不穏
深夜2時。
麟とヤタが香蓮と対峙した、崩壊したテレビ局の更地に大量に飛び散った黒蛇の黒い血液がじわりと地面に吸い込まれて行く。それは、重たい重油と同じようにたっぷりとした時間をかけて土の中に浸透していくのだ。地面に吸い込まれた血はゆっくりゆっくりと深く深く、地層深くまで染み込んでゆき一滴の雫へと凝縮されていく……。
「……」
暗い洞窟の奥、体中を白い布で巻かれ護符を張り巡らされている一人の男がいた。
黒い髪は伸びきってボサボサで、痩せこけている。小さな椅子に座らされたまま身動きが取れずただじっとその場に身動き一つせずにいるその男の身体が、一瞬ピクリと動く。そしてゆっくりと頭をもたげると、天井を見上げ大きな口を開けた。黒い血の雫が天井から一滴、零れ落ちて男の舌先を僅かに湿らせる。
男はペロリと味わうかのように舌なめずりをした後不敵にほくそ笑んだ。
「……そうか。なるほどねぇ……」
1人そう呟くと、肩を震わせ笑い始める。そして笑いを堪え切れなくなったのか天を仰いで大きな声で爆笑し始めた。
「こりゃぁ……たまんねぇなぁ……!」
かっぴらいた瞳は黒く落ち窪み、ただただ笑い転げる男の姿は異常そのものだった。
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「ひな。今の内に君に伝えておこうと思う」
「はい」
体調が落ち着くころ合いを見て、麟はひなを呼び寄せた。
麟は、隣に座るひなを見やりながら真剣な顔で語りかけると、ひなもまたそんな彼の事を見上げながら真面目な顔でこくりと頷き返す。すぐ傍に置いてある琥珀糖の入ったガラス瓶を手に取った麟は、それを彼女の前に差し出した。それを見たひなは目を輝かせ、色とりどりの澄んだ色を放つ琥珀糖をまじまじと覗き込む。
「わぁ、綺麗! これって宝石?」
「そう見えるかい? でも、これは宝石ではないよ。これは琥珀糖と呼ばれる菓子だ」
「お菓子?」
ひなは瓶を両手でそっと持ち上げてみる。
陽の光を受けてキラキラと光る琥珀糖は、どこからどうみても宝石に見えてしまう。だが、瓶の蓋を開ければそれが正真正銘の菓子であることがよく分かった。
甘い香りが鼻先を掠め、その中にも果実のようなフルーティな香りも混ざっている。
「食べてもいいの?」
「もちろん、その為の物だからね。ただ、これには使い方があるんだ」
「使い方?」
「まず、先に教えておこうか。この菓子は、幽世で作られたもの。幽世で作られる菓子は4種類あって、それぞれ違った効果を持っている」
まだひなに話していない話を分かるように説明する。
琥珀糖以外に餡子玉、落雁、金平糖の三種類があると言う事。そしてそれらは、この幽世に棲む一部のあやかし達には必要不可欠な物であると言う事。
それらの話を聞いていたひなは目を瞬かせ納得したように呟いた。
「ここのお菓子は、現世で言うところのお薬と同じなんだね」
「そう。だから使い方を間違えれば副作用も出るし、悪影響を及ぼすこともある。それと、心身の病気とは全く違うものに作用するものだと言う事を覚えておいてほしい」
「そうなんだ。じゃあ、この琥珀糖にはどんな作用があるの?」
「制御だ」
そう言い置いて、麟はひなに体ごと向き直った。そして、彼女を真っすぐに見つめながらゆっくりと口を開く。
「おそらく、ひなはその力が暴走するきっかけももう分かっているんじゃないか?」
「うん……」
どのタイミングで暴れ出すのかは何となく自分でも分かっていた。それは、自分に対して何か被害が起きたり強いストレスがかかったりした時だ。自分の中に、今でも僅かな隙を見つければすぐにでも暴れ出しそうな危うさを感じている。それを揺り起こさないように慎重になっているのは否めない。
「一度その力が解放されると、それまで何ともなかった事で暴走することがこれから先あるだろう。残念ながら、解放された力はもう消すことは出来ない。だから君はその力を上手く制御する術を見つけなければならない」
麟はそう言って琥珀糖の一つをつまみ上げ、それをひなの手に持たせた。
「その為に、しばらくはこの菓子を使うといい。これを使わなくても大丈夫になるまではね」
「……うん」
自分が例え知らない人であっても傷つけることは嫌だった。それでも自分ではどうにもできなくなった時のことを思うとどうしても不安になってしまうのも否めない。
不安に押し潰されそうなひなに、麟はそっと彼女の頭に手を置き、ひなが琥珀糖を載せている手を包むように握り返した。
「ひな……心配はいらない。私も八咫烏も君の傍にいる。もし上手くいかなくても気にしなくていい。上手くいかなかった時は必ず助けるよ。そして何より……必要以上に怖がるな」
「麟さん……」
その言葉に嘘が無い事はよく分かっている。同時に小さくズキンと痛んだ。
ここで生きて行くためにも、自分の力だけで上手くコントロールできるようにならなければいつまで経っても麟に迷惑をかけることになってしまう事になるだろう。
そう思うとひなは頷くしかなかった。
「分かった。やってみる」
しっかりとした眼差しを持ち、見つめ返してくるひなに麟はふっと肩から力が抜けるのを感じた。
「慌てる必要はないし、気負う必要もないんだ。自分のペースで出来る事から始めればいい。現世と違ってここには時間がたっぷりある」
微笑んでそう言う麟に、ひなも小さく笑いながら頷き返した。
「うん。ありがとう、麟さん」
「じゃあ、私はそろそろ八咫烏たちの所へ行くとしよう。何かあればシナに伝えてくれれば、私に分かるからね」
「はい」
やんわりと微笑んで頷くと、麟はポンポンとひなの頭を優しく叩いて立ち上がる。するとすぐさま傍に控えていたシナが麟の新しい羽織を手に傍に近づいて手伝いを始めた。
颯爽と羽織を着込んだ麟はもう一度ひなの方へ振り返ると、ひなは笑って手を振った。
「麟さん、行ってらっしゃい」
「……あぁ、行って来る」
ふわりと目尻を緩ませて微笑むと、麟はその場を後にした。
「コントロールかぁ……」
麟が仕事場に行ってしまった後、ひなはその場にコロンと横になり手の中にある琥珀糖をじっと眺めた。水色の琥珀糖は、陽の光に照らされてキラキラと輝く。
「……凄く、大変な時だったなぁ……」
ひなはふと香蓮が自分の体を乗っ取っていた時の事を思い出した。
今考えてみてもあの時は異常だった。彼女の感情一つで日本のどこかが被災レベルで荒れるなど、空恐ろしい。それだけの強い力を持っている事が怖くなってしまう。
「それにしても、香蓮は何でこの力を自在に操る事が出来たんだろう」
彼女はいつもイライラしていた。常に負の感情に取り巻かれ、自己欲を満たす事だけに必死になっており、思い通りにならなければ怒鳴り散らし、気に入らなければ壊せばいいと安直な考え方に偏っていた。人を蹴落とす事に一切の躊躇いが無く、むしろその事自体に優越感を感じているような人だった。常に自分が一番でなければ気が済まない、自己愛が強く我侭で傲慢な人。近くで見ていたからよく分かる。そして一番に感じた事は、彼女と自分は真逆の人だなと思っていた。
そこまで考えてひなはふと思い当たる。
「……もしかして、香蓮は元々の性格が悪かったから、あの力と相性が良くて制御が出来てた、とか……?」
そう考えて「いやそれはないだろう」と訂正しようとするが、ひなにはあって香蓮になく、逆に香蓮にあってひなにないもの、と考えるとそこにしか思い至らない。
「……って言っても、私が性格いいかなんて保証も無いんだけど」
自分で言って笑ってしまう。
「でも、もしこの考えが当たっているとしたら、制御するために性格を悪くしなきゃいけないのは嫌だな。だって、そんな事したら麟さんにもヤタさんにも嫌われちゃうもの」
長い溜息を吐いてひなはぎゅうっと自分の体を抱きしめる。
「私はほんとに誰も傷つけたくない……。香蓮みたいに自分の感情だけで皆を傷つけるなんて、そんなの絶対無理……」
ふと胸の中がザワザワしてくる感覚にぎゅっと目を閉じる。
ダメだと分かっていても、油断すればどす黒い闇が表に飛び出して来そうな気配に抗えそうにない。そうこうしている内にカタカタと周りの物が小刻みに震え出し、立てかけてあった物はぱたりと畳の上に倒れ始めた。
その時、肩に誰かの手がぽんと置かれ、ひなは固く閉じていた瞳をパッと見開いた。視線を上げるとそこには自分の頭元に正座していたシナの姿がある。
シナはぽんぽんとひなの肩を優しく叩き、「大丈夫だよ」と優しく背中を摩ってくれていた。
「シナちゃん……」
まだ胸の奥のざわめきは収まらないが、シナの姿を見ると僅かに気持ちが落ち着く。ひなは手の中に残っていた琥珀糖をぱくりと口に含む。その瞬間、胸の奥の不安と今にも飛び出して来そうな黒い力がみるみる縮小していくのを感じた。奥に閉じ込められただけで、まだジリジリと燻っているのは分かるが暴れ出す前で良かったと胸を撫でおろす。
「はぁ……」
ひなは発作を起こした後のような気怠さを覚えながら、ゆっくりと上体を起こす。するとシナは慌ててその体を支えるように手を差し伸べてきた。
「何で私にこんな力があるんだろう……。あんまり考えた事、今までなかったけど……」
これがなければ苦労することもなく、もっと違った普通の人生を送れていたに違いないと言うのに……。それでも、この力があったからこそ麟たちに出会えた。だから否定をする気は今はもうない。だが、もしかしたら自分のルーツを知ることで何か分かることがあるかもしれないと思うと、ひなはぎゅっと両手に拳を作る。
「そう言えば私、お母さんの事よく知らない。知ってるのは、産んですぐにいなくなっちゃったって事と……ずっと愛してくれているってこと、かな」
夢に見た女性は、間違いなく母親だ。生まれたばかりのひなをとても大切に抱きしめてくれていた。何より深い愛情を感じられた。
『私の罪は私のもの。あなたには幸せになって欲しいと願っているわ。だからどうか、目覚めないで……』
夢の中の言葉をこんなにもハッキリと覚えているとは不思議なものだが、母親が言っていたこの言葉にはいくつか引っかかる。
「私の罪は私のもの……。だからどうか、目覚めないで……って、どういう意味なんだろう? たぶん、目覚めないではこの力の事なんだと思うんだけどな」
夢で母親が触れていた右目に実際に触れてみるが、やはりよく分からない。鏡で見てみても、そこにあるのは普通の目だけだ。
ひなは長い溜息を吐いて、何気なく外の景色に視線を向けた。
7/17 ここまで改稿作業済




