不安と恐怖
浴室の扉を開けると、冷え切った体には熱く感じるほどの熱気に包まれる。
ひなはのろのろと中に入ると、鏡が目に留まった。
そこに映っているのは紛れもなく自分なのだが、自分ではないように見える。
「お姉さんになってる……」
この体は本当に自分のものなのだろうか。子供らしい体形じゃなく、いつの間にか体だけ大人の女性になりかけている。年齢で言えば十四くらいだった。
ひなは壁に手をついて、強めに出したシャワーを頭からかぶり流れていく泥水を見つめた。
「これから、どうしたらいいんだろう……」
理解する前に連れ戻され、頭の中は真っ白だ。これから一体どうしていけばいいのか、到底考えつかない。
ただ、分かったこともある。
ひなを現世に連れ戻したのが香蓮と名乗る事故で亡くなった少女の仕業だということ。そして香蓮は現世にとても強い執着を持っていて、今……自分の中にいるということ。
(怖い思いはもうしたくないのに……)
たった一人で戻ってきてしまった事実に、ひなの胸は不安に圧し潰されそうだった。例え香蓮が現世に執着を持っていたとしても、自分には関係ない。
『気色悪い……』
先ほど男性が呟いた言葉を思い出し、腹部に不快感が蘇る。
「……っ」
ひなは腹部を押さえながらその場にしゃがみこんだ。
鈍い痛みと、薄っすらとこみ上げる吐き気に閉じた瞼が微かに震える。
安心できる場所を確保できると思った。でも、切り離された。それがまるで、自分には幸せになる資格はないといわれているようで、胸が痛い。
「……戻れなかったら、どうしよう」
薄く目を開き、何気なく呟いたその一言がやたらと現実味を帯びているような気がして急に怖くなってしまった。
腹部を押さえる手に僅かに力が籠る。
得体の知れない謎の力が暴走したのは、もっと小さい子供の時以来だった。しかも年々その力は増していっているようだった。こうしている今も、タイミングを見計らって手ぐすねを引いているようだ。もし、また暴走するようなことがあれば、自分で抑えられる自信がない。
見れば、体はずっと小刻みに震えて止まらない……。
「この力に呑まれちゃったら、自分が自分でいられなくなっちゃう気がする……」
自分の体なのに自分じゃないような、心と体が分裂している感覚がどうしても拭えない。
「……麟さん、怖いよ」
シャワーの水とは違う熱いものが頬を伝って流れ落ちた。
「なぁ、どうすんだよあの子。見た感じ中学生か高校生くらいだろ? あんなボロい着物一枚で土砂降りの中突っ立ってるなんて明らかにおかしいだろ。幽霊じゃなきゃどっかのヤバい店で働いてたんじゃないのか?」
ひなが風呂から上がり、女性が置いていった洋服に着替えて風呂場から出ると、扉が僅かに開いているリビングから声が聞こえてくる。
「まぁ……そういわれたら確かにそうなんだけど。可哀想じゃない」
「あんな気味悪いのを家に上げるとか、何があるかわからないぞ」
「気持ち悪いって、そんな言い方……」
夫婦の空気は、あまり良いものではなかった。それが自分のせいだとわかっているだけに、居心地が悪い。視線を落とし、服の裾を掴む。
「とにかく、あの子がお風呂に入ってる間に、警察に電話してくるわ」
女性が席を立ちあがった時、ひなは慌てて身を翻すとなりふり構わず、玄関先の傘立てを蹴倒して外へと飛び出した。
「あ……! 待って!」
背後で女性が呼び止める声が聞こえる。だが、このまま知らない場所に連れていかれるのは絶対に嫌だった。何より、これ以上感情をかき乱されたらどうなってしまうか分からない。
ひなは女性を振り返ることもなく、夜の闇へ駆け出した。
水たまりを蹴って背後から追いかけてくる女性から逃げる内に、温まっていた体温は再び冷たくなっていく。
「どうしよう。どこに逃げればいい?」
そう呟いた瞬間、高神神社のことを思い出した。
『二つの世界は隣り合っている』
麟が言っていた言葉が蘇る。二つが隣り合っているなら、そこへ行けばまた戻れるかもしれないとひなは思い立ち、一路高神神社を目指す。
先ほどよりも雨脚が強まった土砂降りの中、ひなは無我夢中で山を登る。
山の斜面を川のように流れてくる雨水を避けながら、ただひたすら頂上だけを目指したが、神社に続く参道に出た瞬間、目の前の光景に愕然としてしまう。
「……うそ」
音が遠のく。
神社まであと僅かというところで、道が分断されてしまっている。しかもそれだけではなく、天空の鳥居と名高いあの鳥居がどこにも見当たらない。それどころか神社ごと押し流されて、山の頂には石の階段以外何も残されていなかった。
ここに来たら大丈夫だと思ったのに……。
ひなはその場に頽れた。
もう希望がどこにも見えない。
麟に会える場所があるならどこへだって駆けていく。だが、どこに行けばいいのかもわからなくなってしまった。
「うぅ……」
顔を伏せて短く唸り声をあげると、カタカタと道の上にあった小石が震え始める。そしてひなの体から黒い蛇のような靄が出現し始めた。
夜よりも黒い影。それは陽炎のように揺らめき、周りの音の一切を吸収する。
雨は降り、川のように下る雨水、風に揺らめく木々の葉。だが、音が消えた。
刹那、山の斜面に閃光か走る。刃物で一刀両断されたかのように地面が切り刻まれ、思い出したように地鳴りのような音が辺りに響き渡る。
山の麓にある家々の明かりが一斉に点き、慌ただしく外へ飛び出す人々の姿もあった。
「や、山崩れだ!」
人々は口々にそう叫びながら、雨の中を逃げ惑う。
その光景を、ひなを通して見ていた香蓮が声高に笑い出した。
――きゃはは! 何これめっちゃウケる! この子の力マジやば~!
気が遠くなりかけるひなの頭の中に、香蓮の笑い声が響き渡る。
――ほら見てよ! どいつもこいつも血相変えちゃってさ。めっちゃ楽しい~!
地面が裂けたことで、ひなの体は空中に投げ出された。
ひなは霞む意識の中で感じていた。この体は、間もなく……香蓮に完全に乗っ取られる。
――あたしのことなんか、どうせ覚えてないんでしょ。すぐに忘れちゃうんだものね。だったら……何したっていいよね!?
もはや狂気の沙汰だ。
自分を確立し始めた香蓮は、意のままに操れるひなの体を使い、あまつさえその力の暴走を助長するよう働きかけていた。
(あぁ……。ひなのせいで、皆が……)
そう思った瞬間、ひなの視界は完全に遮断された。




