相反するビタースイートⅢ
翌日の金曜日は、相も変わらず晴天でじっとりと滲む汗が不快だった。これだけ暑いというのに、五限目の体育はプール納めだという。男子からのブーイングは凄かったが、みどりは正直ほっとしていた。
プールサイドの日陰になっている場所で、体操着姿のまま、みどりはプールを眺めていた。今日が最期ということで、ほとんどの時間が自由時間となっている。各々が大声を上げてはしゃいでいたが、みどりは見学だった。
とてもプールではしゃぐような気分にはなれない。みどりは、影と同化するかのように身じろぎ一つせず思案していた。そして、呑気に泳いでいる朱莉をみたとき、決心がついた。
みどりは日陰から身を乗り出して時計を見る。まだ授業は三十分以上ある。
「先生。お腹が痛くて、トイレにいってきてもいいですか?」
「ああ、いいよ。具合悪ければ、保健室にいってもいいからね。一人でいける?」
「大丈夫です。失礼します」
クラスメイトの騒ぐ声を背に浴びながら、みどりはプールサイドを出た。だが、目的地はトイレではない。
金曜日は五限で終わる。帰りのホームルームは滞りなく終わり、我さきにと廊下へ飛び出していくものや、先生と話をする人など様々だが、みどりは教科書などを仕舞いながら朱莉の動向をみていた。
朱莉は今週、給食当番だった。机の横には、カプチーノのトートバッグと、給食袋がぶら下がっている。先生が教室を出れば、朱莉はいつものように迷わず給食袋をみどりに手渡してくるだろう。
しかし今日は、先生と話し込んでいる生徒がいるせいで朱莉もすぐには席を立たないようだった。目の前で給食袋を渡していれば、どうして渡しているのかと訊かれかねない。
すると、朱莉の取り巻きの一人が、そういえばと話を切り出した。
「朱莉さー、明日公民館で生活作文読むんだっけ?」
「あー、うん。そうだよ」
「やっぱ朱莉すごいよねぇ。あたしなんて入賞したことないもん。ねぇねぇ、ちなみにどんな内容なの?」
「えっとねー」
朱莉はみどりが書いた作文を真面目に読んだことがないのか、トートバッグに手を入れるとこのあいだ返却された原稿用紙を取り出した。
そして、その手がぴたりと止まった。
「え……?」
朱莉が茫然とした様子で原稿用紙を見つめている。取り巻きの女子たちも、その異変に気付いたのか、ざわざわと辺りの空気が変わったのが感じられた。
「文字が消えてる!」
朱莉が大きな声で言った。教室に残っていた数人が、何事かと視線を向ける。
「違う原稿用紙なんじゃない?」
取り巻きの一人が言った。しかし朱莉はぶんぶんと首を横に振った。
「原稿用紙は作文しかいれてないもん。あとは楽譜とか、親に渡すプリントだから」
朱莉はそういって机の横にかかっているトートバッグからファイルを取り出して、楽譜を一枚一枚並べる。他にも数枚プリントがあったが、作文が書かれた原稿用紙はない。小さな舌打ちが聞こえた。
その後、まるで逆再生のように綺麗にファイルをしまい、トートバッグを机にかけると、今度は引き出しの中を確認しだした。だが当然ながらそこにもないようで、苛立ちをぶつけるように朱莉は机を叩いた。
「誰かが差し替えたのかも……。作文を盗んだんだ!」
朱莉がより一層語気を強めた。騒ぎに気付いたのか、先生が慌てた様子で近づいてくる。それもおかまいなしに、朱莉は席を立つと辺りを見渡して一人一人を鋭い目つきで睨み始めた。
みどりと目があった途端。朱莉は眉を吊り上げて叫んだ。
「おまえだろ!」
みどりは震えながら顔を振る。迫力に気圧されて、言葉がすぐに出てこなかった。
「おまえが隠したんだ!」
「ち、違う。隠してないよ」
「嘘つくな!」
朱莉が、机に出たままになっていた筆箱を掴んで投げた。みどりは咄嗟に両手を顔の前に出して身構えたが、筆箱は教室の後ろに飛んで行った。先生が慌てたように朱莉の肩を押さえて座らせた。
「落ち着いて、朱莉さん。どうして瀬名さんだって思うの?」
「それは――!」
みどりが書いたからだ、とは口が裂けてもいえないだろう。朱莉は言葉をぐっと飲みこみ、椅子を蹴った。
「ゴミ箱にすてたんじゃないだろうな!」
朱莉は先生の手を払うと、教室の隅にあるゴミ箱に向かう。あろうことか、それを勢いよくひっくり返した。その模様に、クラス中が何も言わず、時が止まったかのように身動きがとれないでいた。しかし、ゴミの中に原稿用紙は一枚もない。ただちり紙や、埃が散らばっただけで、朱莉は怒りを抑えきれない様子で地団駄を踏んだ。
「どこに隠したんだ! おい、おまえら、他のクラスのゴミ箱もみてこいよ!」
朱莉の取り巻きは尋常じゃないほど怒りを露わにする朱莉に怖気づいたのか、肩を震わすばかりで動こうとしなかった。いくら普段行動を共にしているとはいえ、他クラスにまで乗り込んでゴミを漁るようなことはしたくないのだろう。朱莉はそれが不満なのか髪の毛を掻きむしってゴミを踏みつけていた。
「どうして、なんで! わたしの作文がなくなるの!」
朱莉は席に戻ったかと思うと何も書かれていない原稿用紙を手に取って穴があくほど睨みつけた。取り巻きの一人が見かねて声を掛ける。
「あ、朱莉。誰かが悪戯して文字を消したんじゃない?」
朱莉は怒りを通り越したのか目尻に涙を浮かべている。
「ちがう、だって……ボールペンで書いてあったから……」
わなわなと震えながら、朱莉は原稿用紙を置くとみどりの元へと歩み寄ってきた。
「机と、ランドセルの中見せて。隠してるかもしれないから」
さっきまでとは対照的の、冷たい声色だった。みどりは従順に、机の中のものを全部出して、ランドセルも朱莉に手渡した。朱莉は何か確信を持っているかのように、必死に探していたがもちろん、生活作文はおろか、原稿用紙すら出てこない。昨日返却された読書感想文も、みどりは家に置いてきてあった。
そんなところにあるわけもないのに、朱莉は筆箱までも中身を机にぶちまけて原稿用紙を探している。マーカーペンが数本、地面に落ちる。みどりが屈んで拾おうとしたら、後ろから別の手がぬっと伸びてきた。振り返ると、事の成り行きを見守っていたのか冴木が少し心配そうな顔をして立っていた。
「もう、いいんじゃないか」
よせばいいのに、冴木が朱莉を説得する。朱莉は充血した目で一瞬だけ冴木を見ると、震える声で言う。
「あんたも見てないで、どこかにあるかもしれないから探してよ」
「…………」
冴木は何もいわずに、拾ったペンを机に置く。その後しばらく、机の上をじっと見ていたかと思うと、すぐにその場を離れていった。みどりにとって冴木は自分の味方だと思っていたので、離れていくのは何だか心細かった。
「あんたたちも、もう少しちゃんと探してよ!」
朱莉が再び声を荒げると、取り巻きたちがロッカーなどを捜索しだす。先生だけは冷静を取り戻したのか、コピーしてある作文を持ってくるからねと優しく言い残して職員室まで走っていった。
大捜索は十分ほど続いただろうか。
なにも、教室からは出てこなかった。
「もう帰ろうよ。朱莉」
取り巻きが、諭すように朱莉にいう。先生がコピーしてあるという作文を持ってきさえすれば、明日のスピーチは問題なく終えられるだろう。だが、朱莉にとっては自分がいじめられたとでも感じているのか、原稿用紙が白紙になっていたことに対して憤っているようで、ほとんど泣きながら怒っている。みどりは、何も言葉をかけることができなかった。
ぽん、とみどりの肩に手が置かれる。振り向くと、冴木がいた。
「帰ろう」
「……うん」
みどりは頷いて、片付けた荷物をランドセルに押し込んで担いだ。
「朱莉ちゃん、帰るね。給食袋持っていくよ」
いつもなら、無言で押し付けられる給食袋をみどりは率先して引き取ると申し出る。怒り心頭の彼女を宥めるためでもあり、これ以上こちらに敵意はないのだと知ってもらうため。
朱莉は机の横にかけられていた給食袋を荒々しくとると、ほとんど投げるようにしてみどりに渡した。その時、何か違和感を感じたのか、朱莉はトートバッグを撫でるように触れる。
「あったかい……?」
そこにはただ、カプチーノのイラストが描かれているだけである。
もう誰も、朱莉の原稿用紙を探している者はいなかった。