神隠し
「ひなをここじゃないどこかに連れてって下さい。お願いします。それが叶うならもう何もいらないし、我侭も言いません。だからお願いしますっ」
こうして何度神様に願ったことだろう。
急勾配の山道を登って行き着いた場所にある、天空の鳥居が有名な神社。ひなが山道がきつくてもこの神社を選んだのは家から近い事はもちろんのこと、空に近いから。願いが天に届きそうだからだ。辛い事があった時は、いつも家から近いこの神社に行っては同じことを一心に願っていた。特にこの日は、今まで以上に一層真剣に願う。
「もう一人は嫌です。皆に嫌われるのも嫌です。気持ち悪いって……言われるのも嫌です。ひながっ……変な力を持ってるせいで、今日お爺ちゃんとお婆ちゃんにも捨てられちゃいました」
誰一人、自分の事をきちんと見てくれない。
誰一人、温かい気持ちで接してはくれない。
誰一人、優しい眼差しで見つめてくれない。
誰一人、抱きしめて慰めてはくれない……。
顔の前で合わせていたはずの手が自然と固く握りしめられ、社に懇願するひなの閉ざした瞳から大粒の涙がボロボロと溢れて地面を濡らしていく。感情が高ぶり過ぎて途中何度も言葉に詰まり、仕舞には感極まって号泣してしまっていた。
神頼みなどしたところでどうなるわけでもないことは分かっている。分かっていても今のひなにはここにしか縋る事が出来なかった。これまでも何十回、何百回……いや、ともすれば何千回と同じことを願い続けていたこの日、いつもと違う不思議な事が起きる。
まだ春遠い初秋。白むほどに両手を固く握り締めていたひなの手の上に、何処からともなく一枚の桜の花びらが舞い降りた。その瞬間、強く吹き付ける風がひなの頭の上で二つに結んだ髪を大きく煽り、眩い光を感じて薄く瞳を開き僅かに顔を上げる。
目の前には色鮮やかな閃光。空の彼方から降った星のような眩い光は神社の上空からゆっくりと降りて来る。同時に、辺り一面に広がる桜の甘やかな香りと花びらがひなを包み込んだ。
「……」
風が緩やかに落ち着き始める中、ひなの視線は目の前の光を凝視し続けていた。言葉では説明が出来ないほどの出来事に我が目を疑ってもいた。そんなひなが見つめ続ける光の中からゆっくりと姿を現したのは、神々しい光をまとった一匹の神獣だった。
金色と朱色の混ざった長い鬣に、深い琥珀色の綺麗な瞳を持ったそれは「麒麟」と呼ばれる伝説の神獣。その麒麟が今、ひなの目の前に立ってこちらを見つめている。光が落ち着いて行くのと同時に呆然と目を見開いてその姿を見つめていたひなは言葉もない。ただ目の前に起きている現象に放心状態だった。そして姿を見せた麒麟もまた何を話すわけでもなく向かい合っていたが、その優しい眼差しを閉じて一度顔を振った。
「……わっ!?」
その時再び強い突風が吹き、ひなは思わず目を閉じて顔を庇うように腕で覆う。そして風が落ち着いた頃に恐る恐る麒麟方へ顔を向けると、そこには見目麗しい青年が立っていた。
肩までの金髪と尻尾のように長い朱色の髪に琥珀色の瞳。頭には黒い角が二本生えて深い紫色の着物を羽織った青年が、先ほどの神獣であることはすぐに分かった。
麒麟はひなを真っすぐに見下ろし、静かに口を開く。
「……君の願い、いつも聞こえていた。君はなぜ、ここではない場所に行きたいと願うんだ?」
その問いかけに、ひなは顔を俯けてぎゅっと服の裾を掴んだ。
小さな体が小刻みに震えているが、それは恐怖から来るものではなく感極まった状態にあるからだ。
ひなは引き結んでいた唇を開き、震える声で言葉を紡ぐ。
「……ひなは、普通の人じゃないんです。普通の人には見えない物が見えるんです」
「そう言う人間は大勢いるだろう?」
麒麟がそう答えると、ひなはぎゅっと目を閉じて首を横に強く振った。
「ひなは幽霊とかだけじゃなくて、妖怪も見えるんです! それに変な力もあって……」
ひなのその言葉に、麒麟はきゅっと目を細めた。
「変な力?」
「よく……分かんない。でも、すっごく悲しくなったり怖くなったりした時に、急に電球が壊れちゃったり、窓にヒビが入っちゃったり、そう言う事がたくさんあったんです。そのせいで皆気持ち悪いって、怖いって、ひなから離れてっちゃった……」
絞り出すような声でそう言い終わると同時に、耐え切れず閉じていた瞳から再びボロボロと大粒の涙が零れ落ちる。
「もう分かんない……っ。なんでっ、ひなはこんな気持ち悪い力を持ってるの?」
時折しゃくりあげながら震える声で呟きながら零れる涙を両手で拭う。そんなひなの前に麒麟はしゃがみこむと、ひなの顔を覗き込んだ。
「……その力は、いつから出るようになったんだい?」
そう訊ねれば、ひなは再び「分からない」と首を横に振った。
何度も拭うせいで目元が赤らんでいる。痛みを伴い腫れぼったくなっているのも気に留めず、涙を拭い続けるをその手を麒麟が取ると、突然バチッと強い衝撃が指先から走り抜けて瞬間的に手を引っこめてしまう。静電気と言えばそれまでかもしれないが、それとはまた違った異質感を覚えるほど強い衝撃だった。
「……!」
麒麟はその衝撃に驚いたように目を見張り、再びひなを見つめる。
ひなもまた驚いて一瞬泣くのを止め、麒麟を見つめ返す。その時、ひなの涙に濡れた右目の瞳の奥に一瞬縦長に赤い光が光ったのを麒麟は見逃さず、きゅっと眉根が寄る。
麒麟がもう一度その光を見ようとまじまじとひなを見つめると、彼女はまた自分が何かをしたのだと感づき、顔を再び歪めて涙を流しながら頭を下げた。
「ごめっ……、ごめん、なさい……ごめんなさい……っ!!」
大きな声で何度も謝りながら先ほどよりも激しく泣きじゃくるひなに、麒麟は「しまった」と表情を崩し、瞬間的に引いた手を握り締めた。
「すまない。君のせいじゃないよ。少し驚いただけだ」
「ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」
「ひな……」
「悪い子でごめんなさい、気持ち悪くてごめんなさいっ! 生きててごめんなさい……っ」
「!」
小さな子供から発せられる言葉にしてはあまりにも衝撃的過ぎた。
これまでどれほど過酷な状況に追いやられ心無い言葉を浴びせられてきていたかが分かるその言葉に、麒麟はたまらずひなの腕を掴んで引き寄せ力いっぱい抱きしめる。
「そんな事を言ってはダメだ。君は、何も悪くない」
その言葉に、ひなはぎゅうっと麒麟にしがみつき溢れ出る涙もそのままに助けの言葉を口にする。
「お願いぃ……連れってってよぉ……。ひな、ここにいる意味ないもん。お母さんもお父さんもいないし、お爺ちゃんやお婆ちゃんも、ひなのこと気持ち悪いって……」
しゃくりあげ続けるひなに、麒麟はひなを抱きしめる手に力を込めた。
「……もう嫌だよ……助けて」
「!」
大粒の涙を溢れさせ助けを求めるひなの背後に、麒麟にとって忘れたくとも忘れられない者の姿を見た。長い白銀の髪を緩く結い、肩に垂らした白い着物をまとった女性。狐の耳と尾を持った彼女の姿を麒麟は知らないとは言えない。今にも泣き出しそうな彼女の姿を目の当たりにした麒麟は大きく目を見開く。
「雪那……」
――タスケテ……。
雪那と読んだその女性はひなど同じく助けを乞い願っている。雪那の白い頬に一筋の涙が零れ落ちるのと同時に、彼女は光を散らしたかのように消え去った。
麒麟はすぐに自分の腕の中にいるひなに視線を落とす。顔を伏せたまま小刻みに震える彼女をここに置いてはおくわけにはいかないと、そう強く思った。
「ひな。神隠しを知っているかい?」
「……神、隠し?」
「何の痕跡もないまま、ある日突然いなくなってしまうことだよ。ひなは、その神隠しを望むんだね?」
もう一度確かめるように顔を覗き込みながら訊ねれば、ひなは大きく首を縦に振った。何の迷いもない真っすぐな眼差し。麒麟はその眼差しに目を細めそっと閉じる。そして着物で覆い隠すように彼女を抱き寄せると、ひなは一瞬驚いたように目を見開いた。
「……」
麒麟が彼女の耳元で小さく何かを囁くと、ひなはすぐに目を虚ろにさせて目を閉じ、スヤスヤと眠りにつく。
「……ひな。君に新しい世界をあげよう」
麒麟は愛おしそうにそう呟くと、ひなを抱きしめた。