甘い香りと、遠い記憶
ゆらゆらと心地よい揺れに揺られ、懐かしい香りに包まれる。
甘い甘い桜の香り。柔らかく温かい布に抱かれて、ひなは夢を見ていた。
記憶には残っていないはずの、幼い頃の自分の夢。
誰かに愛されて過ごした時期が、記憶の彼方に確かにあったと知ることができる夢だった。夢の中で、かつて暮らしていた家の一室で、赤ん坊を抱き抱える女性の姿が見えた。
『可愛い、私のひな』
傍にいる顔の分からない女性の優しい声音と柔らかな手に頭を撫でられる。
まだ幼く、乳飲み子だったひなは声を掛けられた事でただただ嬉しそうに笑い、差し伸べられた手の指をしっかりと握り返す。
『愛してるわ。あなたは私の希望よ』
女性は心の底から ひなの事を想い続けていた。
温かく柔らかく、どこか甘い花の香りを引き連れた女性の優しい手がひなの頭を愛おしく撫でた。
『私の罪は私のもの。あなたには幸せになって欲しいと願っているわ。だからどうか、目覚めないで……』
女性はそう言いながらひなの右目に手を触れる。そして聞き取れないほどの声で何かを囁き、ぎゅっとひなを抱きしめた。
『ずっと愛してる。例え傍にいなくても……』
ずっとこの優しさとぬくもりに包まれていたい。ずっとこの手を放したくない。このまま傍にいて離れないで欲しい。
そう望んでも手が離れ少しずつ女性が遠のいていく。幼いひなは懸命に手を伸ばし追いかけた。赤子だった自分の手がいつの間にか見覚えのある大きさになって、離れて行く女性の手を掴もうと懸命に伸ばされた。
――待って……待ってよ……!
小学三年生の姿になっていたひなは必死に女性の後を追いかけて走った。息を切らし、自分が持てる限りの力を振り絞って女性を追いかけるが追いつかない。むしろその距離はどんどん開いて行ってしまった。
ひなは足を止め、乱れた呼吸を整える為に息を継いだ。
汗が頬を流れ落ち、足元に水玉模様を作り出していくのを見つめながら、ひなは切ない思いに胸がいっぱいになる。
置いてかないで……。
滲む涙もそのままに顔を上げると、追いかけていた女性の姿はもうどこにもない。その誰かも分からない女性に縋るようにもう一度手を伸ばし、それまで胸に詰まっていた言葉を紡ぐために口を開いた。
ずっと言いたくても言えなかった言葉。それを伝える相手がいない虚しさは何度も味わって来た。一度でいいから口にしたかった言葉……。
「お母さん……!」
思いの丈を言の葉に乗せて叫ぶと、伸ばした手をぎゅっと誰かが握り締めてくれる。優しく暖かなその感触に、ひなは閉じていた瞳をゆっくりと開くと、滲んでいた涙が目尻を滑り落ちた。
「ひな……」
虚ろな眼差しの先には、見覚えのない部屋の天井と見覚えのある人物の姿を捉えた。
サラサラの金色の髪に額から生えた二本の角。落ち着いた色合いの着物をまとい、伸ばした手をしっかり握り返して心配そうにこちらを覗き込んでいるその人は、目を覚ましたどこかひなの様子を見て安堵したような表情を見せる。
「良かった」
そう言って微笑み、手を握っている方とは逆の手で頭を撫でてくれる。その感触に、まだ夢心地だったひなの意識が徐々に覚醒し始めた。
「麟、さん……?」
「あぁ、そうだ」
柔らかい笑みを浮かべて頷き返す麟の姿をしっかりと認識したひなは、途端に表情を歪ませて布団から上体を起き上がらせた。だが思った以上に体に力が入らずふらついてしまい、傾ぐ体を慌てて麟が抱き止める。
「無理をするな」
「……本当に、麟さん……? ほんとに?」
「そうだよ、ひな」
優しく、しっかりとその腕の中に包まれる鼻先を掠める久々の香り。濃厚な桜の香りと、ほんの少しお日様のような温かい香りに胸がいっぱいになり、突然ぼろぼろと大粒の涙をこぼし始めた。安堵と久し振りに再会出来た喜びとが入り混じり、止めどなく溢れ出る涙を自分で制御出来なかった。
なりふり構わず声を上げて泣きじゃくり、自分を抱きしめて来る麟にしがみつく。
「麟、さんっ……! 本物の麟さんだぁ……!」
小さな子供のように泣いて縋る。まともに話す事さえ難しいほど咽び泣く彼女の姿に、それほどまでに追い込まれていたのだと思うと居た堪れない気持ちになり、抱きしめる麟の腕に力が入った。
一人にさせないと誓っておきながら一人にさせてしまった事の罪悪感と、やるせなさが心を支配していく。
「ひな……迎えに行くのが遅くなってすまなかった」
抱きしめたままそう呟くと、麟の胸元でひなは何度も首を横に振った。言葉で応える代わりに、きつく着物を握り返してくる。
「もう一人は嫌だよっ! ずっと傍にいて離れないでっ……!」
「ひな。大丈夫、ここにいるよ。今度こそ君を一人にしない、絶対に」
ひなは空っぽになりかけていた心が再び満たされていくような気がした。
自分の手元から離れて行かないように、遠い所へ行ってしまわないように力いっぱい麟にしがみついた。夢で見た女性が遠くに離れて行く時の寂しさがリフレインし、感情の箍が外れてしまう。
なだめるように何度も背中を撫でる麟の腕の中で感情のままに泣き叫び続けたひなは、やがて疲れ果て再び眠りに落ちていた。
これは何度目だろう。彼女はどれだけ泣けば許されるのだろう……。
麟はそんなひなを抱き寄せたまま、泣き腫らした彼女の顔を見つめているだけでぎゅっと胸を締め付けられる。
「もう二度と離さない。誰が何と言おうと、君は私の全てだから」
眠るひなのその顔には、かつて愛した女性の面影がある。同時に、麟の中にあった不確かなものが確実なものとして胸に落ちた。
誰が何と言おうと、自分の傍にいて欲しかった人。優しい微笑みをその顔に称え、陽だまりのような温かさを伴った人……。
――麟……。
記憶の片隅で微笑むその姿に、麟の口から呟くように零れ落ちる。
「……雪那。君にどんな理由があって私の元を離れてしまったのかは分からない。けど、この子を私に託してくれたことを感謝しているよ」
「……麟」
落ち着いた頃を見計らい廊下に控えていたヤタが御簾を開ける事もなく声をかける。
「しばらくひなの傍にいてやれよ。ついでに、あんたも少し休め」
「八咫烏……」
「仕事は俺とマオが一通りやっとくさ。今頃あいつもてんてこ舞いになってるだろうし、そろそろ手伝いにいかねぇとな。それに……今のひなには、あんたがついててやらないといけないだろうと思う」
静かに語るヤタの言葉に、麟は申し訳ないと思いながらも小さく頷き返した。
「分かった。すまないが、もう少しの間頼む」
「承知」
そう言うと、ヤタはすっと立ち上がり部屋の前から立ち去る。
麟は自分の腕の中で眠るひなに視線を落とし、泣き腫らした目元にそっと触れた。
ひなの肉体はもう大人になったと言うのに、中身はまだ幼い少女のまま。幽世と現世の行き来で心と体の不一致が起きている。今しばらくは彼女の流れを静かに見守ってやらなければならないかもしれない。
麟はそっとひなを再び布団に横たわらせると、ツン、と胸元の着物を引かれる。その感覚にそちらに目を向ければひなの手がしっかりと羽織を握り締めているのが見えた。
麟はするりと羽織の紐を解いて彼女に握らせたまま横にさせると、ひなはぎゅっと着物ごと体を丸め込んで眠る。
いない時間がどれだけ長く感じただろう。とても短い時間だったはずなのに、言葉では言い表せられないほど長く、果てしなく感じてしまっていた。今回は現世での時間を過ごすこともあったために、殊更それを実感をしてしまう。
雪那の時のように戻ってこなかったわけではなく、こうしてもう一度戻ってきてくれたことを、戻る事を強く望んでいてくれていた事をこれほど嬉しく思う事がこれまであっただろうか。麟はどうしようもなく胸の奥から込みあがる愛しいと思う気持ちが、溢れて止まらない。
「……愛しているよ、ひな」
麟はそっとひなの頬に指先で触れ、そっとその頬に唇を寄せた。




