21 悪魔と人間 3
図書館から、半ば追い出されるようにして出れば、外は既に夜だった。陽の落ちた街並みは、しかし代わって輝く街灯と商店の明かりに照らされて、昼より明るく見えている。
「今日は、ありがとうございました。俺の知りたいことに付き合わせてしまって」
「いえ。そんな事はありませんよ。私も、初めて図書館というものに入って、楽しめましたから」
そう言って、メリイさんは微笑んだ。
「そうそう! キサラギが居なきゃ、アトラテアの伝記に続きがあるなんて知れなかったんだから。私なんか、かってに自分の読みたいものを読んでただけよ」
「……本当にそうだな」
「ああ?」
「んだよ」
「まあまあ」
俺はすぐに喧嘩腰になる二人に呆れつつ、仲裁のために間に入った。全く、どうもこの二人は相性が悪いようだ。戦闘に置いては耳による斥候と速攻の剣技により、暗殺において多大なる成果を生み出すものだが。
いや、二人の相性が悪いというよりかは、メロスさんが誰にも合わないのだ。彼は局長のロイスさんにも平気で罵声を繰り広げてはその度に給料を引かれて渋面を作っている。嫌なら止めれば良いのに、出来ないというのが彼の性質らしかった。
「そうだ、キサラギ」
メロスさんが、俺の肩に手を置いて言った。その顔には歪んだ意地悪そうな笑みが浮かべられている。
「何ですか?」
「お前、まさか……俺がただで手伝ったとは思っていないよな?」
にやにや笑いの中で、瞳が冷たく細められている。どうにもおかしいとは思っていたが、やはり打算があってのことだったか。
「お金ですか?」
「違う。お前には一緒に行って貰わなきゃならん場所があるんだ……。付き合ってくれよ?」
「はあ」
「あっ、ちょっと! 今度こそいかがわしいところへ行こうって寸法ね!?」
アリアさんが言った。その声に、メリイさんが顔を赤くして瞳を逸らした。メロスさんはアリアさんの言葉を肯定するように笑みを深めた。嫌だなあ。別に興味は無いのに。
「私の目が黒い内は……まあ、私の目の黒色は永遠に褪せぬ絶世の黒なんだけど。つまり、一生あんたの汚らしい趣味には付き合わせないって事!」
「あー……うるさいうるさい。お前、今日何してた? 楽しくご本を読んでただけじゃねえか。俺は働いた。それを返して貰うだけだ。なあ? キサラギ。お前、まさか不能って訳じゃ無いよな?」
俺は口を噤んだ。どう答えても面倒になりそうだったからだ。別に不能って訳では無い。いや、本当に。
「まあ……分かりましたよ。お礼はすべきですね。付き合うだけ、付き合います」
「キサラギぃ!」
「よーしよーし……それでこそ、男ってもんだな。ええ……? ククク……いい女を紹介してやるよ。俺のお気に入りをな……」
「はあい」
軽蔑の視線を背に、俺はメロスさんと連れたって二人と別れた。全く、後で弁明しなければならないな。ああいった繊細な心遣いを必要とする場面は、苦手である。
貴族街から繁華街へ、夜に栄える街並みを行きながら、更に奥まった道へと俺達は進んだ。そこは確かに他と同様に光と色彩に彩られながら、しかしどことなく淫猥な雰囲気を醸している。帝都の夜の休息所、と言ったところだろうか。しかし、そう言葉を選んでも、ここが風俗街であるという事実は変わらない。
「や、や、メロス! 今日も醜女をか!?」
「メロス! 豚喰い! 今日もいい豚が揃ってるよ!」
「やあ、メロス。今日もうちには来ないだろうね。何せ、うちは飛びっ切りの美人だけを揃えているからね!」
道行く人々に、メロスさんは頻繁に声を掛けられた。その度に彼は鬱陶しそうに寄り来る人々を払い、黙々と路地を進んだ。俺はと言えば、慣れぬ雰囲気に視線を右往左往させながら、まるで落ち着けないでいた。今更法を盾にする気は毛頭無いが、それでも俺のような年頃がここに居るのは酷く場違いだろう。
「気に入ったか? だが……止めておけ。ここは高い。高くていい女ばかりが揃ってやがる。俺も以前、高い金払って外れを掴まされたよ。飛びっ切りの、中央平原生まれの美人だった。俺は……その場で腹の中身を吐き散らしてやったよ……!」
「そんなに美人が嫌いですか」
そう言うと、メロスさんはくるりと振り向いて、恐ろしく憎悪の滾った表情で言った。
「ああ、嫌いだ。大嫌いだ……! あいつらは、生まれたときから恵まれてやがる……! 自分の顔の美しさってものを、鼻に掛けてやがるんだ。おえっ……! 想像しただけで吐き気がする。嫌いだ嫌いだ……」
実際に喉奥を嘔吐かせながら、メロスさんは辺りを睨み付けた。だが、ふとしてその口端に笑みが浮かんだ。
「だが……そんな恵まれた奴等が、こうして一夜に身体を切り売りしなきゃならんと言う事実は、胸をすっとさせてくれる……! 偶には高い金を払って、一夜中その境遇を散々に笑ってやるのも、悪くは無い趣向だ……! ククク……」
「趣味が悪いですね」
「知ってるよ」
軽口に、そう易々と返して、メロスさんは更に進んだ。俺はその背を追いかけた。一人で居たら、不安なのだ。少年の身には、この場所は余りに刺激が強すぎる。
絢爛豪華な、ともすれば繁華街よりも光線が満ち満ちた区画に背を向けて、俺達は深く闇に沈んだ、陰鬱な区画に歩を進めた。そこでは先程までの過剰な客引きも、肢体を見せつけてくるような女もいない。埃っぽい、暗い夜の闇である。或いは都市の闇か。スラム街に似た雰囲気が、この場には満ちている。
「ここだ」
そう言ってメロスさんが止まったのは、これまたボロボロの、傍目にも碌でもなさそうな宿だった。安物買いの……という言葉が脳裏にちらちらと浮かび上がる。いや、そもそもメロスさんの趣向を鑑みれば、その安物こそ本意なのだろう。間違ってもここに身体を預けたくは無い。
「じゃ、俺はこれで……」
「何言ってんだよ。お前も来るんだよ……!」
「嫌だなあ。嫌だなあ!」
俺はむんずと掴んでくるメロスさんの腕を振りほどいて逃げだそうとした。そうだ。それが良い。さっさとこんな場所からは逃げてしまおう。絶対にこんな場所は嫌だ。
しかしメロスさんは俺の首根っこを強く押さえ付けて、至近に唾を飛ばしながら言った。
「お前、今日図書館に入ることが出来たのは誰のおかげだ? ええ? 効率よく情報を集められたのは誰のおかげだ? 言ってみろよ……。今日、俺がどれ程役に立ったか、言ってみな……!」
「ぐむ……ですがねえ!」
確かに、メロスさんにお世話になったのは事実だ。だが、礼をすると言っても限度があるだろう! こんな所は嫌だ。やっぱり逃げだそう。
だが、メロスさんの身体は、背の低さに反してかなりの筋肉質のようで、藻掻いても藻掻いても逃げ出せない。指先までが固く握り締められて、振りほどけないでいる。
「まあ、まあ、暴れるなよ……。何も、無理に一夜を明かして貰おうって訳じゃ無いんだ。お前には、俺がしているのを隣で見て貰うだけで良いのさ……」
一変して猫撫で声でメロスさんは言ったが、却って俺は鳥肌が立った。
「何を言っているんですか貴方は!? そんな特殊すぎる趣味には流石に付き合えませんよ! そう言うのは、ちゃんと同好の士同士で、ちゃんと許可を取ってからにして下さい! 貴方みたいなのがいるから、そういったトラブルが絶えないんじゃ無いですか!」
「まあ、まあ、安心しなって……。別に、汚えものは見せねえよ。何せ、俺は……不能だからな」
「……はい?」
その言葉に、俺は驚いて、力を抜いてしまった。その隙にメロスさんは俺をずるずると引きずって、「いつもの!」と宿奥へと叫び、慣れた様子で進んでいく。俺は藻掻きながら足を縺れさせ、仕方なく引っ張られていった。
知らず知らずの内に、俺達は一つ部屋の前に立っていた。メロスさんは案内人に僅かな硬貨を支払い、笑みも浮かべず、ノックもせずに扉を開き、その奥へとずんずん入っていった。俺はもう諦めて、その後に従った。
部屋の中は、予想とはまるで異なり、酷く殺風景だった。ぼろぼろと崩れた土壁と、荒れ果てた床敷きの布が、異様な雰囲気を醸している。その中で、申し訳程度に整えられた寝具と、その中心に座る女性だけが、辛うじてここが風俗宿であるという事を思い出させるほどだった。
「よお……ロイロン」
「こんにちは。メロスくん」
メロスさんは、ロイロンと呼んだ女性と親しげに挨拶した。彼女も同様に親しく笑って返した。この人が、ここまで人に親しく接する様を、俺は初めて見た。
ロイロンと呼ばれた女性は、お世辞にも、美しくは無かった。寧ろ、扇情的な衣装が却って悍ましく見えるほどに、その容貌は整えられていない。苦しい女性だった。その表情を仔細に思うことを、俺は好まなかった。
メロスさんは、ロイロンさんの正面にどっかりと腰掛けて、「同僚の、キサラギだ」と俺を紹介した。俺は頭を下げた。彼女は笑って頭を下げた。深く、床に頭を付けて礼をした。異様な光景だと俺は思った。
「何がしたいんですか、メロスさん」
「ロイロン。今日俺は、図書館に行ってきたんだ。こいつの手伝いでな。お前は図書館なんて所に入ったことが無いだろう? それどころか、文字も読めない。昔のまま、変わらず、却って劣化しているな……」
メロスさんは、俺の問いにもまるで構わず話し始めた。
それは、自慢話だった。メロスさんは、自分が如何に騎士として優れていて、恵まれているか。如何にこの帝都で成功し、優れた人物であるかを揚々と語った。それをロイロンさんは、にこにこと笑みを浮かべ、一言も言葉を挟まずに聞き続けていた。
「悪魔だ。俺の仕事は、悪魔とだって戦うのさ。お前には分からないだろう……? 奴等の恐ろしさ。それに打ち勝つことが出来る、俺の力量。分からないだろうなあ。だってお前は、無能だからな。帝都の、こんな片隅に、落ちぶれたお前にはなあ」
「……ちょっと、メロスさん」
「ああ、悲しいなあ。俺の同僚は、お前如きにも哀れんでくれる優しい奴だってのに、お前の隣には誰も居ないんだ。……お前は、孤独だよ。何時までここに居るつもりなんだ? なあ……お前は不安も感じ取れないほどになっちまったのか? 肉と酒に溺れて、目も鼻も使い物にならなくなっちまったか?」
「メロスさん!」
思わず俺は声を荒げた。先程から、いくら何でも酷すぎるだろう。だが、彼は立ち上がろうとした俺を制し、じっとロイロンさんを見つめた。彼女は脂肪を多分に含んだ口元を柔らかく開いて言った。
「メロスくんは、格好良いね。すっかり、遠くなっちゃった」
「……それだけか。それだけなのか、お前は」
「え? うん。凄いなあって、そう思ったよ」
「……そうか」
そう言うと、メロスさんは立ち上がって、「帰るぞ」と言った。俺は訳も分からず、ロイロンさんが手を振るのを横目にしながら、その背を追った。
メロスさんは、夜道に肩をいからせて、足早に歩いた。彼は何も言わなかった。俺も、何も言わなかった。何を聞くべきなのかさえ、分からなかったのだ。
「悪かったな」
ぼそりと、呟いた。メロスさんは、顔を伏せながら俺を横目に見つめていた。
「……どんなご関係で?」
「幼馴染み……生まれたときからのな……」
メロスさんは、ふと立ち止まり、懐から上等な煙草を取り出して火を付けた。俺にはくれなかった。俺もまた、煙草を取り出して火を付けた。紫煙が夜道に漂って、薄い白色を棚引かせた。
「まあ、つまらない、何処にでもある話だ……。帝都に夢見た馬鹿な若者二人は、一方は成功し、一方は致命的なまでに失敗した。……それだけだ」
「致命的な、失敗……」
俺は、あの部屋で、ロイロンさんが常に浮かべていた笑みを思った。あの笑みには、何の悲惨さも、後悔も無かった。暗い感情は欠片さえ無く、所か陰鬱なあの部屋に、唯一明るく咲き誇ったあの笑顔。俺はそれを、酷く不気味に思った。
「あいつは、ロイロンは、終わっちまったんだ。あの、暗い行き詰まった部屋の中に、満足しちまった。……なあ、今日調べた悪魔の話、覚えているか? 悪魔と人間。カイラとトンの、比較の話……」
俺は、一冊の書を引いて音読したことを思い出した。単純な説話。悪魔の誘惑を退け、幸福になったカイラと、従って不幸になったトンの話。思えば、メロスさんはこの話を、酷く不愉快に思っていた。
「俺は、カイラよりトンの方が、人間らしいと思う。……誰だって、これ以上良くなりたいと思うはずだ。誰だって、心の底では、満足なんて覚えるはずがないんだ。良い家、良い服、良い女……。なぜ、カイラはそれを退けることが出来たか? ……それは、奴が人間じゃ無いからだ」
メロスさんは、そこで煙草を吸いきって、燃えさしを地面に擦って消した。彼は煙草を何度も踏みつけながら、呟いた。
「なあ……俺とロイロン、どっちの方が悪魔らしく見えた? 誘惑する方か、誘惑を、満足していると、撥ね除け続ける方か……」
「俺は……」
メロスさんの方が、人間らしい、と答えようとしたその時、メロスさんは俺の煙草を奪い取って、一息に吸って、吐き出した。白い煙が中空に靄のように浮かび上がり、視界を真っ白に染め上げた。
「よせ。止めろ。言うな。……そうだ。俺の方が人間だ。俺の答えが、それなんだ。他人に聞く必要は無い。聞いてはならない。俺は、俺だけで、完結しているのだから……」
メロスさんは、自分の煙草と同様に、俺の煙草を踏みにじって掻き消した。俺は吸い殻を拾って、ポケットの奥の方に詰め入れた。そうして、メロスさんに言った。
「今日は、何処か、飲みに行きましょうか」
「……金は」
「勿論、奢りです」
「なら、いい……」
何時もはしつこく聞いてくる確認も、今日はその一言だけで、俺達は連れたって繁華街へと進んでいった。




