呪縛、解離、解放.弐
香蓮が狂い、何もない空間に幾つもの火花が弾ける。
それまで麟たちに圧し掛かっていた重圧が更に重みを増し、動きを鈍らせた。
絶えず電流を流されているかのような、激しい痛みが肌を駆け抜け、刀を握りしめたヤタの手に力が入らなくなる。
「おい麟! これで本当にひなの力抑えてんのか!?」
手の指が微かに震える。
今になり、ヤタは冷や汗を流しながら隣にいる麟に声をかけた。
「やれるだけのことは、やっている!」
麟の顔は険しく歪んでいる。その瞬間、すぐ傍にあった大きな瓦礫が、腹の底に響くような音を立てて空中に浮きあがった。
「……嘘だろ」
ヤタは苦笑いを浮かべる。
香蓮自身も思うように体が動かず、先ほどから四つん這いになるのが精いっぱいの中で、ひなの力を操る強靭な精神状態が完全に異質だった。
うつ伏せていた顔をゆっくりともたげた香蓮は、長い髪の隙間から右目だけを覗かせている。
『叩き潰してやる!』
叫んだ瞬間、右目の瞳孔が一瞬、縦長に光る。
「!?」
ヤタはその目を見た瞬間、息を呑んだ。
――この目は、あの時の……。
ヤタの思想が一瞬、過去の記憶に揺れる中、浮き上がった瓦礫はその巨体に見合わない剛速球で二人に飛びかかった。
「……くそっ!」
ヤタはこめかみに青筋を立て、痺れる手でもう一度刀の柄を握りしめる。割るような力強さで地面を踏み、麟の前に回り込むと居合の速さで刀を振り抜き、瓦礫を真っ二つに切り捨てる。
切られた瓦礫は二人の着物や髪を煽る風を起こし、後方へ落ちた。
――間一髪。
ヤタは汗を流し、肩で大きく呼吸を吐く。
目は大きく見開かれたまま、目の前にいる香蓮を見ていた。
「……まさか」
ボソッと呟いたその言葉に感づいた麟は、彼を見る。
「ひなを引き剥がせるのは一瞬かもしれない。八咫烏、しっかり見極めろ!」
麟が声を張ると、瞬間ヤタは現実に引き戻され、今一度刀をしっかりと握りしめ直す。
「承知」
麟は指を二本立て、大きく虚空に印を切り始める。
「天津神にかしこみかしこみ申し上げる。かの御霊より放つ一縷の命、今よりお還し申す。天照坐皇大御神より真なる御霊を呼び起こし、今一度その御身に宿したまえ」
麟の唱える言葉に呼応するように、結界を張る筮竹の威力が増幅する。
『……ぐっ』
香蓮は短く唸ると、体勢を崩し地面の上に抑え込まれる。
強い圧迫感と締め上げられるような息苦しさに、苦しみながら身をよじった。
『こ、このまま、だと……この子も死ぬ、ぞ』
声にならない声を漏らし、麟を睨み上げる。しかし、麟はそんな香蓮を冷静な目で見下ろす。
「お前も苦しいだろう。早く離れたらどうだ」
『……く、くく。嫌だね。あたしと、こいつは、共倒れさ』
麟の顔が苦々しく歪む。
これ以上やれば、共倒れは免れない。だが、彼女を救う唯一の手段がこれしかないのなら……。
「……っ」
ふっと瞳を伏せ、微かに震える指先がより強力な印を結ぼうと動き出す。
「やめろ! あんたはそれをするなっ!」
ヤタの強い静止に、麟はハッと我に返り目を開く。
息を呑み、震える息をゆっくりと吐きだす。
――判断を、誤るところだった……。
麟は口を引き結び、掲げていた指を横に薙ぎ払うと、ひなにかかる重圧がきつさを増す。
『あ、う……っ』
短い悲鳴を上げ、香蓮の表情が更に歪む。動きも鈍さが増し、体が小刻みに震えだす。するとゆっくり顔だけをこちらに向けた彼女の目に、涙が光った。
「麟、さ……」
「!」
「惑わされるな!」
微かな声は間違いなくひな本人のもの。
その声に怯みかけた麟に、ヤタはすかさず声を張る。
『……なん、で』
香蓮の心が、酷く乱される。
なぜ、こんなにも目の前の二人は必死なのか。この少女は、二人をここまで本気にさせるだけの価値があるのだろうか。
理解できない……。
香蓮は歯を食いしばった。
『忌々しい!』
そう叫ぶと、香蓮はかろうじて上がる片手の中に漆黒の刀を生み出す。
その瞬間、空にただならぬ気配が立ち込める。
ヤタは咄嗟に上空を見上げ、すぐさま麟を抱えるようにしてその場から飛びのいた。同時に彼らが立っていた場所に特大の稲妻が落ち、香蓮の刀もろとも麟の防御壁を打ち砕いた。
「か、勘弁してくれよ……」
ひらひらと舞い落ちる護符を見て、ヤタの表情がひきつる。
――麟さん、ヤタさん! ごめんなさい!
ふと二人の耳にひなの声が届く。
麟は辺りを見回し、目の前のひなを見ると彼女は苦悶に顔を歪めた顔を覆い、身を屈めて呻いている。
――どうやってコントロールしていいか、わからない……。
その時、香蓮の体からずるり……と巨大な黒蛇が這い出てきた。
おどろおどろしいほどの憎悪で成り立つその巨体。あまりの禍々しさに、辺りに瘴気が生まれ、黒蛇の体を幾つもの小さな雷が這う。
『ユル……サナイ……』
人格を手放した香蓮の、重たい声が響く。
その声に、ぞくり、と背筋に寒気が走る。
「これ、は……」
麟がそう呟いた瞬間、黒蛇の尻尾が唸りを上げて横方向から飛んでくる。
ヤタは反射的に刀を抜き、縦に切りつける。
『ギャアァアァァ!』
身の毛のよだつような咆哮。女と男の声の入り混じったような悲鳴が虚空に響く。
尾を断ち切られた黒蛇は、狂ったように暴れまわる。重油のような黒い血を巻き散らし、すぐ傍に倒れているひなは、巻き添えをくらいそうになっていた。
「ひな!」
麟がひなを庇って転がるのと、巨体がヤタの刀により更に刻まれたのは、ほぼ同時だった。
『ギェエエェェ!』
一層激しく身をくねらせ、もんどりうつ巨体は容赦なく砂塵を巻き上げ、視界を濁らせる。
見通しが悪い中でも、ヤタの鋭い眼光は決してブレない。
「てめぇの相手は、俺だ」
ヤタがそう言いながら、刀の血を振り落とす。
黒蛇の頭がヤタの方へ向き、縦に割れた一つ目で睨み見る。
『ユルサナイ! アタシヲ忘レルナンテユルセナイ!』
黒蛇は巨大な口を開き、赤い舌を出す。
狙いをヤタに定め、鋭いフック型の牙を剥き出して素早い動きでヤタに襲い掛かる。
ヤタは刀を構え、その牙を受け流そうとした。が、刀に嚙みついた黒蛇の力を振り払えない。
「ッチ!」
ヤタは刀を奪われまいとしっかり握りしめ、もう一本の小太刀に手を伸ばす。器用にそれを引き抜くと、そのまま振り上げ、黒蛇の一つ目を思い切り突き刺す。
『ギャアァアアァァァァ!』
目を潰された黒蛇は、噛みついていた口を放し大きく仰け反る。
「いい加減、観念しやがれ!」
八咫烏は両手に一刀ずつ構え、黒蛇の首に狙いを定める。
一閃。銀色の残像が空中に弧を描き、静かに消える。その数秒後、黒蛇の頭がゆっくりと傾いで切り離され、地面の上にズシン、と落ちた。
首が取れた後の体もまた、大きな音を立て地面に倒れ込むと、それら全てゆっくりと地面に吸い込まれていく。
目を突かれた大きな目が、恨めしそうにヤタを見上げる。
『……アタシハ、間違エテナンカ、ナイ。マダ、諦メテ、アゲナイ』
「……」
ヤタはぴくりと眉を動かす。
香蓮は短く笑い声をあげ、やがて全て地に溶けた。
じっとりと残る黒い血痕を見つめ、ヤタは静かに目を細めた。




