人外合格
『ごめん二十分ぐらい遅れる!!』
待ち合わせ場所に着いた瞬間、スマホにメッセージが届いた。これから一緒に昼ご飯を食べに行く友人からだ。飛び散る汗のような絵文字と、可愛いキャラクターが土下座しているスタンプがセットで付いている。謝罪の時に絵文字が増えるのは彼女の癖だ。本当に謝意があるのなら、自分の土下座を撮ったものをスタンプにして送るべきだろうと思う。
『おけ、待ってる』
『うわーんごめんね!!』
当初の待ち合わせ時刻から四十分が経過しても、友人から追加の連絡は来ない。いつものことながら少し心配になる。何かおかしなことに巻き込まれていなければいいのだが。
スマホが鳴った。メッセージ用の着信音だ。急いで確認する。
『新作アプリ 蝮パーティ!』
今世紀最大の“なんだお前か”が私を襲った。だいぶ前にフォローした、ゲーム会社の公式アカウントからだった。以前は面白そうなアプリをコンスタントに出していたのに、最近はしょうもない育成ゲーしか出さなくなった。ちょうどいい機会なので、通知を切ってブロックしておく。
それからほどなくして、改札の向こうから歩いてくる人垣の中に、友人の姿を見つけた。
「ごめーんお待たせ!」
「遅いよ。」
「いや~昨日慌てて塗ったネイルが起きたら崩れててさぁ、朝から塗り直したんだよね。そしたら除光液のニオイやばくて! さすがにラーメン屋に除光液臭漂わせてくのはまずいっしょ?」
ラーメン屋だろうと何だろうと非常識な気がする。
「色可愛いねそれ。」
「でしょ!? やっぱあたし天才だわ。ネイリストになれる。」
ようやく予定の店へと向かう。と言ってもここから徒歩二十秒の店で、改札を出てすぐ見える所に位置している。つまり私は四十分以上前からそのラーメン屋を眺めながらスープの匂いを嗅ぎ、空腹に追い討ちをかけ続けていた。ランチのピークはとうに過ぎている。
汚れた自動ドアが悲鳴のような音を立てて開く。
「ぃらっしゃっせー。」
油でテカる食券機のボタンを人差し指の第二関節で押し、私は醤油、友人は味噌を頼んだ。セルフサービスのお冷をとって席に着く。
この店を提案したのは友人だ。今度こそ私のラーメン嫌いを克服させたい、などと意気込み、日程調整もスムーズにいった。カウンターが五席と、テーブル席が三つ。ラーメン屋として大きい方なのかどうかは、相場を知らないのでよくわからない。しかし行列が出来るほどの有名店でもなさそうだ。
正直、私はラーメンが嫌いなわけではない。むしろ好きだ。塩辛いスープと喉越しの良い中華麺、食感のアクセントになるメンマ。しょっちゅう一人で食べに行くし、こんなに美味しい料理を嫌いな人間は存在しないとすら思っている。
私が嫌いなのは、友人が煙草を吸っている姿を見ることだ。そして友人がラーメンに誘ってくる時は、必ず全席喫煙可の店を提案される。
席に着くなり、友人は何も入らなそうな小さなバッグから煙草の箱を取り出すと、ライターをしばらくカチカチやって、断りもなく吸い始めた。細めのメンソールだ。ツンとした香りが鼻をつく。
彼氏の影響で煙草を吸うようになったという友人は、未だに持ち慣れないのか、シャボン玉を吹く時みたいな手つきで煙草を吸う。
「てかさ、ちょっと聞いてよ。彼氏がさぁ、」
「ストップ。惚気?」
「違う、愚痴。」
「了解。続けてよろしい。」
常日頃から彼氏が欲しいと嘆いていた友人にパートナーが出来たことは素直に喜ばしかった。だが、数ヶ月前に"面通し"をした時、私が友人の彼氏に抱いた印象は、“喋る粗大ごみ”だった。私は、彼のことを脳内で密かに「ごみオ」と名付け、そう呼び続けている。
「一緒に買い物行った時にね、私いろいろ服とかたくさん買ったのね。」
「うん。」
「でさ、やっぱ荷物も増えるわけよ。ショッパーとかさ。」
「増えるね。」
適当な相槌を打っていると、
「醤油一丁、味噌一丁!」
席に着いてから三分もしないうちにラーメンが提供されてきた。サーブの早さが売りなのだろうか。艷やかな麺と鶉の輝きが食欲をそそる。
「美味しそ〜!」
友人の丼には、大量のコーンとほうれん草の緑が見える。まだ半分ほど残った煙草を灰皿に押し付けるのを見て、少しだけほっとした。
「いただきまーす。」
「いただきます。」
各々、しばらく無言でラーメンと向き合う。まずはスープを一口。それから叉焼。蓮華を上手く繰りながら、麺を啜りまくる。
半分ほど食べ終えて丼から顔を上げると、ちょうど友人もこちらを向く。
「どぉまで話したっぇ。」
友人は、まだ口に麺が入っているのに喋り始める。前はそんなことしなかったのに。
「買い物で荷物が増えるよねってとこまで。」
「え、ちょっと待って。そっち鶉入ってんじゃん。」
……喉から千手観音が出てきそうなくらい物欲しそうな目をしている。
「一個いる?」
「わーいありがと。」
あげるとは言っていないのだが。友人は食い気味に返事をすると、躊躇なくこちらの丼に箸を突っ込んで、鶉をかっさらっていった。食い意地の張り具合は健在のようだ。
「ぉうほう、荷物ね。ぉいでもう両手塞がっへはわけ。」
「食べながら喋んないで。荷物で手が塞がってたのね。」
友人が黙って鶉を咀嚼する間、私も麺をもう一口啜る。
「でも手ぇ繋ぎたかったからさ、せめて片手に持ってる分だけ代わりに持って欲しかったのね。」
「……うん。」
「彼氏にそう言ったらさ、なんて言ったと思う?」
「え、分かんな。筋力ゴミだから無理とか?」
「違うし。んな軟弱じゃないし。」
ごみオは無駄に背が高くてヒョロい。おまけに死戦期呼吸みたいな笑い方をする。私と話す時の一人称は「自分」。ピアスは顔面に六個、両耳にそれぞれ十個、それからあんなところやこんなところにももう二つ。ちなみに私が自分で数えたわけではなく、ごみオが勝手に喋っただけだ。
「じゃなくて、『バッグも女の子のファッションのうちだと思ってた』って。」
「へえ。」
「バッグじゃねえし、荷物だし、ただの。」
「まぁブランドの紙袋とかバッグ代わりにしてる女子もいるしね。」
「量が違うじゃんか! なんだよファッションって。絶対持ちたくないだけっしょ。」
「分からん。」
口角泡を飛ばす勢いの友人を軽くいなし、ふと店のテレビを見やる。民放の報道番組がついていた。専門家を名乗るインテリが、昨今の政治情勢について素人が言うのと変わらない“見解”を述べている。
「ちょっと、聞いてる?」
「聞いてない。」
「はぁん? 殴るぞ。」
「やってみ。当たんないから。」
そこで一旦会話は途切れ、また黙々とラーメンを食べ進める。私は食欲が後退するのを感じつつも、ごみオと初めて喋った時のことを思い出していた。
ごみオはとにかく清潔感が無かった。中途半端に伸ばしたボサボサの髪を、ヤニで黄ばんだ歯と同じ色に染めていた。常に香水の強い香りを振りまいていて、さながら落ちぶれた中世の騎士といったところ。騎士と違い、国への忠義も磨き抜かれた剣技も無い分、ごみオの方が何億倍も劣っているのは言うまでもない。ウォッシュド加工が施されたダメージジーンズ、踵で潰した小汚いスニーカー、その脚を忙しく揺する姿を今でも鮮明に思い出せる。
「自分、精神世界入れるんすよ。」
この男、何を言っているのだろう。そう思った。
「精神世界?」
「なんかこう、自分の中の自分、みたいな。」
「へぇ。どうやるんですか?」
「どうって、ただ座って、集中するんすよ。」
「集中……。」
「そう。三十分ぐらいの時もあるし、八時間ぐらいぶっ続けの時もあるっすね。」
ただの哲学かぶれのニートじゃないか。その時間をせめてバイトに充てろよ。
ごみオの言う事なす事全てを否定したい気持ちに駆られた。
つまり何が言いたいかというと、私は友人の彼氏、ごみオのことが大嫌いだ。
辛さの割にあっさりとしたスープを飲み干し、丼を置く。友人も殆ど食べ終えて、ゆらゆらと漂うコーンを一粒一粒箸で摘んでは蓮華にのせることを繰り返していた。
「でもさ、結局持ってはくれたんだよね。」
「荷物?」
「うん。」
コーンを全回収することは諦めたのか、今度はスープに浮かぶ油を箸で一つにまとめながら喋る。
「それでさ、帰りコンビニに寄ってさ、デザート買った。」
「ふーん。」
「公園で食べたんだけどさ。」
「……。」
「すんごい美味かった。」
「惚気じゃねえかぶちのめすぞ。」
友人はコロコロと笑って箸を置いた。
「ドクガ論とかコウフク論とか、色んな話した。」
「楽しそうで何より。」
哲学好きの人間は嫌いだ。そういう奴の大半は、自分の考えてる小難しいことが、この世で一番正しいって、無意識にそう思ってる。
「今まで話したどんな人よりも、私が一番哲学の話分かってるから話しやすいって言われた。」
「そっか。」
久しぶりに沈黙が気まずく感じた。もう少しゆっくり食べるべきだった。
「なんか今日冷たくない?」
「私が?」
「うん。」
「ご冗談を。」
「じゃ替え玉頼んで良い?」
「いーよ別に。私も頼もうとしてた。」
既に腹八分目を超えていたが、友人が食べているのを見るのが好きだから、頼むことにした。暇そうにしていた店員が丼を片付けに来たタイミングで、替え玉分の小銭を渡す。
とりあえず直近の出来事は話し終えたのか、友人も話すのをやめて頬杖をついている。
私の頭の中に、再びごみオとのやり取りが映し出された。
「なんかそういう、自分の核みたいな、無いすか?」
「核、ですか。」
「そうっす。」
ふと俯いたその理知的な瞳を見て、あぁ、敵わないな、と。そう思った。
ごみオは聞き上手だった。自分の考えは少ししか話さないで、他人の考えばかり聞きたがった。私は、他人に話せるだけの哲学も美学も持ち合わせてはいないのに。
ジーンズや靴は、たかだか数ヶ月履いたくらいでは大してくたびれない。経年劣化特有の味が欲しいという欲張りな輩を挑発するかのように、"まだまだ新品同様よ"と誇らしげに語りかけてくる。けれど、現代人は忙しい。サラピンの服飾品を長いこと着用して味を出すのは時間がかかるし、かといってあえて生地を擦ったり黄ばませたりするのも負けた気がする。というより忍びない。ならば、元々使い込まれたようなデザインのものを買うのが一番手っ取り早いではないか。服なんて、着古す間もなく流行って廃ってまた興る。着古した感じが欲しければ、着古したように見える物、実際に着古された物を入手するのがセオリーというものだ。
だけど、ごみオの履いていたジーンズは、ウォッシュド加工が施されていたのではなくて、本当に色落ちして褪せていただけだった。踵を潰したスニーカーは、履き方こそ乱暴だけれど、何度も修繕された跡があった。それが何だ、と思うけれど、ごみオの喋る言葉の端々に“厚み”の違いを感じた。
“もしかして私、この家の子じゃないのかもしれない”、誰もが一度は浮かぶだろうこの考えと同じテンションで、“もしかして私、ホモ・サピエンスじゃないのかもしれない”と思うことが多々ある。力加減が分からない心優しい巨人のような、もしくは理由もなく恐れられている森の怪物のような、人間社会と相容れない存在。
山積する目先のタスクに時間をとられて、自分を成長させる暇もなく馬齢を重ねていく私。それでも何か積み重ねてきたものが、自分だけの財産がどこかにあるはずなのに、一向に見つからない。
もしやこの長い時間で何も得ていないのではないか。知識という、人としての魅力を。経験という、人生の厚みを。そう心配になって、焦って、何か分かりやすい年輪をその身に刻もうと躍起になる。道端に咲いている花の和名がすっと出てくるとか、書道の先生みたいに綺麗な字を書けるとか、奥行きのある人生からくる知性のチラリズムを体得することを目指して、大して好きでもない洋楽の歌詞を考察してみたり、人に自慢できそうな雑学をSNSで探してみたり。付け焼き刃の“知識”なんかじゃ意味無いって、分かってるけど。
古着があんなに高いのは、他人の時間に値段をつけているからだ。年数経過による服そのもののレアリティの上昇だけじゃない。ジーンズの皺、ブラウスの褪色、その服の持ち主が作り出した、世界で唯一のデザイン。他人には決して得ることのできない、重ねてきた時間の副産物。
ごみオが羨ましかった。自分のことばかり考えて、知識を貪欲に求めて。内省にかけてきた時間がそのまま彼自身の奥行きになっていて。ごみオが、人間の幸福について黙考する間、私は痛みに日和ってピアスの一つも開けられない。
友人が、どうして彼を選んだのか。私は知っている。この足りない脳みそが痛いくらいに分かっている。
それでも、友人の隣に、他の誰よりも近い所に立っていたかった。友人が蜂蜜入りのレモネードが好きなことも、幕の内弁当の白飯にのった梅干しが嫌いなことも知っているのに。一緒に歩く時、車道側を歩かせたりなんかしないのに。両手が塞がるほど沢山の荷物、絶対持たせたりなんかしないのに。たとえ自分が吸ってたって、煙草なんて吸わせないのに。どうして今友人の隣にいるのは私じゃないんだろう。どうして。
こんなに悩むことになるなら、脳みそなんて無い方が良かった。
別に友人の彼女になりたいわけじゃない。彼氏になりたいわけでもない。関係に名前なんて要らない。ただ一番近い所にいたい。いさせてほしい。たとえ、私を必要としていないのだとしても。私のことが大事でないのだとしても。
友人の隣にいるべきなのは、ごみオなんかじゃない。私のほうがずっと相応しい。そう思ったのに、それを証明する術を、私は持ち合わせていなかった。
自分の存在価値を、自分自身にすら証明できなかった。どんどん視界が狭まって、妬ましい存在しか見えなくなった。自分より有意義な時間を過ごしてきたのであろう人間。自分と似たような取り柄を、さらに磨いて極めた自分自身の上位互換。大は小を兼ねると言うけれど、大が上位互換で、兼ねられている小は自分。猿にも分かりよい包含関係だ。
それに気付いた時、嫉妬と虚無感と後悔と、ありとあらゆる負の感情が、"本物の年輪"となって内側に刻まれたような気がして。
あぁ、ようやくわかった。私は、“ホモ・サピエンスじゃないのかもしれない”のではなくて、“ホモ・サピエンスを辞めてしまいたい”のだ。人外になりたい人間なのだ。脳みその小さいダチョウとか、そもそも脳みその無いクラゲとか、なんにも考える必要の無い生き物になりたいのだ。大して長く辛い人生を歩んできたわけでもないくせに、ヒトとしての思考を放棄することを望んでいるのだ。
死にたいか死にたくないかと言われたら死にたくないけれど、生きたいか死にたいかと聞かれたら死にたい、そう迷いなく答える。
私は人間を辞めたい。でも、自殺したいわけじゃないし、人権を剥奪されたいわけでもない。ただ、誰かに“人外”の烙印を押して欲しい。
「ごちそうさまでしたー。」
多量の脂質にもたれる腹を抱えて、駅まで戻ってきた。なんだか一人になりたい気分だった。
「明日もバイト休みだ〜! よっしゃあ~」
無邪気に喜ぶ友人に、かける言葉が見つからない。
「私、寄り道して帰るから。」
「そう? 分かった。またね〜」
「気を付けて。」
友人が改札をくぐって、ホームへの階段を降りて見えなくなっても、しばらく同じ場所に突っ立っていた。別に、振り返ってくれるのを期待したわけじゃない。滲んだ視界に映る友人が、眩しかっただけ。それだけだ。