世界の一端
その日、白柱の国の国民の誰もがその光景を見た。
国を覆う竜素の膜に空いた、一筋の裂け目。
そこから見える空も、燦然と輝く太陽も、国民のほとんどにとっては初めて目にする光景。
白柱の国に生まれ、外に憧れない者はいない。
興奮と歓喜に満ち溢れる中に、事の詳細を知る者はごく少数。
ただ、それでも皆は喜んだ。
降って湧いた幸運に、心を躍らせた。
そして、竜素の裂け目に飛び込む竜の姿に気付いたのは、もっと少なかった。
「アスティ、重くないか? ごめんな、アスティも疲れてるのに」
「平気。アスティ、力持ち」
「頼もしいな」
ラックとミーアが二人で乗るには、竜の姿のアスティの背中でも少しばかり狭かった。更には大剣と竜輝石、二つの形見も一緒にとなると、アスティの心配もしてしまう。
「もうすぐ抜けるよ!」
竜素の膜は本当に分厚く、改めてこの国は『竜素に覆われた国』というより『竜素の隙間にできた国』なのだとミーアには感じられた。それでも、竜素の先は明確に目視できるところまで来ている。
分厚い竜素も何のその。アスティの力強い羽ばたきによって、ラックたちはついに、そこに辿り着いた。
「すごい……!」
「すごいすごいすごい!」
「ああ、すっげえな……!」
あまりにも陳腐。あまりにも飾りのない言葉を、三人は揃って口にした。外の生まれであるはずのミーアでさえも。
それほどに、その光景は圧倒的だった。
まず目に入るのは、今にもその姿を消してしまいそうな太陽。太陽が消え行くのと反対側は既に群青色の空が侵食しており、無数の星の輝きも見える。
更に、太陽に比べるとずいぶんと小さいが、星の中では一際大きなものも見える。
「あれが月か?」
「つき?」
「そう。その日によって見える形が違うっていう大きな星だよ」
シャヴァンヌから知識を継いだはずのアスティだが、知らないことは非常に多い。
ラックにそうさせようとしたように、アスティにも自分の目で世界を見せようとした。そんなシャヴァンヌの心遣いのように感じられた。
「なあミーア、世界って丸いんだよな?」
「うん、よく分からないけど、シャヴァンヌ様はそう言ってた」
「丸いの!?」
世界は丸く、ずっと一直線に飛べばやがては同じところに帰り着く。シャヴァンヌはそうして旅をしていたと言っていた。
しかし、目に映る光景に、世界の丸さを感じさせるものは無い。
「丸いの、分からねえな」
「でもシャヴァンヌ様がそんな嘘を言うわけないし、もしかして、丸いことが分からないくらい大きいってこと?」
「ねえ、丸いってどういうこと!?」
ラックの観察も、ミーアの考察も、アスティの疑問も、全ては頭の中にしかない。
世界を見たところで、その雄大さは遠く理解の及ばぬ先にある。
残念ながら、それを全て見知るだけの時間は、残されていなかった。
「……………………」
「ラック?」
「どうしたの、ラック?」
急に黙り込んだラックにアスティが不穏な空気を感じ、ミーアが体を揺さぶりながら声を掛ける。
「悪い。疲れて、ちょっと、眠い…………」
鱗に覆われた顔に笑みを浮かべ、ラックはゆっくりと目を閉じた。
「バカなこと言わないでよ!」
「ラック! ラック!?」
「おいおい、泣くな、よ。二人、とも……」
意識は眠るように落ちていく。不思議と体に苦痛は感じない。
最後にラックは、やらなければならないことを思い出した。最後の力を振り絞って目を開き、大剣を今まさに消えようとしている夕日に向かって掲げた。
「ばあちゃん。バカばっかりな孫で、本当にごめん。それで、やっぱりありがとう」
シャヴァンヌとの最後の約束。
夢を叶えるまでは、振り返らず立ち止まらない。
ラックの夢。家族と一緒に外の世界を見ることは、今確かに叶えられた。
ラック自身の力で、夢をつかみ取った。
謝ることさえ許されなかったラックだが、今はその権利がある。
だって、今まさに、夢は現実になったから。
「アスティ、すぐに戻って! シェルフィさんなら、ひょっとしたら何とかできるかも!」
「分かった!」
揺さぶられる感覚と、急降下。
目を閉じて力なくアスティの背に身体を預けるラックには、二人の気遣いが少しばかり無粋に感じられた。
もう少しくらいここに、この空の下にいさせて欲しい。
最後くらいは、掴み取った夢の中で、ゆっくりと。
そう、せめて、陽が落ちて、夜を迎えるくらいまでは。




