幽世
「で? この幽世に連れてきたと?」
満開の夜桜に包まれたとても広い寝殿造りの平屋敷の一室に、スヤスヤと静かな寝息を立てて布団の上で眠るひなの姿がある。御簾を上げ、明るい光と共にひらひらと桜の花びらが舞い落ちていく中、廊下の手すりの縁に止まっていた一匹の黒烏――八咫烏が呆れたような眼差しで麒麟を見下ろしていた。
眠るひなを背にしたまま廊下に腰を下ろしていた麒麟は、八咫烏が不満そうにしているのを見て小さく笑う。
「麟、あんたがまさか拾い物してくるとは思わなかったぞ」
「……そう言うな。この子は幼くしてまともな愛情を知らないんだ。放っておけないだろう?」
「……」
麟の言葉に、八咫烏は目を細めてひなを見つめる。
鼻先に掠めるのはただの人間のニオイ。麟がこれほどまで気にかけると言う事は何か特殊な力のニオイの一つや二つしてもおかしくはなさそうなのだが、今のひなからはそういった類のものは一切感じない。だが、麟が理由無く何かを連れ帰って来るような者でない事は、長年傍で見てきた八咫烏には分かる。
「……それだけじゃないんだろ?」
八咫烏の言葉に、麟はふっと笑みを浮かべて彼を見上げた。
「分かるか」
「そりゃね。長年あんたの傍にいるんだ。それくらいは分かるさ」
八咫烏はトットットと横跳びで彼の傍から離れる。そして大きく溜息を吐き自らの体を包むように羽を広げると、たちまちの内に黒い着物をまとった男性に変化した。三白眼で真っ黒な髪を乱雑に結い上げて、武士のような身なりをした大柄で屈強そうな男性だった。
足音を出来るだけ立てないよう、眠るひなの傍に近づき片膝をついて彼女の顔を覗き込む。
「で? この子をここに連れて来た本当の理由ってのは?」
「彼女は異能者だ。まだ片鱗程度にしか出せないようだが、その力は攻撃性が高い。生身の人間から見れば相当奇異なものだろうな。その為に孤独を強いられていた」
「へぇ? 全然そんな風には見えないけど」
八咫烏は値踏みをするかのようにまじまじとひなを見つめる。それだけの異能が備わっているなら、こうしていても何か特殊な物を感じてもおかしくはないのに、それがまるで感じられない分余計に勘ぐってしまう。
「彼女はまだ未熟だからね」
「ふ~ん。そんじゃあ先々には強くなるかもしれないってことか?」
「そうだな。それはこの子と今後の彼女が身を置く環境で大きく変わってくるだろう。いずれにしてもこの子は現世に置いてはおけない。今後は、彼女にはこの幽世で生きてもらおうと思う」
麟の言葉に、八咫烏はまだどこか腑に落ちないような顔を浮かべた。まだ、麟は何か本心を語っていないようなそんな気がしている。何より、この幽世で生身の人間が生きるなどと、それこそ危険が及ぶ事になると知って言っているのだろうか? と怪訝な顔を浮かべた。
「ここで生きて貰うって……冗談だろ? 幽世は現世で死んだ魂が集う世界。幽世の番人であるあんたが分かってないわけじゃないだろ」
「もちろん、冗談なんかじゃない。彼女自身も現世からの神隠しを望みここへ来た」
「おいおいおいおい、幾ら望んだからって……」
信じられないと言わんばかりに、八咫烏はくしゃりと髪をかき上げる。
「どうするんだよ。この事が帝釈天や閻魔に知れたら……。そもそも、実体があること自体が前代未聞なんだぞ。この屋敷から出たら一度肉体は滅び、魂は転生出来なくなる。そんな状況が分かってて生きて行けるわけがないだろ」
「この世界のものを口にすれば、問題はないさ」
「黄泉戸喫の事か。けど、ほんとにこの子がそれを望むか?」
麟は背後に眠るひなを振り返り、泣き腫らした目元に張り付いた前髪をそっと払いのけながら目を細めて口を開く。
「そうだな……。では、目を覚ましてからどうするか、彼女に選んでもらおうか。まだ現世に戻す術はある……」
「……」
その如何にも名残惜しいと言わんばかりの言葉と、ひなを見つめる眼差しに大きな誤差を感じた八咫烏は、怪訝そうに麟の横顔を見つめた。
****
ひなは夢を見ていた。
暗い家。両隣の家には暖かな明かりが灯り談笑する家族の声が響く中、ひなは近くのコンビニでお弁当とお菓子を買って家に帰宅していた。
「ただいま……」
声をかけたところで誰からの返事があるわけじゃないが、癖で言ってしまう。
ビニール袋を下げて誰もいない家の鍵を開けて中に入ると、まっすぐリビングに向かい電気とテレビを点け、バラエティ番組を流しながら買ってきた弁当をテーブルの上に広げた。
まだ僅かにぬくもりが残る、ひなが大好きでよく買う唐揚げ弁当。
コンビニ内で作られた、機械ではなくちゃんと人の手が加わった手作りのお弁当がひなは好きだった。少し遅い時間に行くと割引シールが貼られて安く買える、と言うのも一人で暮らしていくうちに気付いた事だ。
「少しくらい冷めてても、やっぱり誰かが作ってくれたお弁当は美味しいもんね」
まるで自分を慰めるように呟いた言葉が虚しい。
割りばしを割って行儀よく手を合わせてからお弁当を半分ほど食べ進めながら、ひなはぼんやりとテレビから流れる番組を見つめる。
テレビの中の人達はいつ見ても楽しそうだ。友達も沢山いるだろうし、仲の良い両親や家族がいる人だってたくさんいるに違いない。大変な事もあるだろうけれど、それを支える仲間がいることは生きていく上で強みになる。
「……」
関係ない人達が映るテレビを見ていても感じてしまうどうしようもない疎外感に、ひなは急に食欲が無くなった。やがて箸が止まり、食べかけのお弁当にラップをかけて食後に食べようと思っていたプリンごと冷蔵庫に押し込むと、テレビと電気を消して自分の部屋に駆け戻る。
バフっとベッドに倒れ込み、時々こうして込み上げて来る言いようのない寂しさを一人堪えていた。掛布団をきつく握り締め、滲んでくる涙を堪えながら「絶対泣かない。絶対に泣いたりなんかしない。寂しくないもん」と呪文のように心の中で呟き、ぎゅっと唇を噛んだ。
ひなは一人になってからずっと、こうして寂しさに耐え忍ぶ日々を送っていた。隣の家の団らんの声が追い打ちをかけて来るが、それでも誰かに怖がられるくらいなら一人でいる方が良いことを選んだ。いや、一人でいなければならないと幼心に理解してしまっていた。
泣いたところで、誰も慰めてくれるわけではないのだから……。
ある程度の時間が過ぎると胸に込み上げて来る悲しい感情が少し落ち着き、ひなはコロンと体の向きを変えた。窓を見ると、大きな亀裂の入った窓ガラスの向こうに夜空が広がっている。
この亀裂の原因が自分なのだと言う事は漠然と分かっていた。何でそうなるのかまでは分からないが、癇癪を起すといつもこう言った不思議な事が起きる。だからこれは自分が悪いのだと理解し、これが原因で皆が離れて行ってしまったと言う事も分かっていた。
「……いつか壊れちゃうよね。この窓ガラス」
誰に言うでもなくそう呟きひび割れを見つめていたひなは、ふと、窓の外に何かを見つけ目を見開く。
遠くの山の上に流れ星が見えた。いや、流れ星と言うべきなのだろうか。キラキラと青や鮮やかな赤や黄色の光の帯を引いて、一瞬明るくなった夜空。それはまるで吸い込まれるように山の一部に消えて行った。
「あれ、あの場所って高神神社のある方だ」
ベッドから起き上がり、窓にしがみつく。
今行ったら何が落ちたのか分かるだろうか? いや、しかしあの道を夜に出歩く勇気はない。でも、早く行かなければ落ちた物が他の人に見つけられてしまうかもしれない。
いても立ってもいられず行ってみようとベッドから降りた瞬間、インターホンが鳴り響きビクッと身を震わせる。
『すみません、警察です。どなたかいらっしゃいませんか?』
ひなはそろそろと音を立てないように一階に降り、インターホンの室内カメラを見ると警察官が二人映っているのが見えた。
『この時間になっても誰も帰って来てないのかなぁ。すみませーん』
『この家、娘さんが一人老夫婦と暮らしているはずだけど』
『隣の人に話を聞いてみるか』
インターホン越しに話をしている警察官の声を聴き、ひなは怖くなった。
もしかしたら明日にでも、施設に連れて行かれるのかもしれない。そう思うと焦った。警察官が家の前から立ち去り、カメラが消えて暗くなるとひなは急いで靴と鞄を握り締め、玄関ではなく庭から外に飛び出した。
夜道を夜の闇に隠れるように駆け出し、神社へ向かう。息を荒らげながら走っている内に、ひなの胸には疑問が浮んで来た。
(あれ? 何だろう。この光景……一回見た気がする……?)
走る足を止めて、呼吸を整えながら後ろを振り返ると、いつもなら見えているはずの街の明かりが見えない。再び前を見ると、山の上にある神社が見えはするもののそこへ続く道は、ついさっきまで見えていたのにいつの間にか漆黒の闇に飲まれて見えなくなっていた。
(嘘……どうしよう……え、でも、なんで?)
1人でパニックになっていると、それまで遠方に光っていた神社も見えなくなり、辺りは漆黒の闇に包まれる。泣き出しそうなひなの前に、優しそうな大柄の男性が現れ、彼は自分に手を差し伸べていた。
『君は、神隠しを望むんだね?』
その言葉に、ひなはハッとなり目の前の男性に向かって手を差し出した。