【短編版】抜け殻を愛してしまった
今朝もいつもと同じ。いつ帰ってきたか分からない夫は、いつの間にか出掛けている。
私は身支度を整えると、部屋に運ばれた朝食を、いつも通り一人きりで食べる。家族が増えても囲めるようにと作った大きなテーブルは、結局ほとんど使われないまま、食堂の置物と化していた。
『見送りも出迎えも要りません』
遠慮でも思いやりでもなく……彼にとってそれが楽なのだと理解してから、もう四年近くが経ってしまった。今では寝室も完全に分けており、用がない限りは、顔を合わせることもなくなっていた。
あの女性が義弟と結婚してから────
彼の魂はもう、永遠に戻って来なかった。必死に掴んでいた、小さな小さな欠片さえも。
◇◇◇
裕福な商家の一人娘である私と、由緒正しい伯爵家の長男である彼。それは親に勧められた、よくある政略結婚だった。
伯爵令息を婿養子に迎えることで箔をつけたい我が家と、財政難から資金援助を求める伯爵家。彼に一目惚れした私の強い希望もあって、話はトントン拍子に進んでしまったのだ。
だって……あんなに美しい男性に微笑みかけられたら、誰でも胸がときめいてしまうわ。シルバーブロンドのサラサラの髪に、サファイアみたいに真っ青な瞳。その目鼻立ちは、美術館で見た彫像よりも、絵画の王子様よりも整っていた。
結婚なんて面倒臭いと思っていたけれど、母の言う通り、精一杯お洒落をしてきて良かったと思った。品のない赤茶色の髪も、地味な焦茶の瞳も、少しはまともに映っているでしょうと。
……今思えば、彼は最初から、私のことなんて少しも見ていなかったのに。
『氷の貴公子』という異名なんて信じられないくらい、彼は私に対しては優しく、常に親切で紳士的だった。けれどご両親や使用人と話す時には、その美しい顔からすっと笑みが消えた。
私にだけ優しい彼。きっと好意を抱いてくれているからなのだろうと……そう勘違いしてしまった。
ならばもっともっと好きになってもらいたい。その一心で、よく父からじゃじゃ馬だと言われている気性を隠し、彼に釣り合うような大人しい淑女になるべく努力した。
三回目に伯爵家に招かれた時、彼はお茶を運んできたメイドに、今までに見たことがないほど不機嫌な顔を向けた。平凡な顔立ちの、不器用そうな若いメイド。そのメイドがとうとう私のカップからお茶を溢れさせ、テーブルクロスを濡らした時、彼は立ち上がり厳しい目で彼女を見下ろした。
『……何故お前がこんなことをしているんだ』
怒りのこもった低い声に、私の背筋もぶるりと震える。
『すみません……あの……お茶を……お嬢様に私のお茶を召し上がっていただきたくて』
『……たったそれだけの理由でメイドの真似事をして、危うく令嬢に火傷を負わせるところだったと?』
彼女の顔はみるみる青ざめ、薄灰の大きな瞳には涙が溜まっていく。……メイド見習いが、勝手に客の前に出てしまったのだろうか。『申し訳ありませんでした』と肩を震わせる姿が、気の毒になってきた。
……あっ!
エプロンを握り締める彼女の手を見れば、左の甲だけが赤くなっている。きっとお茶が掛かってしまったのだろう。慌ててハンカチを取り出そうとした時、彼は『少し失礼します』と頭を下げ、彼女の腕を掴み部屋を出て行ってしまった。
私に粗相をしたせいであんなに怒られて。メイド長に告げ口されてしまうのかしら……可哀想に。お茶も美味しいのだし、許してあげて欲しいわ。なんて考えていた自分の方が、本当はよほど哀れだった。
あの時彼は、自ら彼女の火傷を手当てしていたのかもしれない。泣きじゃくる彼女の肩を抱き、優しく慰めていたのかもしれない。
一人きりで飲んだ彼女のお茶は、美味しいのにどこか甘酸っぱくて、切ない味がした。
幼い頃から木登りや乗馬が好きで、幼なじみの男の子といつも競争しては勝っていた。年頃になっても、女の子が好むような恋愛小説や詩には一切興味がなく、算術や経済の本ばかり読んでいた。そんな私が初めて好きになった人。初めて抱いた恋心。何も、なんにも見えていなかった。見たいものしか見えていなかった。
あのメイドはメイド見習いなんかじゃなく、彼のお母様の遠縁のお嬢様で。幼い頃にご両親を亡くして引き取られた為、伯爵家にとっては家族も同然の方だった。正式な養女にしなかったのは、彼と結婚させるつもりだったからかもしれない。……父の口からそう聞いたのは、もう結婚式を一週間後に控えた時だった。
彼は家の婿になる為、いずれ襲爵する弟の方と結婚させるのだろう、だから気にするなという言葉に頷くしか出来なかった。
そうよ……彼は私のことを好いてくれている。始まりはお金の為だったとしても、私を好いてくれたから結婚を決めたのだ。
だって……私にだけはあんなに優しいもの。いつも優しく笑ってくれるもの。恋愛小説も詩もよく分からないけれど、お姫様を愛する王子様は、あんな風に優しいものなんでしょう?
白い礼服を着て私の前に立つ彼は、どこから見ても王子様そのものだった。白いドレス姿の私を見て、『綺麗ですね』と微笑んでくれたけど……その瞳の奥には表情がない気がして。不安になった私は、つい訊いてはいけないことを訊いてしまった。
『本当に私と結婚してもいいのですか?』
……一瞬、彼の顔から全ての表情が消えるも、すぐにいつもの笑顔に戻った。
『当たり前じゃないですか。でなければ、今こうして、私はここにはいませんよ』
その声は、酷く掠れていた。
神官様の前で向き合う私達。この式を終えれば、私達は本当に夫婦になってしまう。
さっきの彼の声がずっと耳に残り、祈祷に集中することが出来ない。そんな私の視界の端に、ふとあの女性が映った。親族席から離れた場所に遠慮がちに座る彼女は、地味なドレスを着ているのに、主役の私よりもずっと輝いて見えて。彼女は平凡なんかじゃなく、本当はお姫様みたいに可愛いということに気付いてしまった。
誓いの言葉を口にする彼の瞳が、生気のないガラス玉みたいだということにも。
その夜、私を抱く彼の顔からは、もう笑みすらも消えていた。丁寧に、淡々とこなした後は、背を向けて眠ってしまう。……隣で寝てくれるだけ親切だわと自分に言い聞かせ、泣きたくなるのを堪えた。
どうしてもっと、彼を見なかったのだろう。彼が私に優しかったのは、辛い現実から自分の心を守る為だったのに。そうしなければ、彼はきっと、壊れてしまっていたから。
あの時、彼女に見せた怒りや焦りこそが、真実の愛なのだと気付いていたら……。
彼の心は、彼女の元にある。
私は、彼の抜け殻と結婚してしまったのだ。
もう、後戻りは出来ない。
たとえ義務感からでも、身体を重ねていた内はまだ希望もあった。子供を授かったら、魂が戻って来てくれるかもしれないと。
だけど元々少なかった営みは、年月と共に更に減っていき……成人した義弟と彼女が結婚してからは、完全にその希望は潰えてしまった。
貴方の魂は、もう永遠に戻って来ない。必死に掴んでいた小さな小さな欠片さえも、私の手を簡単にすり抜け、彼女の元へと行ってしまった。
恋心を抱いていた場所にはぽっかりと穴が空き、愚かなそこを埋めるように、私も事業を起こし仕事に打ち込むようになった。
それから僅か一年後、義弟は病に倒れ、19歳という若さで亡くなった。
黒い喪服に身を包む彼女は、心労からかすっかり窶れていて。ベールの下から彼を覗き見れば、青い瞳は彼女だけを見つめ、苦しげに揺らいでいた。
今すぐ駆け寄って、抱き締めたいに違いない。愛している、これからは僕が君を守ると叫びたいに違いない。……隣に私が居なければ。
今が潮時だ。愛はなくとも、彼は夫として充分尽くそうとしてくれた。その気持ちに応えたいと思う。
◇◇◇
義弟の葬儀からひと月経った頃、私は『大事な話があります』と、彼を庭に呼び出した。
彼の瞳を思わせる真っ青な空の下、私は用意していた敷物を広げ、そこに座るようにと促す。
少し戸惑いながらも腰を下ろす彼。こうして並ぶと、思っていたよりも距離が近くて……空っぽだと思っていた胸が、切なく疼き出した。
子供が生まれたら思いきり遊べるようにと、実家の一番日当たりのいい場所に、両親が建ててくれたこの離れの屋敷。庭師が懸命に手入れしてくれている庭を、こうして二人で使うのは最初で最後になるだろう。
空を見上げ、落ちそうになるものを全部呑み込むと、大きなバスケットを勢いよく開け、皿の上に中の物を手際よく並べていく。
「好きな具をパンに挟んで食べてくださいね。自分で作ると、きっと何倍も美味しいから」
こんな風にして食べたことがないのだろう。ぽかんと口を開ける彼の前で、ソースをかけた厚切りのハムとふわふわの卵、瑞々しいレタスを一枚……と、どんどんパンに載せていく。
「お腹ペコペコだから……ごめんなさい! お先にいただきます!」
そう言うと、淑女らしくない大きな口を開け、ガブリとパンに噛みついた。
「うーん、美味しい」
お行儀悪く頬を膨らませる私を見て、彼は呆気にとられている。それでももぐもぐと口を動かし続けていると、彼もやっとパンを手に取り、私と同じ具を挟んで一口噛ってくれた。品よく咀嚼し飲み込むと、ポツリと呟く。
「……美味しいな」
久しぶりに彼の表情を見た気がする。私は嬉しくなり、「でしょう?」と得意気に言いながら、二つ目のパンに手を伸ばした。
私が二つ目をお腹に入れた頃、彼もようやく一つ目を食べ終わる。お茶を注いだカップを差し出すと、彼はそれを受け取り、赤茶色の水面を見ながら言った。
「話とは?」
カップに口を付け喉を潤すと、私は出来るだけさらりと言ってのける。
「離婚して欲しいの。私、好きな人がいるんです」
紅茶から私へと視線を移す彼。その表情は驚いてはいるものの、瞳は凪いでいて何の揺らぎもない。
「……好きな?」
「ええ。その人と一緒になりたいんです。実はもう、心だけじゃなく身体も結ばれているわ。だから、別れて欲しいの」
彼は何も言わない。少し目を伏せ、夫としてどう答えるべきかを冷静に考えているようだ。
なるべく彼を困らせたくない。私はさっさと話を進めた。
「あ、もちろん私の不義ですから、責任は取らせていただきます。貴方が手掛けている事業は、財産としてお持ちいただければと思いますし、慰謝料もお支払いしますから」
「そんな……君の実家には、結婚する時に散々援助してもらったのに」
「それはお互い様でしょ? こちらだって、優秀な貴方のおかげで事業展開に成功したのよ。貴方は最高の婿殿だったんだから。胸を張って、受け取るべきものを受け取ればいいんです」
「……君はそれでいいのか?」
いつかとは逆の問いに、私は笑顔で答える。
「当たり前でしょう。でなきゃ、こんな気持ちのいい空の下で、サンドイッチを楽しむことなんて出来ないわ」
……私の声は掠れていないはず。きっと大丈夫なはず。今日は、大好きなマスタードも我慢したんだから。
22歳になった今、お姫様の可愛らしさなんて、もうどこにもない。女王様みたいに貫禄たっぷりの笑みをつくると、抜け殻の王子様へ最後の言葉を放った。
「もう書類は揃えてあるから。サインしたら、なるべく早めに出て行ってくださいね。……五年間、どうもありがとうございました」
一人になった庭で、三つ目のパンに手を伸ばす。マスタードをたっぷり塗って噛っていると、離れた木陰に居た護衛兵がやって来た。
「やはり、私の出番はありませんでしたね。すんなり話がまとまってよかった」
「……そうね」
もし夫に、誰を好きになったのだと訊かれたら、この彼に恋人役を演じてもらう予定だった。幼なじみであり、護衛兵として常に傍にいた男。恋仲になるにはもってこいだから。……すんなりまとまりすぎて、結局そんな必要はなかったけれど。
「あーあ、また口を汚して。あんなに頑張っていた淑女はどこにいったんですか?」
お行儀悪くペロッと口元を舐めていると、彼は手袋を外し、親指の腹でごしごしとソースを拭ってくれた。
子供の頃と同じ、彼の粗野な温もりに、舌に残るマスタードの辛味が増していく。
「私……恋していただけなの。自分のことばかりで、彼の表面しか見ていなかった。そのせいで不幸にしてしまって……少しも愛してなんかいなかったんだわ」
草木の明るい緑が、じわりと滲む。
「……お前はちゃんと愛していたよ。だからこんな風に彼を手放すことが出来たんだ。ちゃんと愛していたんだよ」
頭の上にポンと手を乗せられ、涙が溢れてしまう。子供みたいにぐりぐりと撫でるものだから、気が緩み止まらなくなってしまった。
「仕方ないな」
彼はふっと笑うと、傍の木々に手をかざす。すると若い緑だった葉が、黄色や赤、橙色や茶色へと、鮮やかに色を変えていく。
植物の四季を移す魔力。昔から喧嘩した時は、こうして周りを、私が一番好きな秋の色に変えてくれた。
「……綺麗」
「お前だけだよ。こんな何の役にも立たない魔力を喜んでくれるのは。せめて麦や果実を実らせるほどの力があれば、腹も膨れるんだけどな」
彼は私の隣……さっきまで夫が居た場所ではなく、反対の芝生の上に直に座ると、自分で染めた木々を見上げた。
「役に立たなくなんかないわ。大好きな季節に何回も会えるなんて……最高に素敵な魔力よ。秋の色を見ているとね、同じ色の自分も好きになれるの」
「確かに、お前は秋みたいだな。赤い髪も、茶色の瞳も……すごく綺麗だ」
さっきとは違う熱を帯びた手が、私の頬をしっとりと撫でる。初めて感じた男性の欲情。驚き、彼の黒曜石みたいな瞳を見上げれば、私を映して苦しげに揺らいでいた。
それは優しいでも、親切でも紳士的でもない。
「あの……」
瞳の揺らぎはそのままに、彼はニカッと白い歯を見せる。「馬の色にも似てるしな」と悪戯っぽく言いながら、戸惑う私の鼻をつまんだ。
「馬……もうっ!」
ぽかぽかと殴るも簡単に拳を掴まれ、熱い胸にぐいと抱き寄せられた。
彼の鼓動がどくどくと流れ込み、空っぽの胸を満たしていく。疼いていた傷もふっと楽になり、自然と広い背に手を回していた。
「私……今度はちゃんと愛したい。ちゃんと愛して、幸せにしてあげたいの」
「……いつまででも待つよ。俺はどこにも行かないから」
まだ暖かな青空に舞う、鮮やかな秋色の葉。
ときめく景色の中で、私は、ずっと傍にあった愛と向き合っていた。
ありがとうございました。