予感、そして不穏
「……八咫烏」
黙り込んだまま、麟が去った方向を見ていたヤタの背後から、別の声がかかる。
ヤタはそちらを振り返ることなく、静かに口を開く。
「……あの時と同じことが、もしかすると、もう一度起こるかもしれない」
「そういった予感は、嫌なことによく当たるものだわ」
暗がりから現れたのは獅那だった。
「現世でひなの力と対峙してきた。ここに残していった力の余波も鑑みて、あいつの持っている力は、阿修羅の同等」
ヤタの言葉に、獅那もまた神妙な顔つきで静かに頷き返す。
「なんとなく、そうだとは思ったけれど……やはりそうだったのね」
ヤタはゆっくりと獅那を振り返ると、互いの表情は険しく、緊迫感に染まっている。
「ただ、以前俺たちが対峙した時より、半減していたように思う」
「半減?」
「……それにはおそらく、雪那が関係しているんだろうな」
雪那の名前に、獅那は目を細め、僅かに視線を下げた。
獅那は、かつて彼女の世話をしていたことがある。だからこそ、胸が痛い。
体の前で組んだ手首をやんわりと握りしめる。
「私、思ったの。ひなさんは、雪那さんの血を引いているんじゃないかって……」
獅那の言葉に、ヤタも頷き返す。
思い当たるところは幾つもあった。笑い方、気の使い方、言葉の選び方……。細かいところは違えど、どれもが雪那のものと酷似している。
「それは俺も感じていた。ひなと雪那は共通点が多い」
「麒麟様も、もうお気づきよね?」
「おそらくな……」
ヤタは腕を組み、眉根を寄せたまま短く息を吸い込む。
彼の胸をざわつかせる理由が、まだある。
「……阿修羅のあの力は、何もなくして他へ継承されることはない。そう考えると、あの時にはわからなかった一つの事実に突き当たる」
彼の言葉に、緊張と沈黙が二人の間に落ちる。そしてややあって、獅那が沈黙を破った。
「……雪那さんは、阿修羅の子供を身籠っていた、ということね?」
「そうだ」
雪那は、自分たちに何も告げることなく突然姿を眩ませた。
仮にその時、彼女自身も身籠っていることに気付いていなかったとしても、いなくなる理由として十分に考えられる。
雪那があの時、命を賭してでも幽世から出て、現世に身を隠したのだとしたら、ひなが現世にいたことも納得がいく……。
獅那はふっと瞼を伏せ、辛そうに表情を曇らせる。
「とても惜しい方だったわ。麒麟様の奥方として迎えられることを、とても喜んでいらしたのに……」
「あんなことさえなければ、な……」
幽世にいた雪那が、本来関わることはなかったはずの阿修羅と接点ができたのか。
――雪那さんが、足を滑らせて地獄門へ転落してしまいました!
当時、血相を変えて屋敷に駆け戻ったマオの報告にざわついたのを覚えている。
――私がお傍にいながら、お守りできず申し訳ありません……。
マオは麟やヤタの前で泣き崩れながら謝罪をしていた。その時の麟は、愕然として言葉もなく立ち尽くすことしかできなかった。
失うことの怖さを、麟だけじゃない。ヤタ自身も身に染みている。
「さっきから、嫌な予感が拭えねぇんだ。もし、阿修羅が再び動き出すことがあったとしたら、また麟の命を取りにくるだろう。それに、ひなだって……」
「……」
ヤタは浅くため息を吐いて視線を他へそらす。
ただの懸念で終わってくれるなら、これ以上ありがたいことはない。ただ、どうしてもヤタには再びやってくる災いの予感がしていた。
「……また、同じことが繰り返されるのはごめんだぜ」
***
深夜二時。
麟とヤタが香蓮と対峙したテレビ局の更地に、大量に残された黒い血痕がじわり……と地面に吸い込まれ、跡形もなく消え去った。
それは、重油のようにたっぷりと時間をかけて地面の中に浸透していく。
ゆっくり、ゆっくりと、地層深くまで染み込み、やがて一滴の雫へと凝縮されていく……。
「……」
暗い洞窟の奥、体中を白い布で巻かれ護符を張り巡らされている男がいる。
黒い髪は伸び切り、体は浅黒く瘦せこけている。
小さな椅子に座らされたままじっとしていたその男が、何かに気付いたように僅かに顔を上げた。そして、ゆっくり頭をもたげると天井を見上げ大きな口を開ける。そこへ黒い血の雫が一滴、零れ落ちて男の舌先を僅かに湿らせる。
「……」
男は味わうように舌なめずりをし、長く深いため息をこぼす。
「……これは傑作だ。ぜひ、取り戻しにいってやらねぇと」
地を這うように低く、くぐもった声が洞窟内に響き渡る。舌先から得た情報をじっくりと噛み締めた後、ふいに肩を震わせ笑い始める。そして堪え切れなくなったのか、天を仰いで大きな声で笑い始めた。
かっぴらいた瞳は赤黒く、縦長の瞳孔が怪しく光る、ひとしきり笑った後、男は虚空を睨みつけたままゆっくりと息を吐きながら口元に不気味な笑みを浮かべる。
「待っていろ……。俺の大事な大事なひな。パパが迎えにいってやるからな」
男は、ふつふつと笑い続けていた。
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