夢じゃない
ひなが目を覚ましたのは、それからしばらく経ってからだった。
体を布団の上で丸め込んだまま薄っすら目を開く。
顔を上げようとして、ひなは一瞬顔を顰めた。
……頭が痛い。目元も熱を帯びて腫れぼったさがある。
ゆっくりとした動作で起き上がると、すぐ傍にこちらに背を向けて座っている麟の姿があった。その背中を見つめ、ひなはほっとする。
(夢じゃなかった……)
ひなは自分が握りしめたままの麟の羽織に気付き、それを手にしたまま麟の傍に静かに近づき、麟の前に回り込んだ。
目を閉じ、柱に寄りかかるようにして休んでいる麟の顔を覗き込む。
「麟さん……約束、守ってくれてありがとう」
そっと手にした羽織をその肩にかけようと膝立ちになって手を伸ばすと、眠っているはずの麟の腕がふいに伸び、ひなの体を抱き寄せた。
「!?」
「……もう、大丈夫なのかい?」
抱きすくめたまま薄く目を開いて見つめてくる麟に、自然の顔に熱が集まるのを感じた。
「り、麟さん、起きてたの?」
おそるおそる訊ねると、麟は笑いながら腕の力を緩める。
「少し前から起きていたよ」
「……」
ひなは麟の前に腰を下ろすと、彼はひなの手を握り返す。
「……おかえり」
静かに囁く声に、ひなの鼓動が僅かに速まる。まっすぐに見つめ返せず、ぎこちなく視線をそらした。
「う、うん。ただいま……」
胸の奥が締め付けられるような、むず痒い感覚がある。
ひなは、この感覚を理解していた。香蓮を通して、未経験だったことを経験として身に着けていた。
そらした視線を一度だけ麟に戻すが、またすぐにそらしてしまう。
「ひな」
「は、はい!」
名を呼ばれると鼓動が大きく跳ね、顔に集まる熱が更に熱くなる。
視線を泳がせながら、ちらりと麟を見る。すると今度は彼が僅かに視線を下げた。
彼の視線はどこか暗い。
「迎えに行くのが遅くなって……すまなかった」
その謝罪に、ひなは目を見開く。罪悪感を抱いている麟の表情に、胸が痛んだ。それは、ひなの胸に芽生えた甘い疼きから、突き刺すような鋭い疼きに変わり、ひなもまた視線を下げて小さく頷き返す。
「……うん。ほんとだよ」
力なく答えると、麟の手が僅かにぴくりと動く。
ひなは嘘や虚勢を張るつもりはなかった。麟には本音で話せる。今まで築いた関係が、長く離れていたとしてもひなの中に根付いている。
ひなは膝の上に置いた手を軽く握りしめた。
「でもね、謝らなきゃいけないのは、私の方」
下げていた視線を上げる。それにつられるように彼の視線も上がり、互いに真正面から見つめ合うと、少しだけ緊張をしてしまう。
一度言葉を呑み込んでから、ひなは口を開いた。
「麟さんもヤタさんも、約束を守ってくれたのに、先に諦めていたのは……私の方だった。二人を、信じ切れてなかったの……。だから、ごめんなさい」
ひなは小さく頭を下げる。その彼女の本心に、麟は表情を曇らせた。
「君の置かれた状況を思えば、仕方がなかったことだ」
「ううん。仕方なくない。だって、私のことなんかもう忘れちゃったんだって、勝手に決めつけたんだもん」
ひなは表情を曇らせ、軽く唇を噛んだ。
麟は、ひなの手を握っている手に力を込める。
「私たちのことなら案ずることはないよ。それに……そもそも君を忘れるなんて不可能だ。現世と幽世で時間の流れが違うことはわかっているだろう?」
そういって微笑む麟の表情を見つめ、ひなはゆっくりと頷き返す。
「そう、だね……そうだよね……」
「それでも、時間がかかってしまった分、君はすっかり大人になってしまったね」
空いている方の手で麟はひなの頬に触れる。顔に熱を孕んだひなは照れたように笑う。
「現世に戻った時点で、もう五年が経ってたみたい。それから麟さんたちがもう一度きてくれるまでに三年が過ぎてて……」
幽世で過ごす時間と現世の時間の差を、身をもって知ったひなは、今になってその重みに体が悲鳴を上げていることに気が付いた。
急激な体の成長に伴い、現世ではあまり感じなかった体が軋むような感覚。それでも、子供のままの姿ではなく、大人になった自分で戻ってこられたことを、ひなはどこか喜んでいた。
「……私、もう十八になるよ」
はにかんだように笑うひなに、麟は一瞬息を呑んだ。
重なる面影。それは一つになり、ひなという女性一人に固定される。それまで胸のどこかでわだかまっていたものが解けていく感覚を感じる。
麟は小さく息を吐くように笑いながら、顔を伏せた。
「私には、君が必要だ。ずっと傍にいてほしいと思っている。……君も、そうだといい」
麟の、握りしめている手が僅かに震えている。それを見たひなは彼の気持ちが嬉しく、胸をくすぐった。
「もちろん、ずっとここにいる」
その言葉に、麟は目を見開いてひなを見る。そのあまりにも意外そうな顔をを浮かべる麟に、ひなは笑ってしまう。
「そんなに意外?」
「い、いや……」
慌てる麟に、ひなはくすくすと笑った。
「私、前からずっと、ここに居たい、っていってたでしょ? それに……私はあっちにいたら、危ないでしょ?」
「……」
ひなのその言葉に、麟は目を見張った。ひなは、笑みを消すと静かに口を開く。
自分の置かれた状況を、冷静に受け入れている。怖がるのでもなく、泣くのでもない。ただ淡々と、理解していた。
「香蓮が私の中からいなくなって、力を制御できるものが無くなってしまったんだ。変な話だけど、香蓮がいたから制御できてたの」
ひなは自分の胸に手を当てる。
冷静さとは裏腹に、波立っている胸の奥の闇。何かのきっかけで、いつでも暴走する危うさを感じていた。
「私の力が原因で、たくさんの人を苦しめてしまったから……居場所なんかあるわけないしね。だから、逃げるのはこれが最後にする」
ひなは挑むような眼差しで麟を真っすぐに見つめる。
「私、もう逃げないって決めたの。ほんとは怖いけど……この力も、これからのことも、全部ちゃんと受け入れる。自分だけじゃなくて、ここにいるみんなのために」
強い意志を向けてくるひなに、麟は目を細めた。
ひなの指先が僅かに冷たくなっていることに気付き、麟は彼女の覚悟を目の当たりにする。
「でも……ここでもし、また力が暴走したら、麟さんは私を止めてくれる?」
不安そうな表情は、ひなの素直な感情だ。そんな彼女に対して、麟が言える言葉は一つだけ。
「もちろんだよ。何があっても私が止めるし、君を守る。必ずだ」
「……うん、ありがとう」
ひなは望む答えをもらえたことで、ようやく肩から力を抜いた。
体と心の不一致に伴い、ひなは再び眠りにつく。
彼女を布団に寝かせ、麟はすぐに部屋を出た。すると、先に仕事に行っているはずのヤタが離れを繋ぐ渡殿の傍に立っているのが見えた。
麟と視線が重なったヤタは静かに廊下の奥に消えていく。麟はそんな彼を追いかけた。
建物の影になる、あまり人の通らない廊下の片隅で足を止めたヤタは、いつになく硬い表情で麟を振り返った。
「……麟。あんたがひなを拾ってきた日、いってたよな? ひなは危険な因子を持ってるって」
声を落とし、歯に衣着せぬ言葉に、麟は目を細めて頷き返した。
「気付いたか」
そう問えば、ヤタは深いため息を吐きながら一度視線を外し、眉間に深い皴を刻む。
「あぁ……」
ヤタは視線を外したまま目を眇める。
あの目を思い出しただけでも、気分が悪い。何より、あの力の凶暴性……。そのどれもを実際に身に刻んだのは、これが二度目だ。意識せずとも、背筋が寒くなる。
「あの目は、危険だ」
ヤタはそう言い切り、拳を硬く握りしめる。
射貫くような鋭さを持ったまま、ヤタは麟を見る。その一瞬の間、二人の間に冷たい沈黙が落ちた。張り詰めた緊張の糸が痛みとして肌に感じられる。
「……だがな、俺は守ると決めた」
その言葉に、麟は驚いたように目を瞬く。
「八咫烏……」
「あんたが、ひなを見染めたんだ。なら、俺はそれに従う。そこに二言はねぇ」
ヤタはそういうと、小さく肩をすくめて腰に手を当てた。
態度は緊張感を解いたが、彼の視線は相変わらず鋭さを消していない。
「ただ……嫌な予感が拭えねぇのも事実だ」
「……ひなに関してか」
ヤタは僅かに視線を下げる。
「そうだけど、そうじゃねぇ……」
「?」
先ほどとは一転、なんとも歯切れの悪い物言いをするヤタに、麟は不思議そうな表情を浮かべる。
――アタシハ、間違エテナンカ、ナイ。マダ、諦メテ、アゲナイ。
香蓮が消える直前に呟いた言葉が、ヤタの耳にいやに残っている。それは、何かとんでもないものを呼び起こす、まじないのようにも聞こえた。
あれを聞いて以降、ずっとヤタは得も言われぬ不安感に、胸をざわつかせている。
「八咫烏?」
ふいに麟に呼ばれ、ハッとなったヤタは顔を上げる。
「あ、あぁ。そういや、マオがあんたを呼んでたぞ」
「……あぁ、わかった」
麟はヤタの様子を疑いながらも肩に一度手を置き、踵を返して離れへと向かっていった。
ヤタは、去っていった麟を見送りながら、無意識にも刀を強く掴んでいた。




