予感
麟たちを部屋に置いて、廊下を進んでいたヤタがふと足を止めた。視界の先には誰もいない。だが、ヤタは振り返る事も無くそのままの姿でおもむろに口を開く。
「……あの時と同じ事が、もしかするともう一度起こるかもしれない」
その言葉に応えたのは、彼の背後から付いて来ていた獅那だった。
「やはりあなたもそう思う? そう言った予感は嫌な事によく当たるものだわ」
「現世でひなの力と対峙して来た。あいつがここから連れ去られる時に残していった力の余波も鑑みて、あれは阿修羅の物で間違いないだろう。それは麟も気づいている」
「何となくそうだとは思ったけれど、やはりそうだったのね」
ヤタは獅那を振り返ると、互いの表情は非常に硬いものだった。
「あぁ。ただ、確かに強力だったが以前俺たちが対峙した時の阿修羅の力より、半減していたように思う」
「半減?」
「それにはおそらく、雪那が関係しているんだろうな」
雪那の名前に、獅那は僅かに視線を下げた。
かつて彼女の世話をしていたのもまた獅那だった。優しく聡明で、芯のある女性だったのをよく覚えている。良く笑い、式神である自分のことも良く気遣ってくれる温かい女性だった。そんな女性が、主である麒麟の奥方に迎え入れられることをとても嬉しく思っていたものだ。
「私、思ったの。ひなさんは、雪那さんの血を引いているのではないかと」
獅那の言葉に、ヤタも頷き返す。
思い当たるところは幾つもあった。笑い方、気の使い方、言葉遣いなど、細かいところは違うとはいえ、そのどれもが雪那のものと酷似している。
「それは俺も感じていた。ひなと雪那はあまりにも似過ぎている。たまたま似ていると言う言葉では片付けられないくらい同じだ」
「麒麟様も、もうお気づきよね?」
「恐らくな。それに、阿修羅のあの力は何もなくして他へ継承されることはない。そこまで考えると、あの時は分からなかった一つの事実に突き当たる」
「……雪那さんは阿修羅の子供を身籠っていた、という事ね」
「そうだ」
だから彼女は自分たちに何も告げることなく突然姿を眩ませた。麟に対する強い罪悪感を感じていただろうと思えば、何も言えるはずがない。仮にその時、雪那自身が身籠っている事に気付いていなかったとしても、汚された事実がある以上黙っていなくなる理由として十分に考えられる。
雪那があの時、命を賭して幽世から出て現世に身を隠したのだとしたら、ひなが現世にいたことも納得が行く。現世での家族は偽物で、雪那が妖術を使い人間の記憶操作をした事も十分に考えられた。
幽世であやかしとしての姿を与えられた者は、現世に行ってもある程度体を保つことは出来るが、時期が来れば《《無》》に還される。最初から無かったように、完全な無になってしまうのだ。それを承知して現世に行ったとするなら、ひなが力を持っている事も、雪那がここを出て行った理由も、全てが綺麗にまとまる。
「……とても、惜しい方だったわ。雪那さんも麒麟様の奥方に迎えられることをとても喜んでいらしたのに」
幽世では生前の徳が非常に高かった者には、人型に近い容姿と妖力を与えられる事になっており、無条件で極楽へ行くことが定められている。雪那はそれに該当する女性だった。だからこそ、麟の妻にと迎え入れられる予定だったのだ。
「あんなことさえなければ、な……」
雪那がなぜ、本来関わる事がなかったはずの阿修羅と接点が出来たのか。
ある日、お祭りだからとマオと一緒に街に繰り出した雪那は、大勢の人波に押され足を滑らせて地獄門へ転落してしまった。それが、二人に接点を作ってしまう要因になったのは言うまでもない。
「なぁ、もう一つ気になってる事があるんだが……」
「?」
「阿修羅はあの時、くたばったんじゃないのか?」
過去に麟や他の式神達と共に二人も阿修羅に対峙した。帝釈天も含め阿修羅を追い込み、確かに倒れたと思っていたのだが……。
「話では地獄の果てに封印されたと聞いているけど……」
獅那の話に、ヤタは長いため息を吐き腕を組んで遠くへ視線を投げかける。
阿修羅がくたばっていたとしたら、継承されているはずのひなの力も消えておかしくはなさそうだが、まだ強い威力を保ったままひなの中にいる事を考えると、まだどこかに生きている可能性は捨てきれない。
「嫌な予感が拭えねぇんだ。もし、阿修羅が再び動き出す事があったとしたらあいつ、また麟の命を取りに来るだろう。それに、ひなだって……」
「……」
ただの懸念で終わってくれるならこれ以上ありがたいことはないだろう。ただ、どうしてもヤタにはこれで終わりではないとする予感がしていた。
この予感に関しては、麒麟も察知していておかしくはないだろうとは思う。
「また同じことが繰り返されるのはごめんだぜ……」
*******
麟は、スヤスヤと寝息を立てているひなのそばで、静かに柱に背を預けて外を見つめていた。
ハラハラと舞い落ちる桜の花弁を見つめ、その花弁の一つが膝の上に落ちたのを見つけて拾い上げる。
こうして無事にひなが戻ってきたことを内心ホッとする傍ら、複雑な感情に思わずため息が零れてしまう。
現世でひなの持っている力の性質が当初から分かっていた通り阿修羅のものと同じであることが分かり、同時に、ひなは阿修羅と雪那の二人の血を引いているのだろうと確信出来てしまった。
(雪那と血がつながっているだろうというのは分かっていたが、まさか子供だったなんてな……。しかも、阿修羅との……)
薄々分かり始めていた事だとは言え、やはり心に傷を負わないわけがない。雪那の事は、本当に心から愛していたから……。
しかし、それを今更嘆き、憤った所でどうなるわけでもない。もはや受け入れるしかないのだ。雪那はすでに無に還っているし、阿修羅は瀕死の状態で地獄の果てに封印されている。過去を捨て、現状を受け入れるしかない。
麟は眠っているひなを振り返った。
閉じた瞳からはまだ涙がうっすらと滲み、白い肌を滑り落ちて濡らしている。その涙を麟はそっと優しく拭い去り、その手の甲でひなの頬を優しく撫でた。
(こうして、ひなを見つめていると忘れようとしていた気持ちが蘇って来る。少しでも触れていたい、傍にいたい、何があっても守りたい……)
雪那がいなくなってどれだけ心を痛めたか分からない。諦めようとしても諦めきれず、いつまでもズルズルと引き摺ってしまっていた。だが、ひなと出会い彼女と共に生きることを選んでからは、嘘のように心に平穏が訪れた。もう一度愛そうと言う気にもなった。この出会いをもう二度とふいにはしたくないと、そう強く願うほどに。
「君が私に救われたと言うように、私も君に救われた。もう一度誰かを愛そうと想えた。君は、私にとって唯一無二になったんだよ」
大事なものをもう一度作るきっかけが出来た事を嬉しく思う反面、見つけるのに時間が掛かってしまったが故に、ひなの力がほぼ覚醒した事に懸念を抱く。
ひなの持っている力は、阿修羅の本来の力の半分ほど。ほぼ身動きが取れる状況で封印されているとはいえ、何かのきっかけで阿修羅が動き出すことがあった場合、彼は間違いなくひなの力を取り戻しに来るはず。そして、かつてのように自分の命も狙いに来るだろう。
麟もまた、そんな予感が喜びの後ろに付いて回っていた。
「もう一度、あの時と同じ事を繰り返すわけにはいかない」
麟は鳥の式神を呼び出し、再び帝釈天と閻魔に対し手紙を出した。




