混沌の奥底に眠る
ひなが自我を手放し、香蓮がひなの身体を完全に乗っ取ろうとしていた時、崩れ去った高神神社の山雪崩れを切っ掛けに、現世ではその後も幾つもの災厄が起きた。ある日突然何の前兆もなく、まるで刃物で真っ二つに斬られたかのように崩落する建築物、火山の噴火などの自然現象……。
不安定な状況が続く中、まことしやかに囁かれ続けてきた天災が一度に起きたのだと人々は感じていた。
『あの山雪崩れを一番大きな天災としてもう三年。いや、これは本当に天災なのかね……。だってあまりに不自然な事ばかりじゃないか……』
世界各国からの救援物資や救助隊の派遣によって助かった人々は皆一様にそう口をそろえていた。
自分たちの生まれ育った故郷や家に戻れない、もしくは故郷が無くなってしまった者たちは各所に数えきれないほどの人数になり、国の対応も追いついていなかった。
不安定な大陸に不安定な心情を持ったまま生活を余儀なくされる人たちがいる中で、それでも全員が元気になって欲しいと頑張る者たちも少なくない。
テレビやラジオは極力前向きな番組を前面に押し出すように心がけているばかりだ。そんなテレビ局の一室で自分の出番を待つ間静かにスマホでニュースを見ている少女がいた。スワイプしてもどこも同じようなニュースばかり。だんだんつまらなくなったのか、少女はニュース画面を閉じてよく使うSNSを何気なく覗いてみる。するとSNS上で話題に上がっているトレンドを見て少女の指がぴたりと止まる。
“私、見た! 何か起きる度に黒い蛇のようなものをまとった女の人がいたよ。17、8くらいの女の子。あの子が見えたら絶対何かが起きるよ”
ある少女のこの言葉はSNSを通して世界中に瞬く間に広がり、物凄い数のいいねとスレッドへの反応がついている。トレンドには「#人の姿をした死神」と言うものまで上がってきていた。
「死神……ね」
無機質な呟きが赤い唇から零れる。
それは毛先だけを鮮やかな赤色に染めた長い黒髪を肩に流し、ハーフアップにして髪ゴムで止めたひなだった。薄化粧を施し、ピッタリとした黒のサスペンダー付きショートパンツに白のブラウスを身に着け、ニーハイソックスに黒ブーツを履いている。
すっかり様変わりしてしまったひなは、まもなく18歳になろうとしている。
山崩れに巻き込まれて救助されたひなは、奇跡的に一命を取り留め、その後、一時的に施設に入所する事になったのだが、運よく金持ちの家の養女に引き取られた。金持ちの養女に迎え入れられるため、あの手この手を使って気に入られようと必死になっていたのは、ひなと言うよりも香蓮の成せる業だった。
名前も、山崩れに巻き込まれて記憶喪失になったと言う事で唯一覚えていた「香蓮」と名乗っている。
義父母にはとことん甘えて良い子でいることを徹底し、それ以外の場所では素の自分を曝け出す香蓮。しかもそれをまた徹底的に義父母にバレないようにすると言う巧妙な工作っぷりだった。
ここまでの人生、自分の思うまま。思い描いたままに進んでいく事に調子に乗っているのは言うまでもない。
香蓮はじっとスマホを見つめていたが、ポンとテーブルの上にスマホを投げ置いてため息を吐く。
「ふふ……バッカみたい。人の姿をした死神ですって。ま、あながち間違えてはいないわよね。だって、あたしがやってんだもの。ほ~んと、あんたに出会えて良かったわ」
香蓮は自分の胸に手を当て、意地悪く笑う香蓮の部屋のドアがノックされ、外から声がかけられた。
「カレンさん、そろそろ出番です」
「はぁ~い」
香蓮はこの日テレビの特番に呼ばれていた。
三年前に起きた大天災で山雪崩れに呑まれて、奇跡的に生還を果たした孤独な少女という名目からテレビ番組に出演するようになり、見た目が良いことと愛されキャラである事から多くの人に気に入られ、その後とんとん拍子であちこちからテレビ出演のオファーが来ていたのだ。
おかげで生活に困る事も無く、やりたかった事も出来て立っていたかったステージに立てている事に満足していた。
高いヒールブーツの靴音を高らかに鳴らしながらテレビ局を我が物顔で歩く香蓮は、自分の意のままに進んでいる現状にニヤリとほくそ笑んだ。
(あたしには遠く及ばないけど、まぁそれなりに見た目は悪くない子だから有難いわ。あたしはトップスターになる為にいるんだもの。あの子、あの日以来全然出て来やしないけど、あたしがやりたいことさせてくれてるし、十分に役立ってくれて助かるわ)
もてはやされ、あちらこちらからちやほやされるこの状況が彼女には堪らなく快感だった。これをもう一度感じることが出来てこの上ない幸せを噛み締めている。
「この状況を手放すわけないでしょ。悪いけど、アンタの体はこのままあたしがもらってあげる。しかもよく分からないけど凄い力を使える特大のおまけつきだもの。だからさっさとこの体から出てってよね。一つの体に二人も要らないのよ」
ひなは用済みだ。そう言い捨てて香蓮は鼻で笑いながらそう傲慢に言い放つ。
不思議と、香蓮はひなが持て余す力の制御を難なくこなしてしまうほどの器用さを持っていた。気持ち一つで簡単に壊すことも残すことも今の彼女には容易な事だ。つまり、今の現世は彼女の手中にあると言っても過言ではない。が、その事に気付いている人間は誰もいなかった。
嫌になったり、面倒になれば無くしてしまえばいい。
そんな自己中心的で端的な考えを持つ小娘一人に運命を握られた世界は、非常に危うい状況に立たされていた。
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暗闇の、水底深く身を縮こませたまま膝を抱えて蹲るひながいる。
自分の体なのに自分の意志では動かせない。自分の中にいる香蓮の力は圧倒的に強く、抗う事が出来ずにこうして意識の奥底に押し込められてしまっていた。あれから何度か抵抗する事も試みたが、一向に歯が立たず仕舞だった。
――寒い……。
目を開いても暗い闇しか見えない。
このままずっとここに閉じ込められたままになってしまうんだろうか? 自分の中なのに身動きもできない、たっぷりと満足に息を吸う事も出来ない。
以前のようにのびのびと手足を伸ばして動き回りたいのに、それすら出来ず息苦しさを感じていた。
体は大きくなっても、心はまだ幼い。強い圧力をかけられれば簡単に怯むし、口や気持ちで相手に勝つ術をひなは知らない。そして抗う事に躊躇いを覚えたのにはもう一つ理由があった。ひなはこの闇に閉じ込められてから、香蓮の記憶の断片を走馬灯のように垣間見ている。
「香蓮! 何をしてるの!? あなたは世界一の人間になるんだから、そんな事しないでちょうだい!」
母の足音と、ヒステリックな声と共に身体に与えられる衝撃と痛みに怯えた日もある。いや、ほぼそんな日々だった。
「見て、あいつ。あたしに対して生意気。 1回分からせてやらなきゃダメよね?」
親友と呼べるような友人は一人もいないが、学校ではいつもリーダー的な存在で身近な女の子たちを従えて来た。
「……な、に。どういう事?」
同棲していた彼氏のスマホに送られてきた、知らない女との写真とメッセージ。人生初めての恋で、彼の事を香蓮は心の底から信じて来たのに、彼はそうではなかったと分かった時の絶望……。
そこからくる親には内緒の男遊びはエスカレートしていた。
「あたしは常にナンバーワンでいなくちゃいけないの。全てにおいてね!」
常に完璧でいなければならないことの重圧。常に一番でいなければ気が済まない気負い。一切の妥協を自分で出来ないように仕向ける苦しさ……。
三年もの間、ひなは自分とは正反対な生き方をしてきた香蓮に同じ物を持っていることを感じていた。それは彼女もまた愛情に飢えて天涯孤独だと言う事。香蓮も一人で苦しんで来た。彼女が今のように強がるのは本当は自分が弱い事を認めたくないのと同時に精一杯の虚勢であると分かったからだ。
――香蓮は私とは違うけど、彼女もずっと独りぼっちだった。寂しくて、悲しくて、本当の愛情が欲しくて、でも、お父さんやお母さんからも貰えなくて……。だから周りから称賛されれば自分の承認欲求が満たされて、やめられないんだね。
ひなは眉間に深いしわを寄せて自分の膝を抱え込み、再び目を閉じる。
頭では理解している。彼女の気持ちも叫びも痛いほど伝わる。だが、強引に奪われたひなの気持ちに寄り添うものはここにいない。
膝を抱える腕に力がこもる。
怖い。不安で胸が押し潰されそう……。
――でも、私の体、香蓮にあげるわけじゃない。私はまだ未熟で、香蓮に出来ることが私にはまだ出来ないだけ。今私が表に出たら、きっと持て余している力がもっと暴走して、私のせいでもっと酷い世の中になっちゃう。そんなの、怖くて出来ないよ……。
どうしたらいいのか分からずただじっとしているしかない自分が歯痒かった。
――麟さん……。麟さんだったら、どうするかな。
緩く伏せた瞼には寂しさが滲んでいた。
強制的に切り離されてから心に残るのは常に麟のこと。幽世にいたのはほんとに僅かだったが幸せだった暮らし。温かな手に包まれ、陽だまりのような抱擁、微笑み。彼の側は安心が常に約束されていた。不安や恐怖も溶けてしまいそうな、絶対的な存在。そして、ヤタとももっと仲良くなれそうだと思っていた矢先だった。
――一人にしないって、約束してくれたのに。
帰りたいと願い続けている半面で、香蓮に影響されはじめている自分を自覚している。麟やヤタを信じたいが本当に信じていいか分からなくなってき始めていた。そもそも、あの幽世に行った事自体が夢だったのかもしれないとさえ考えてしまう。




