極楽の番人・帝釈天
「それで、人の子は大丈夫だったのかい?」
スカートのような裾の長い白い衣服を身に纏った、女性のようなしなやかな四肢をした男性こと、帝釈天はゆったりとした椅子に腰を下ろして目の前にいるヤタにそう訊ねる。彼の右手の人差し指と中指の間には、麟が飛ばした手紙が挟まれヒラヒラと弄ばれていた。
この日、ヤタが極楽を訊ねてきていたのは、幽世に殺到している魂たちの概算数の報告のためだ。その報告に来て早々、そう問いかけられ思わず怪訝な顔を浮かべてしまう。
「……はい。無事に保護出来ました」
じっと見据えるヤタの冷ややかな視線を受けながらも、帝釈天はニコニコと微笑んでいるだけで動じる様子は見られない。やがて帝釈天は手にしていたその手紙を無造作にくしゃりと手の中で丸めると、すぐそばに控えていた従者の手に手渡す。
「ご苦労だったね。それにしても、その子の現世での様子は凄かったみたいだねぇ? 次から次へ人間の魂が押しかけて幽世も大変だろう? 麒麟も苦労が絶えないよねぇ?」
ヤタの表情がピクッと僅かに動き、握り締めていた手を固く握り込む。
彼は帝釈天の事が最初からあまり好きではない。どちらかと言えば避けて通りたい人物だった。帝釈天のこの粘着質な物言いがヤタにはどうにも合わない。神経を逆なで、いちいち鼻に付くような物言いばかりをする話し方に、こめかみに血管が浮き上がる。それでも、ここで騒ぎを起こすことは出来ない為ぐっと堪えた。
「……そこにおいては、我々の管理不足です」
「そう。これは怠慢だよ。麒麟は甘過ぎるし優し過ぎる。あと僕の化身を勝手に使われたら堪らないよ。天照も増長天も、それぞれに仕事があるわけだしさぁ? それに加えて部下の失態? ほんと、君たちのおかげでこちらまで面倒なことになってるんだ。もう少ししっかりしてくれないと困るよ」
ヤタは、許可が下りるならばすぐにでも掴みかかってしまいそうになる衝動を堪えるのが精一杯だった。同時に、早くこのネチネチとした話から解放されたいと思う。
そんなヤタの様子をまるで楽しんでいるかのような帝釈天は、口元に笑みを浮かべてはいるものの真面目な話を続ける。
「いいかい? 極楽浄土とは言え、みんな楽をしているだとか、全員が優しいだとか思わない方がいい。地獄だろうと極楽だろうと、最終的に魂たちが辿り着くのは輪廻転生。新しい命さ。その新しい命を与えるに相応しい魂を磨き育てるのが我々の仕事だと言う事を忘れたわけじゃないだろう? もうすでに手一杯だと言うのに、これ以上余計な仕事を増やさないでくれ」
彼の言いたいことは分かる。言っている事が間違いではないだけに、余計に腹立たしい気持ちも否めない。うっかりにも「あれは不可抗力だった」「まさかあんなことになるとは思っていなかった」、などと言えば更に「そんなのはただの言い訳だ」だの「そこまで予測をしておかないその杜撰な仕事がこういう事を招くんだ」などと、くどくどとした厭味ったらしい説教が更に降って来るのは目に見えているだけに、こちらに反論の余地はない。つまり、黙っていた方が早く話が終わるのだ。
「肝に銘じ、麒麟様にもお伝え致します」
「あぁ、そうしてくれ。しばらくの間幽世は騒がしいだろうが、無事に落ち着くことを願っているよ」
「はい。失礼します」
唸るかのように低い声で手短に答えると、ヤタはようやく解放されると安堵の気持ちで、くるりと踵を返し一歩足を踏み出す。一刻も早くこの場から立ち去ろうとする背中に、帝釈天は再び声をかけた。
「あぁ、待て待て。まだ話は終わってないよ」
思いがけず呼び止められ、ヤタは露骨なほどに不機嫌な顔で振り返る。その顔を見て一瞬目を丸くした帝釈天だが、すぐにニンマリとほくそえんだ。
意地が悪いのか、はたまた面白がられているのか。いずれにしても彼の表情からは性根の悪さが出ている。
「そんな顔して、やだねぇ。あれか、麒麟が優し過ぎるから余計にお付きのガラが悪くなるんだろうな」
「……ご用件は何ですか」
今すぐにでも喉笛を嚙み切りそうな勢いで聞き返した不機嫌なヤタに、帝釈天はひょいと肩をすぼませた。これ以上からかうと痛い目をみそうだ。そう思ったのか、帝釈天は先ほど迄の表情はどこへやらすっと真顔になり八咫烏を見据える。
「麒麟が拾って来た人の子のことなんだけどな」
「ひな、ですか……?」
「ふぅん。ひなって言うんだ? まぁそれはともかく。察しのいいお前はもう感付いてるだろう? その子が抱えている危険因子が誰のものなのか」
「……」
その言葉に、ヤタは眉間の皺を深めた。
帝釈天は腕を組み、椅子の背もたれに深くもたれ掛かる。その表情はそれが誰なのか当てて見ろ、と言わんばかりに笑っている。
「阿修羅……ですよね」
「そう。あれは間違いなく阿修羅のものだ。以前お前達の所にいた女性がいただろう? あの、麒麟の妻になる予定だった……」
「雪那ですね」
「そう、その女性。ひなはあの二人の子供だと言う事ももう察しがついているな?」
「はい」
帝釈天は極楽の番人でありながら全ての世界を監視する役目も担っている。今どこでどのような事が起きているのか、大まかな部分にはなるが把握出来るよう水鏡を通じて見知っている事が多い。
「少し前、閻魔からも連絡があってな。地獄の果て……閻魔が管理している洞窟の奥に阿修羅は監禁されているんだが、何か動きがあったらしい。どうやらやつは、何かを察知した可能性がある」
「……それは」
「お前たちが対峙した、ひなの中にある阿修羅の力が具現化した黒蛇。あれの残骸から奴は娘の存在に気付いたのかもしれない」
いつになく真面目な顔で話をする帝釈天に、ヤタの表情が硬くなっていく。やはり、阿修羅は死なずにまだ生きているのだ。
「阿修羅は、先の対峙で死んだと思っていましたが……やはり」
ヤタがそう言えば、帝釈天はふっと鼻先で笑った。
「あいつは殺したところで死にはしない。いつもギリギリのところで生きることを定められた男だ」
「……!」
驚いた表情を見せるヤタに、帝釈天は澄ました顔で彼をみやる。その表情からは何の感情も読み取れない。
「なぜか分かるか? あれはな、そうするよう自ら呪いをかけたんだ。その理由は全て……《《私を消すため》》だ」
「そ、それでは……」
「奴はまた動き出す。今はまだすぐに動き出す余力はないはずだ。だが、奴は必ず娘に渡った自分の力を取り戻すため、そして確実に私を殺すために、《《麒麟を狙い》》に動き出すだろうな」
「……」
「以前の対峙が再び起こる可能性は大いに考えられると言う事だ。私の妻も非常にそれを懸念している。……八咫烏、ひなと麒麟の守護を徹底するように」
「……御意」
表情硬く冷汗を流しながらヤタが頭を下げると、帝釈天はパッと表情を柔らかくして、砕けたような物言いに戻る。
「ま、堅苦しい話はこのくらいにして。とにかくこれ厄介事が増えないように日々の業務を怠らないよう、しっかり伝えておいてくれよ」
「……」
ヤタは最後の最後でネチネチした説教をくれた帝釈天をじろりと睨み見てから一礼すると広間を後にした。
「おお、怖いねぇ……。まぁ、あれぐらい気性が荒いのが傍にいないと、麒麟を守ることは難しいかもしれないな」
「帝釈天様……いい加減八咫烏をからかうのは止められた方がいいと思いますが?」
八咫烏が立ち去ったのを見計らい、黙って傍に控えていた少年のような顔立ちの召使が呆れたように呟く。そんな召使を見て、帝釈天はひょいと肩をすくめた。
「いや、ついな、つい。あいつをからかうと面白いからさ。水蓮だってそう思うだろ?」
「……いい趣味してますね」
「誉め言葉として受け取っておくよ」
「……」
皮肉のつもりで言った言葉も、帝釈天にはまるで響いていない事に水蓮と呼ばれた少年は、長い溜息を吐き出した。彼にとって帝釈天は主ではあるのだが、あまりの悪趣味に呆れて物が言えなくなっている。
極楽の番人としてこの性格はどうかと思うと、内心思ってしまうのは否めない。
そんな水蓮をよそに、帝釈天は椅子の肘置きに肘をついて笑みを消してふぅっとため息を吐く。
(冗談はともかくとして、まだまだ厄介な事が起こりそうだな……。これ以上の面倒事にならなけりゃいいが……)
目を細め、帝釈天は遠く澄んだ空の青を見つめた。




