに耐えながら

、それでもかっぴらいて、投手のグローブに隠れた球を睨む様は、熊に対峙した野犬のようである。それ以外の感覚器官は遮断されているような気がした。もはや、投げ出された球は遅く見え、その回転する様子さえも捉えるほどに集中していた。息を吐くと同時に、豆だらけの手をバットに捻じいれ、描いた軌道へ流した。タイムリミットまでの時間は無限の0へ近付き、投手の指先から球が離れる瞬間、彼女が膝に置いた拳を強く握る瞬間、大きく口を開けて応援するひかるの俺を見つめる瞬間すべては、永遠の過去へ閉じ込められた。剛健な金属の音が鳴り響いて、球面状に大空の海へと広がっていく。俺には何が起きたのかはっきり分からなかった。視界から球が消えたのは見えた。投手がゆっくりと何かを目で追いながら、その背番号が顕わになっていく。

 「恭君!!!走れ!!!」

忘れられた古塔の無限に続く螺旋階段を上っていると、目下に広がる深淵から、一筋の光が網膜に突き刺さった。零コンマ4秒、一塁へ動き始めた。左足を踏みこんだと同時に、サードの捕手はグラウンドの端へ落ちたボールを手に取る。神様、頼む。今回だけでいい。

薄汚れた俺でも、アイツの前でかっこいい姿を見せたい。ただ一点めがけて走る。ネタではない不格好な背中に、深紅なる魂が乗っていた。一塁捕手のグローブがスライドすると同時に、腰を下ろして身を投げた。

「セーフ!」

副審が拳を天に掲げた瞬間、この場にいた全員が、最高潮に歓声を上げる中、ひかるの網膜には、ボロ雑巾のように這いつくばる齋藤を見つめる永野の微笑みが映し出されていた

。結局、ビリから二番目という大敗を喫したが、勝負には勝った気がして十分に満足であった。また、貧血で倒れ閉会式には参加できなかったが、翌日話を聞くとひかるのクラスが、男子も女子も総合で一位だったらしい。それにしても体育祭を終えた翌日も登校日とは、なかなかメンタル的に堪える。久しぶりに身体を動かしたせいで全身が筋肉痛に侵されていた。満身創痍の俺にとって、最もきつい試練は、階段の上り下りであり、あまりの痛さで、手すりに両手でしがみついていた。

何とか席についた俺は、すまし顔で本を読む永野に話しかけられた。

「昨日、大丈夫だった?」

「まあ、何とか生きてました。」

「めっちゃ、かっこよかったよ。」

「惚れました?いや~そうかそうか惚れたか

~」

針穴を覗くように伺うと

「惚れたよ」

期待と真逆の返事が返ってきて、背中に汗が

溢れ染みついていく。

「どこがやねん、めっちゃださかったわ。走り方が、飢えたドブネズミみたいやったわ」

どうしても口角が下がらないのを、自虐に当てごまかした。始業のチャイムが校内に響く中、頬杖を付いた彼女は花の蜜より甘い微笑みでみつめるだけだった。

「どうしたん?」

「ん、何でも無い。」

蝉の応援歌が助けても、俺はその瞳の奥にある意味に、対峙する勇気を持ち合わせていなかった。

 そしてついに、夏祭りを迎える。先週から毎日、天気予報を確認していたが、どうやら雨らしい。しかし、花火が打ち終わってから降り出すそうで、二人よりも早く集合場所に来ていた俺は、不安で仕方が無かった。もうすでに陽は落ちていて、種々の屋台が三寸ほどの赤提灯を並べていた。網を避けて空中へ放り出た金魚は月光を浴びて月の周りを踊っている。射的に苦戦する子供達、それを見守る店主のおじちゃんが横から首を突っ込んで、銃の持ち方から教えている。中央に建てられた砦の上には、見るからに気前のよさそうな若人が水風船のような柄のはっぴを着て、小太鼓を叩き、空気を揺らす。その愉しげに魅了され老若男女、小躍りさせられている。人魂に囲まれた百鬼夜行そのものである。ベンチに腰掛けて待っている俺は、メールの受信箱一覧とにらめっこを続けていた。正面から影が近づいてきて、見上げると二人の浴衣姿がそこにあった。

「ごめん、道が混んでて遅れたわ」

「いや、全然待ってない。今来たところだし

必死に彼女の姿を視界から外そうとして、食い気味にひかるへ返事をするも、次の瞬間、腰辺りが、わたがしのように柔らかい腕に引っ張られた。

「帯の結び方違う。ほら、こうして、こう」

淡い水色に、色々な大きさの白玉が入り海岸へ激しく打ち付ける白波のように見える。鼻筋の通った楕円形の白顔は、雪女のようでふわりと浮き上がりそうである。見下ろすと熱心な眼差しに抗うことは出来なかった。ふつふつと重曹の塊が、衝突してくる気体を押しのけて空間を牛耳るような感覚に陥った。彼女のせいで、齋藤は顔のない操り人形のようで、なすがまま、錆に侵された鎖が、帯の摩擦音ともに解かれていく。花火大会までまだ

、一時間もあり、その間適当に時間を潰すことにした。通りを歩くに及んで、リンゴ飴にはしたなく舌なめずりする横顔に呆れ笑った

。口元に差し出された飴を恐る恐る咀嚼すると、じんわりとりんごの味がしてとても美味しかったが、得意げに俺をのぞく顔にいらつきを覚える。三つの網を縦に重ね、金魚に馬鹿にされて笑い合ったりと時間を忘れて楽しんでいた。花火が打ち上がり始め、

湖の前には、たくさんの人だかりが横に広がっている。排水により汚れた紺色の湖は、一面の鏡となり、月の下で、白兎がパレードをしていて、貴金属の装飾を纏う二匹が、万華鏡の水面に線を描くように、ワルツを踊る。

蹄が描く線で、さらに乱反射して輝きが増している。雨上がりの青空のような後ろ姿にたじろぎ、すれ違う家族の愉快な声が聞こえるばかりである。子供みたいな小さな手に引っ張られ人の少ない堤防の上で座っていた。すぐ真下の水面には光が届かず、闇が揺らめいている。ひかるは、先に帰ってしまったが、そのときの細めた目と、ゴム紐を弾いたようなトーンにはめられた気がした。もはや、何層にも砂嵐が折り重なった、どこからともなく蛆が木霊する髑髏の眼から逃れることはできないのだろう。垂れ下げた足を戻し胡座を組む。島を囲む堤防の端では、周りは鬱蒼とした森に囲まれ、静寂に包まれていた。数年と時間をかけて土色の幼蝉が、テトラポットにしがみつき、その堅い殻を背中から大きな切れ目をいれていく。割れ目から、月光に応えるように、水の表面張力で出来たような身体が少しずつ押し上げていく。

「もう、来年は来れないかもね」

言い得ない焦燥感に奥歯をかみしめ、まばたきが加速した。

「そんなことねえよ。お互い日本のどこかにはおるんやから、すぐに会えるやん。用事あっても問答無用で連れて行くわ。」

永野はまだ、俺の方を見ることはなかった。

「私さ、小学校のとき友達がいなくて、ずっと寂しかったんだよね。親でさえ、私を冷めた目でみるの。テストでいい点とっても、何で八点も落としたんだって罵倒されてね。」

この流れはまずい。恋愛を避けてきた俺でもさすがに察することはできる。じわじわと蛾の翅のように奇怪な笑みを見せて髑髏が心臓に近づいてくる。

「でも、学校からの帰り道、私に声をかけてくれたのは、授業中にアホなことばかりして

て、いじめられそうになっている子にも遊びに誘ったり、橙黄色に輝く男の子だった。」

脈々と開いた水草に、一粒の露が乗っかり、

その重さに葉が引っ張られて傾いていく。雨が近くなってきたのか、息が詰まりそうだ。花火を見上げることは出来ない。ただ、徐々に迫ってくるそれに後ずさりも出来ず立ち尽くすだけだった。上空で鳴り響く花火の音が次々に、身体の中に閉じ込められ、振れ幅が大きくなってゆく。そびえ立つスピーカーから先ほどの若人の声が聞こえる。

「さあ、最後は呉八町名物の暮葉四尺玉です

!カウントダウン一緒にお願いします!!」

「五!!」

「四!!」

「三!!」

観衆の声は、ピアノの鍵をすべて同時に鳴らしたようで、力任せの不協和音であった。月へ帰る準備をするように白菊のような幼蝉は、丁寧に折り畳まれ、丸くまとまった身体を一枚ずつ広げていく。水彩絵の具のような彼女は、透明な水面へ消えてしまいそうな顔で見つめ、赤ん坊の口ほどの綿を仰々しく包む紺色の袴へ着地した。

「一!!」

夜空のキャンバスに、何千もの流星が降り注ぎ、赤、青、黄、紫と頭上に飛び込んでくる

。どんな願いも叶えてくれそうなそれは、湖一帯を照らし、水面はこれでもかと晴れがましく輝いていたが、二人の影は消えていた。

歓声も遅れた花火の轟音も聞こえなかった。

「ごめん。俺は、」

「俺は、、」

「俺は、オマエのことが嫌いだ。」

重なる正面の顔は、楕円型のきめ細かい白肌に、眼のドームを勢いよく、花火が流れていく。目尻にそれが集まり、燦然と輝く星が、溢れていった。今まで心の中で描いてきた、かぐや姫が嫉妬する美しさであった。そこからは何も覚えていない。いつの間にか眠っていた右手は夜風にあおられ冷たくなっていた

。雨が降り始め再び夜が訪れた。足下を見つめる青年の眼は、標本のような記号ばかりのものであった。数時間が経っただろうか。恐らく俺は、世の中で最も醜悪な存在なのだろう。雨に打たれ、地面に落ちていた白い花びらを傷つけないように、両手で掬って木の根下へそっと置いた。彼女によって解かれた鎖を再び、身体に巻き付け風雨に曝され錆が広がっていく。大雨の中、百鬼夜行に置いていかれた火の玉のようで線香花火と自分を重ねるのであった。霧がかかった焼けた香りに鼻がツンとした。

「おい、遅かったやん。」

会場への入り口となっていた鳥居の前に、傘を差したままひかるは待っていた。

「アイツ、化粧が涙でぐちゃぐちやになって

たわ。止めようとしても振り切って逃げるしやな。」

彼の言葉は聞こえず、街灯をなぞるように歩き出すと、屈強な腕に胸ぐらを捕まれひきずられる。

「ええから、起きたこと全部話せや。」

十分後、彼は鬼の形相で左頬を力強く殴り飛ばした。恐ろしい剣幕で、詰問は雨とともに横たわった、顔のない粗末な人形に浴びせられた。

「何でや、何で嫌いなんて言うたんや。アイツがどれだけオマエのこと好きやと思ってんねん!」

床に落ちている俺に何度も問い詰めるが、顔の輪郭はあれ、ぼんやりとした木目に話しかけても返答はない。

「オマエがやったことは最低最悪、鬼畜の所業や。えらい可哀想なもんやで。何年も思いを寄せた人にそんな結末ないやろ。」

「オマエも好きやったんちゃうん?こんなことなら俺がオマエに変わりたいわ。人の愛を弄ぶような屑とは知らんかったわ」

しばらく沈黙が続き、雨の音が響いていて、

翅が潰れたような俺は、先の白い花が脳裏に焼き付いていた。のしかかる雨水に固定されささくれのような手足で支える。離れようとかかとを見せた彼の下駄に、声を振り絞った

「オマエに、俺の何がわかるんだ。」

巻き付けた鎖が再び解けていった。

振り返った彼の驚いた表情と目が合う。いや

、威嚇するような目であったかもしれない。

「中学の時の、里見って覚えているか?スクールカーストトップの女子だ。俺は一軍のやつらにいじめられていた。」

「居場所がなかった俺は、人間としての尊厳

も捨てて笑い者にされる道を選んだ。残酷な世界を生きていくために選んだんだ!」

「この身体でできることなら何でもやった。

オマエが想像もつかないようなこともな!たとえ、後ろ指を指されても。」

齋藤の記憶には、飼い慣らされた奴隷が内出血のひどい身体を路地裏で畜生のように、のたれ回る青年の姿が溶接されていた。

「俺は隣に並んではいけないんだ。雪の結晶のようなアイツをどす黒い闇で染めてしまいそうだ。俺に変わりたいやと?なら変わってくれや!多才で、色男でチヤホヤされて、金持ちで、正義感もあって、俺とは違って友達思いのオマエならアイツも幸せになれる!」

。中身のない砂時計のような俺を睨みながら

、ただ戯れ言を聞くやいなや再び彼はさっきよりも力強く拳を握って、艶がかったアスファルトに、惨めったらしく這いつくばる俺の襟を掴む。

雨音はますます強まり、街灯の灯りへ雨宿りする蛾の不気味な顔状紋に影が立つ。濡れた

羽をはためかせるにつれ、消えかかっている

豆電球のように俺を照らしていた。

「悪かった。太陽みたいに笑っていたオマエが、そんなことを考えていたなんて知らなかった。」

「ほんまに悪かった。でも、オマエは昔からの親友やったから、少しぐらい俺に頼ってくれればよかったのに。」

「俺はオマエのことも、永野のこともどっちも大好きや。昔から永野からは、よくオマエの事で相談も受けてたからな、アツくなってしまった。でもな、オマエが永野にしたことはそれでも最低なことや。それだけは許さへん。ほんまにごめん。」

静かに去って行く彼の後ろ姿は、どこか頼りない。雨はもう止んだ。乾ききった淡竹の空洞は、雨水で満杯になって滴が、緑に混じった薄茶色の側面を流れていた。

「俺は最低な人間だ。」

どんな人間であれ、追い詰められれば最後に

救うのは自分だ。病室での父の身体が、冷たく固まっていくのを感じて以降、俺はロマンとか神やらの類いが嫌いであった。誰しも人にみせられない弱さを持っている。自信があったらば、道化師なんかやってられるか。周りの人間が俺に向ける輝いた視線は、アルミやら真ちゅうやらの金属の塊に、銀メッキで覆った仮面に向けられるが、その内側にはどんな光も透過しなくなってしまった。そんな生活に嫌気がさして、真面目に生きようとしてみると、

腫れ物を扱うように、彼らは皆離れていった

。いつしか人を笑顔にする喜びは、形而上学的な顔を浮かべる仕事になってしまったのだ

。いやますます彼らへの道は閉ざされていったのかもしれない。彼らの中には、物差しほど精巧な彫像を私が作り上げてしまった。だが、いっそのこと夜に大海原のど真ん中で、月光に期待を馳せるよりは、甘んじて海の底へ潜っていき、暗闇の数を数えた方がましな気さえしてくるのである。ポケットにいれていた携帯は水没して電源が入らない。このまま死ぬことはできないか。疲れて気絶するように眠った

 翌日以降、俺は暫く部屋にこもっていた。

もう何の権利も持ち合わせていないような俺

には、朝日も閉められたカーテンに弾かれ、

蛙の肚の中のような異臭漂う部屋に、人目をはばかる剥製が、そのガラスで出来た眼を外そうと、夢中になっているようだ。部屋にかけた時計の針は当然、認識できないが、家人が帰ってくる時刻は、おおよそ見当がついているので体内時計をその都度調整することは出来た。もう一ヶ月は経つだろうか。空腹を紛らすため、いくら眼を閉じても、人間は一日に、最大で十二時間以上眠りにつくことはできないと脳科学的に知られているのだ。俺

という一個体は、「人間」という生まれつきのレールに沿って生きていくしかない絶望感

に打ちひしがれる。

 素数という不思議な数字があるのだが。1またはその数でしか割り切れないものだ。1から順に、数字を渦を巻くように並べていくと「ウラムの螺旋」と呼ばれる素数の模様が出来るのだが、そんなことを考えていると、何もかも自分に理屈を立てることができそうでひどく狼狽してしまう。一週間も経てば結局俺は、ドア下に置かれた夕食に米に集るハエのようにありついて、生き延びてしまう。「人間」という生物の行動様式に縛られ、死ねずのこのこ生きながらえる畜生に腹立たしさが尋常ではなかった。ドアの先では、すすり泣く母の何度も呼ぶ声が聞こえるが、ブラウン管テレビの砂嵐が、何枚にも重なっていて、耳に届くことはなかった。俺は結局死ぬこともできなかった。死ぬ勇気も持っていなかった。何の変哲も無い無限に続く平面を虫けらのように生きていくしかないのだろう。ともすれば、相手のいない相撲を取り、何の意味があるのだろう。むしろ、これは君への侮辱ではないだろうか。私は君を奈落に突き落とした挙げ句、私の死を慰め物として、君の良心に訴えるなどしてはいけないはずだ。いや、そもそも君は仮面で隠した私の、直線の横並びでできたような顔を垣間見て、どう思ったのだろうか。立体のように突然に浮かび上がってくるそれに、気色悪く感じただろうか。あの日の雨を連想させる、砂嵐の壁を見つめ立ち尽くした。

しかし、どのように釈明すればよいのかわからない。とにかく謝罪だけはしなくてはならないと思い、明くる日、伸びきった髪を時間かけてほぐし、正午を過ぎたあたりに玄関の扉を開けた。乾ききったしわだらけの肌が太陽の光に曝されゾンビのように焼けるようであった。学校へ着くと靴箱に、彼女のローファーがあり、出席しているのを確認できたが

、どうしても教室に入ることをためらってしまう俺は、屋上で少し心を静めることにした。仰向けに寝そべってふかふかな雲を見つめる。今、彼女は何をしているのだろう。水曜三限と言えば、数学の授業中であるだろうから、頭の中で緻密な計算をしているのだろうか、それとも周りの子に優しく教えてあげているのだろうか。そしてその顔は、俺が知っている顔なのだろうか。彼女が私の違う顔に出くわしたように、私の知らない顔をまだいくつも持っているのだろうか。ん?待てよ。そうだとすれば、いったい私は彼女の何を見てきて、感じてきたのだ。何を知っているのだろう。いや、それは永野雪代の顔なのか。私の脳内でますますあの螺旋が勢いを増しながら肥大している気がした。どうしてここまであの娘に振り回されないといけないのだ。それとも本当は、彼女のことが嫌いなのか。分からない。分からない。とてつもない閉塞感にせき立てられ、おもむろに立ち上がり、呉八町一帯を眺める。

 t高校の隣には、小さな日の丸の旗がかけたられた郵便局があり、その奥には、ひかるの一軒家が見えている。紅葉色の屋根に、田舎の家のような土地の広さで、芝生にはゴールデンレトリバーの、確か名前はリンだったか、鼻にチョウ?らしきものを乗せてすやすや日向ぼっこをしていた。国内でも有数の霊峰、光頼山の扇状地に広がるこの土地は、屋上からみると湖を一望でき、砂嘴が西側から伸びている。湖のテトラポットへ白波の壁が押し寄せ、河口への中央通りとなる坂を緑色の軽自動車が降りていった。商店街の古びた看板の下で、たばこ屋のばあさんとランドセルを背負う少女が、和気あいあいとしている。変わり映えのない景色がたくさんある。突然だった。目頭が熱くなり、自然と涙がこぼれ落ちた。年輪のように刻まれた景色は、絶対的な事実として私とともにあったのだ。仮面で隠れるようなものではない。五円玉のようにくり抜かれた穴からも、同じ景色を見てきたのだ。焼灰色の彼女、猫のような意地悪さも、図書館の隅に隠されたミステリー小説を読む横顔も、かぐや姫のような涙だって確かにそこにあった。涙の塩でひりついた顔を袖にこすりつけた。恭介の部屋に置かれた風車が、窓から吹き込んだ暮れ風に回され花火の灰の残り香が漂っていた。

 祭りの翌日は、雨が去った後の快晴が、一面に広がっていて、教室の窓に張った手のひら大の蜘蛛の巣には、ホウセンカの種のように露が張り付いていて、今にも破れそうである。校舎を囲む青臭い葉の匂いが、雨に押し出されて芳しくなっていた。そんな中、中央通りの坂を上った先の、呉八駅改札正面にある、小さな公園のブランコに、永野雪代の姿があった。風に乗る風船のように、浮かび上がりそうな制服とは対照的に、虚ろな表情であった。皮肉にも昨日の出来事が信じられず絶望していたのだ。あの夜、太平洋の底へ沈んでいった栗色髪を前に、震えが止まらず逃げ出した。祭り囃子にせき立てられた心臓が、四尺玉とともに破裂したほどに痛みがひどく、左手で胸辺りを握り掴みながら、湖岸道路の脇を駆けていった。すれ違う若い夫婦の真ん中で、無邪気にシャボン玉を吹く男の子。そのシャボン玉が永野雪代に重なった。長いまつげによりかかる羽衣のようなそれは、北欧の夜を彩るオーロラのように揺れ輝き、彼女は必死に振り払って、両脇の屋台に目もくれず、参道の中央を走って行く。目を開くことが難しく、突然右側から大きな壁にぶつかったようだ。

「っいてーな、って周平さんとこの嬢ちゃん

やん。一杯飲んでくか?」

自治体の副村長、大田の無精髭がこびりついた笑顔の背後から、老いを感じさせない彼の

、モデルのような嫁がため息まじりにとがめる。背中から転んだ拍子に、袂の布地に切れ目が入ってしまったが、そんな事どうでもよかった。震えている膝に、笹の根が所々刺さっていたが、再び立ち上がって光を避けるように走り出す。町人全員の寄付で建てられた赤い鳥居をくぐって、急傾斜の坂を上っていくと、ついに息が切れて腰を曲げた。真新しい鼻緒に指股が腫れていた。振り返ると、十二色の虹を、砕いて散りばめたような星屑が

、壮麗な銀河を形成していた。

「私が一方的に片思いしてただけだったのかな。迷惑だったのかな。」

ベッドから天井を見つめながら、錯綜する。

砕けたアーモンドのような顔が、繰り返し思い出され一睡も出来そうにない。いや、もう今日は寝よう。枕元のナイトライトをつけたまま、静かに目をつぶった。

 ブランコに揺られる彼女。あなたは、私を置いて暗闇へ飛び込んだ、こっちに来るなとでも言うように。それはさながら、ドライフラワーが脱色して枯れていくようだった。どうして?私と違って色々な子達に囲まれるあなたは、私の目には誰よりも輝いていた。無邪気な笑顔、狼みたいに鋭い目、大きな手を持ちながら、一方的に愉しませてもらっている私に応えてくれる。私なんかと接してくれる優しさにどんどん惹かれていった。勢いを失っていきブランコは中心で静止した。こんなにも好きなのに。あなたが選ぶ道ならば、たとえ地獄だろうが、喜んでついて行くのに

。下ろした髪にゴム紐を当てようとすると、肩に乗っていていたモンシロチョウが驚いて

、逃げていく。残暑はまだ続いていた。学校へ向かう中、無意識に蹴ってしまった抜け殻が、プラスチックのような音を鳴らして転がっていった。校門前でポケットから、手鏡を

取り出して自分の顔をのぞき込む。碧い瞳が

中心へ向かうほど色濃くなっていた。しかし

彼の姿はいつもの席に無かった。三日、一週間と過ぎていくも、放射状に陽光が照らされた、窓横の席は度の入っていない眼鏡のように寂れていた。ふわりと舞うカーテンに思い起こされ、携帯の受信boxを確認するが、0件の文字列は変わらない。柄にもなく机に顔を、、アスファルトにへばりついたガムのように押し当てる。

さらに三日が経った。職員室で担任の背後に立つ女の子。椅子のきしむ音が聞こえる。

「齋藤か。俺も連絡が取れて無くてな。そういえば永野、家隣だったよな。配布物が机の中に溜まってきているから、様子見に持って行ってくれないか?」

 学校からの帰り道、光頼山からの紅葉が彼女を取り巻くように、舞っている。進路希望用紙を底にした配布物の層を両手に、インターホンを押すが、石垣に腰掛けた枝に止まったひよどりの囀りが返事をするだけだった。肺の膨らみとともに肩が僅かに上がる。時間が経つにつれ、両手の重みが、心にまでのしかかるようだった。次の日、また次の日と彼の家を訪れる。だんだんと、墓参りのように思えて涙ぐむ女の子。その肩を叩く金髪の青年がいた。何やら今帰ってきたばかりの校舎の屋上を指さす。夕日に照らされ、一人の影がぼんやりと立っているのが見えた。

 「行ってこい」

背中をポンッと弾かれ、彼女は走り出した。

 さて、俺はこの先どうなるのだろう。不安で不安でしゃーないわ。自分の未来がな。

 私は彼女のことを愛している。それは、仮面で隠すことのできない本当の気持ちなのだ

。彼女のためならこの茜色の空に昇華してしまおうか。

「ガチャン」

真後ろにある屋上への扉が開いて、重厚な金属音が鳴り響く。両手でしがみついた手すりを意気揚々と突き飛ばして振り返った。凪の沈黙とともに、山の端には四分の一だけ、夕日が隠されていた。


























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