毒
広い竜の巣の屋上で、双方は十メートルほどの距離を取って向かい合う。
ミーアの囚われている檻と、そのすぐ隣にベヘモット。傍らには作業の手を止めた私兵たちが数名と、出航準備を進める飛行船の側に二人の巨人族。
ラックの隣に控える青い鱗の竜は、檻の中を見て宝石のような瞳の瞳孔を開かせた。
「ミーア!」
青い竜は体から煙幕のように竜素を撒き散らし、その姿を掻き消す。竜素が晴れると、そこには竜ではなく、竜の首に巻かれていた布だけを纏った、一人の少女の姿があった。
「アスティ……ラック……!」
青い竜の正体は、アスティ。神竜の幼体であるアスティが竜と人の姿を使い分けることに、今更驚きはない。しかし、ミーアの心には、確かな動揺があった。
「ラックのバカ! 何で来たのよ!? アスティと一緒に外に出ればよかったのに……!」
自分の考え違い。二人は既に国外に逃げているという勘違いに、ミーアは戸惑った。
なぜ今更、ラックたちはこの場所に来てしまったのか。
「分かり切ったこと聞くなよ。俺はなミーア、家族と一緒に外の世界を見たいんだ。そのために、自分の意思でこの国を出たいんだよ。逃げ出すんじゃなくてな」
「なに、言ってるのよ……!」
そのあまりに素っ頓狂な返しに、ミーアはそれ以上の言葉を失った。
家族と一緒に、ミーアも共に行くために、ラックはミーアを奪い返しに来た。
逃げるのではなく自分の意思で堂々と出て行くために、ベヘモットと相対した。
前半はともかく、後半は完全な意地。結果的に外に出れば変わらないというのに、意味もなくベヘモットと戦うことを選んだ。
どれだけ姿形、種族さえ変貌したとしても、ラックの心根は何も変わっていない。
無鉄砲で考え無しの、わがままを通す子どものそれである。
「ミーア、少し待ってて。ラックと一緒に、助けるから!」
「アスティまで……」
キッと睨みを利かすアスティ。それを合図にしたかのように、ラックは背中に手を伸ばす。
固定していた革のベルトを外し、柄を握って巻かれた布を解くと、それは見事な大剣だった。
ラックの身の丈ほどもある巨大な剣。片刃で、刀身は赤く鍔はない。そして、ラックが握る柄と刀身の峰は、赤い鱗に覆われていた。
ブレダが職人に依頼し精製した、シャヴァンヌの形見の骨を素材にした大剣。
「ご高説、大したものだな」
すぐにでも斬りかかりそうなラックを前にして、ベヘモットは場違いな拍手と共にそんな言葉を贈った。
拍手を止め、居住まいを正し、ベヘモットはラックを睥睨する。
「一応聞くが、出頭しに来たわけではないのだな?」
「寝言は寝て言えカス。俺も一応言っといてやるが、今すぐミーアを返せば、半殺しで済ませてやってもいいんだぜ?」
大剣を肩に乗せ、不遜に言い放つラック。ベヘモットは苛立ちを押し殺しながら、それでも言葉を重ねる。
「相変わらずふざけたガキだ。交渉というなら、どうだ? その神竜とこの娘を交換するというのは?」
ベヘモットはアスティを指差し、そんな提案をしてきた。ラックは「はぁいぃ?」と小馬鹿にした態度で耳に手を当て、眉をひそめる。物のように交換に提示されたアスティもムッと顔を顰めた。
「お前、頭と耳どっちが悪いんだ? 俺は今すぐミーアを返せって言ったんだぜ?」
「話を聞け。お前にとっても悪い話ではない」
そう言ってベヘモットは自らの顔、先ほどミーアの目の前で生えてきた鱗を指差した。
「あん? お前そんな緑色だったか? まあ、俺も色に関しちゃ人のこと言えねえけど」
青く染まった髪をいじりながら首を傾げるラック。ベヘモットは「そうだ」と頷き、上空の竜素の膜を指差す。
「お前のそれも、私のこれも同じもの。神竜の竜素に侵されたことによる肉体の変質だ」
「訳分かんねえこと言うなよ。竜素を浴びたら、人は竜素中毒になるんだよ」
そんなことも知らねえのか、と挑発するラック。煽られたベヘモットは腹の底から湧き上がる憤怒を押しとどめながら、ラックにその真相を告げる。
「竜素中毒とは、竜素を受け入れることができなかった者の末路だ。お前や私のように死の淵に瀕して多量の竜素を浴びた者の中には、ごく稀に竜素に適合し、竜の力を得る者が現れる。それが竜人族と呼ばれる人間の正体だ」
「死の淵、だと?」
確かにラックは、他でもないベヘモットに一度殺された。
確実に命の終わる一撃を受け、目が覚めたときには傷は跡形もなく消え去り、代わりに鱗が現れた。
ラックの考えていた通り、自分はあのときに小人族から竜人族になったらしい。
竜人族の出生が秘密なのも頷ける。そんな方法で竜人族が誕生するのなら、後先考えずに試して命を落とすものが続出するだろう。
「じゃあ、お前も死にかけたのか?」
ラックの問いに、ベヘモットは頷いた。
そして、その身に起きた変質を語りだす。
「ああ、もう二百年も前のことだ。私はこの国で生まれ、お前のように外の世界に憧れた。当時は今ほど飛行船も発達しておらず、古竜シャヴァンヌのもたらす外界の物資だけが輝いて見えた。無謀ともいえる生身での出国も、それほど珍しいことではなかったよ」
少し懐かしむように、ベヘモットは竜素の膜を見上げる。
きっとその頃と変わらないであろう竜素は、今と同じように白柱の国に恵みをもたらし、今と同じように白柱の国を閉ざしていたのだろう。
「防素マスクも今ほど高性能ではなく、石拾いは輪をかけて危険な仕事だった。私はワイヤーが切れるという不運に見舞われ、挙句に竜に食われかけたよ。目が覚めたときには、私の体はこうなっていた」
「お前…………」
経緯こそ違うが、ラックにはベヘモットの生い立ちが、他人とは思えなかった。
生まれた国、生業、命の危機、シャヴァンヌのもたらした外界への憧れ。全てラックにも、覚えがある。
「お前も、小人族だったのか?」
ベヘモットは頷き、次いで両手を頬に当て、自虐するような笑みを浮かべた。
「私もな、他の種族に憧れたよ。巨人族の肉体も、獣人族の感覚器官も、有翼族の翼も土鬼族の器用さも耳長族の寿命も、羨ましくてたまらなかった! なぜ私だけがこんな脆弱な肉体なのか、何の取柄もない小人族に生きてる価値があるのかとな!」
「っ!」
その様子から滲み出る妄執。外への憧れが歪んだ形で帰結した自己否定。その時ラックは、ベヘモットと自分の違いを確信した。
「だから私は震えたよ。この身が伝説の竜人族になったときに、私は選ばれたのだと。特別な人間だったのだと確信した。竜素の膜を越えた先で、世界の全てを手にしたような気分になったさ」
恍惚の表情で思い出を語るベヘモット。輝かしい思い出を抱く顔は、しかし、すぐに曇ってしまう。
「だがな、この身もまた不完全だった。竜人族は確かに竜素中毒を起こすことはない。しかし、竜素は確実に肉体に影響を与える。体内に累積した竜素は全身を鱗で覆い、やがて肉体が竜素に耐えられなくなり、死ぬ。私は何人も、そんな竜人族を見てきた」
ベヘモットはそこで言葉を切り、ラックを指差す。より正確には、大剣を握る手を。
「その剣は、シャヴァンヌの骨だろう。手には何か、違和感は無いか?」
「っ!」
大剣を握っていたラックの手のひらは、鱗に覆われていた。それも首から頬を覆う青ではなく、赤色の鱗に。
「小僧、お前の顔は以前とは比べ物にならないほどの鱗に覆われている。それは体内に過度な竜素が累積している証拠。成長途中の肉体が関係しているのか、神竜と行動を共にしているからなのかは分からんが、少なくとも私がそれほどの鱗に覆われたのは、竜人族となって五十年は経ってからだった」
「五十年……」
ラックが竜人族になったのは、ほんの二週間ほど前。それがベヘモットの五十年に匹敵しているならば、ラックはベヘモットの千倍以上の速さで竜素を取り込んでいることになる。
「更にその剣は、未だ多くの竜素を内包している。神竜と古竜、二つの竜素が相乗効果をもたらし、加速度的にお前の体は蝕まれている。断言しよう、今すぐその剣を手放し神竜から離れなければ、お前はあっという間に死ぬ」
「っ!」
その宣告に息を飲んだのは、ラックではない。
ラックに並び立つアスティが、確実に動揺した。
「ラ、ラック……!」
アスティは幼いながらも、ベヘモットの言葉の意味をよく理解していた。自分が隣に居れば、遠からずラックは死ぬと。
「……………………」
ラックは俯き、言葉を発しない。その沈黙を葛藤と悔恨によるものと捉えたベヘモットは、そこで救いの言葉を投げかける。
「神竜を私に渡せ。私はこの二百年で、竜と竜素の研究に特化した独立国を作り上げた。そこで神竜を研究すれば、お前も私も生き永らえることができる」
「生き永らえる、か……」
それは、魅力的な提案だろう。
夢を叶えたところで、すぐに死んでは意味が無い。アスティを渡せば、ラックとミーアは外に出て生き永らえることができる。
「お前と私はよく似ている。いいや、同じといってもいい。お前の抱く外への憧れも、私には手に取るようによく分かる。不完全な竜人族ではなく、完全な竜の力を手にすれば……!」
ギィィンッ! ラックは大剣を振り下ろし、屋上を削る轟音でベヘモットの言葉を遮った。
そして、隣で不安そうに瞳を揺らすアスティの手をそっと握る。
「……何の、つもりだ?」
「あり得ねえよ、ベヘモット。家族を天秤にかけるってのが、そもそもあり得ねえ」
「家族? その神竜とお前はまだ出会って日が浅かったと思うが?」
「家族に時間は関係ねえよ。ミーアもアスティもばあちゃんも、俺の家族だ。俺の夢は家族と一緒に外に出ること。お前の言うこと聞いてたら、俺の夢は一生叶わねえ」
アスティの手を強く握り、シャヴァンヌの剣の切っ先をベヘモットに向ける。交渉の余地など、最初からありはしないと突き付けるように。
「俺の夢に、お前は邪魔なんだよ、ベヘモット!」
「夢を叶えたところで、お前に待っているのは死だけだ」
「構うかよ。夢が叶わねえよりずっとマシだ!」
ラックは一度として、自分の夢に嘘は吐かなかった。
夢に対して、堂々と向かい合ってきた。
ならば今更折れることはない。何一つ恥じることもない。
今まで通り、面と向かって夢に突き進むのがラックなのだ。
「ならば、その家族を失ってみるか?」
ベヘモットは腰の鞘から細剣を抜き、檻の中のミーアに向き直る。
ラックたちが現れ、交渉も決裂した今、ベヘモットにはミーアを生かしておく理由など無い。
しかし、
「これ以上、俺の家族を奪わせるかよ!」
ベヘモットの凶行を、予想していないラックでもなかった。
「っ!?」
細剣を構えたベヘモットの視界に、影が落ちる。
竜になったアスティより小さく、影の形も竜のものではない。
「尊敬する方の仇、ワタクシ自身の刺された恨み、いろいろ思う所はありますが、それはワタクシの役目ではありません。魔王を倒すのは王子様の役目。それが……」
桃色の髪と、ピンと伸びた長い耳。そして、外套を脱ぎ捨てた背には、一対の翼。
「然るべき采配というものです」
ミーアに向けられたベヘモットの細剣を弾いたのは、耳長族のシェルフィが持つ槍。
ミーアが閉じ込められた檻とベヘモットの間に立ち、殺されたはずのシェルフィは挑発的な笑みを浮かべた。
「き、貴様、なぜ生きて……!?」
「見て分かりませんか? あなたに落とされたあと、飛んで逃げたんです。医術の心得もありますので、傷の治療は自分でしました」
自慢するように広げられた翼は、作り物ではない。ラプタのみすぼらしいそれとは大きく異なるが、それは紛れもなく有翼族の翼だった。
「ハーフ……耳長族と有翼族の混血だと?」
「ええ。バレないように大きな服を着ていたのは邪魔でしたが、奇襲に一役買えたので満足ですわ」
場違いなシェルフィの笑み。ベヘモットは細剣を構えようとするが、それより早くラックとアスティが駆け付けた。
「チッ!」
振るわれるのは、大剣と爪。アスティは体のほとんどは人間の姿のまま、背中から生やした翼で機動力を上げ、あとは右手だけを竜のそれにしてベヘモットに振るった。
ベヘモットは大きく跳躍し、部下の控える飛行船の前まで後退した。
「うーん、お上手ですよアスティ様! この数日みっちりトレーニングしたおかげで、ちゃんと竜と人間の姿を使い分けられています!」
「うん、ありがと、シェルフィ」
「っ!? 聞きましたか皆さん!? アスティ様がワタクシの名を呼び、あまつさえお礼の言葉まで!」
耳長族の中でも特に竜への信仰が強い一族に生まれたシェルフィ。ラックたちに合流したシェルフィは、改めて相対した神竜の幼体、アスティのその愛らしすぎる姿に、かなり偏った愛情を露にしていた。
「ああ、アスティ様……! もっと名前を呼んでくださいましぃ……!」
「? シェルフィ?」
「はぁう! できれば、次はそう、『お姉ちゃん』と付け足して……!」
「アンタうるせえ! アスティに変なこと吹き込むな!」
興奮した様子で体をくねくねと揺らし、アスティに妙な要求を重ねるシェルフィ。ラックは厳しい言葉を浴びせながら、ミーアを閉じ込める檻に向かって大剣を構える。
赤い刀身が弧を描き、竜を捕えるための頑強な檻は一太刀で破壊された。自力で立ち上がることも覚束ないミーアだったが、その顔には確かな安堵がある。
「ラック……」
「ごめん、ミーア。お待たせ」
謝るラックに、ミーアは首を振って答える。
「ううん。私の方こそ、ごめん。さっきはああ言ったけど、助けに来てくれて嬉しい」
ボロボロの姿で、気丈に笑ってみせるミーア。その姿が、横っ飛びに突っ込んできた青銀の弾丸によってラックの視界から消える。
「うう、ミーアぁ!」
「アスティ、痛いー!」
泣きながら再会を喜ぶアスティは、加減知らずにミーアにしがみ付く。
少し困った様子でシェルフィがアスティを諫め、何とか引き剥がす。
「アスティ様、ミーアさんはワタクシに任せて、アスティ様はラックさんのお手伝いです。ミーアさんをこんな目に遭わせた人たちを、キチンとやっつけてくださいまし」
シェルフィの言葉に、アスティはハッと目を見開く。そして、両手を竜のそれに変貌させながら、ラックの隣でベヘモットたちを睨みつける。
「ミーアをイジメたやつ、許さない!」
「ああ、許さなくていいぜアスティ。何しろあいつらは俺のこともイジメたし、お前のこともイジメようとしてるみたいだからな」
大剣と爪、各々の武器を構え、二人の竜人は駆け出す。
その一歩が、夢への一歩。
足取りには、一抹の不安もありはしない。




