影が薄い男と目つきが悪い令嬢の、一風変わったなれそめの話
僕は、影が薄い。どういう訳か昔から、顔を忘れられたり存在に気づかれなかったり、そんな目に遭い続けていた。
僕たち五人兄弟の守りをしていた乳母はいつも、「ホリー坊ちゃま、そこにおられたのですか。どこに行かれてしまったのかと、心配しましたよ」と口癖のように言っていた。どこに行ったも何も、僕はずっと彼女の目の前にいたというのに。
この体質のせいで、ずっと片思いしていた女性にもあっさりと振られることになった。今でもまだ、あの失恋の痛みは消えていない。
僕は彼女の近くをうろちょろし続けていた、もっとはっきり言えば付け回していたというのに、彼女は僕が近くにいたことにすら気づいていなかった。そのことを知った時は、さすがに絶望したくなった。
そうして失恋した僕は、色々あって王子の密偵を務めることになった。影が薄すぎるという特異体質を買われたのだ。
どのみち僕は子爵家の三男坊で身軽な、というよりも行く当てのない身だから、ちょうどよかったのかもしれない。少なくとも、これで将来の心配はしなくて済む。
今、僕は王都から遠く離れた南の街に滞在している。片思いしていた女性が暮らす王都からできるだけ遠くに行きたいと殿下に頼んでみたところ、殿下は二つ返事で僕をここに送り込んだ。
あっさり要望が通ったことにほっとしながら、僕はこちらで日々忙しくしている。第二の王都と呼ばれるほど栄えているこの地では、毎日のように貴族たちのパーティーがいくつも開かれているのだ。
そういったパーティーに片っ端から出席して、見聞きしたことを文書にしたためてせっせと殿下に送るのが僕の仕事だ。
パーティーに出席した貴族たちは、仲のいい者同士寄り集まって内緒話に花を咲かせていることが多い。そこにそっと近寄って、盗み聞きするのだ。少しばかり罪悪感を覚えなくもないが、これも王国のためだと自分に言い聞かせている。
僕がごく普通に、無造作に近づいても、貴族たちがこちらを意識することは一度たりともなかった。内緒話が全部王子に筒抜けになっていると知ったら、彼らはどんな顔をするだろうか。
そうして今日も、僕は身なりを整えてパーティーに顔を出していた。会場の扉をくぐる一瞬だけ、僕は注目を浴びる。けれど次の瞬間には、みな僕の存在など忘れたかのようにお喋りに戻っていくのだ。
毎度お決まりのこの反応に、僕はもう慣れっこになっていた。同じ相手に何度も「初めまして」と自己紹介するのももう慣れた。ただ少し、空しい。
極端に注目されにくい体質であるが故に密偵という仕事を得られた、そのことは分かっている。それでも時々思うのだ。誰か、僕を見てくれ、と。
ため息をつきたいのを我慢しながら、僕はいつものように会場をふらふらとさまよった。殿下にお伝えすべき情報がどこかで話されていないかと、耳を澄ませながら。
そうしている間にも、会場の入口からは着飾った貴族が次々やってくる。何気なくそちらに目をやった時、思わず僕は身構えた。
両親らしき男女に付き添われてやってきた一人のご令嬢、うら若い彼女の瞳に、僕は釘付けになってしまったのだ。といっても、恋に落ちたとかそういったことではない。むしろ逆だ。
そのご令嬢は、それはもう恐ろしい形相をしていたのだ。よく見ると元々の顔立ちは悪くないようにも思えたが、その表情が何もかもを台無しにしている。
形がいい筈のその眉は限界まで押し下げられ、眉間にはしっかりとしわが刻まれている。細いヘアピンくらいなら余裕で挟めそうだ。
そして糸のように細められた目の隙間から、ぎらりと光る瞳があちこちを見渡している。その鋭さと言ったら、まるでむき出しのナイフのようだった。
とどめに、その口元は妙に固く引き結ばれていた。というよりも、顔面全体に不要な力が入りすぎているように思える。そのせいで、彼女はとても凶悪な顔になっていたのだ。元の顔立ちなどまるで想像もつかない。
僕は驚きのあまり、その場に立ち尽くしていた。見ると、他の者たちも僕と同じように彼女を遠巻きにしている。いつもの癖で周囲の話を聞き取ろうとする僕の耳に、小さなささやき声が飛び込んできた。
それらの声はみな、あの令嬢について噂していた。そしてどうやらあの令嬢は、あまり評判がよくないようだった。意地が悪いだのおごり高ぶっているだの、そんな言葉が次から次へと聞こえてくる。凶悪なのは顔だけでなく、性格もらしい。
きっと彼女は素行が悪いろくでなし令嬢の一人なのだろう。王都にもたまにそんな女性がいた。ああいう手合いには、近づかないのが一番だ。
僕がそう結論付けるまでそれなりに時間があったにもかかわらず、周囲のささやき声が止むことはなかった。むしろ、一層大きくなっている。娘が歓迎されていないことを察したのか、両親らしき二人が居心地悪そうに身じろぎした。
こちらの二人はいかにも善人のように見えたが、とても気が弱そうだった。見ている方が気の毒になるような、そんな表情を浮かべながら辺りを見渡している。
仕方ない、声だけでもかけてやるか。両親たちが気の毒に思えてしまった僕は、覚悟を決めて彼女たちに近づくことにした。僕にしては珍しく、少しばかり気まぐれを起こしたのだ。
ゆっくりと近づく僕に、両親たちが救いを求めるような目を向けてくる。背後からは、他の参加者たちの視線も感じられた。珍しく、僕が注目されてしまっている。
そのことに薄く笑いながら、僕は令嬢たちの目の前までやってきた。令嬢のきつい目線にたじろぎながらも、失礼にならない程度の、しかしそっけない挨拶をする。
「初めまして、僕は子爵家のホリーと申します。どうぞお見知りおきを」
「……ヴィオラですわ」
そうやって挨拶を交わすと同時に、早くも僕は後悔していた。やはり、余計な同情心など起こさない方が良かったのかもしれない。彼女が避けられているのには、ちゃんとした理由があった。
ヴィオラと名乗ったその令嬢は、眉間にしわを寄せたまま、さらに目を細めてこちらをにらみつけてきたのだ。そして次の瞬間、何も言わずについと横を向いてしまう。
彼女の態度には思わずかちんときたが、ここで怒りを顔に出すのは大人げない。けれど笑顔を作ろうという気にもならない。きっと僕は、何とも言えない複雑な表情になっていただろう。
そんな彼女をなだめながら、連れの二人が僕に向き直った。彼女の両親にして伯爵家の当主夫婦であると名乗った二人は、それこそ大慌てであれこれと弁明を始めたのだ。彼女は人見知りで、人の多いところは不慣れなのだとか。決して僕に敵意を抱いている訳ではないのだとか。
これは殿下に伝えるまでもない情報だなと思いながら、僕は二人の言葉を適当に聞き流していた。その間もヴィオラは、あらぬ方をにらみ続けていた。
少々不愉快な出会いのことはさっさと忘れることにした。僕はここに仕事で来ているのだ。そう気を取り直してぶらぶらと歩き、いつものように情報集めに精を出す。殿下の耳に入れておきたい話もいくつかつかめたし、そろそろ帰ろう。今日はあまり長居したくない。
僕が何も言わずにふらっと帰ったところで、誰も気に留めることはない。この時だけは、影の薄い自分の体質も悪くないと思えた。
帰るたびにいちいち挨拶して回るなんて、どう考えても面倒だ。どうせほとんどの出席者は、僕がここに顔を出していたことすら覚えていないのだし、帰りの挨拶をする必要なんてない。
ほんの少しだけやさぐれた気分で会場を出る。気分が悪いのは、ヴィオラと出会ってしまったせいでもあっただろう。あそこまで無愛想な女性がいるなんて思いもしなかった。彼女も僕に興味はないようだったし、もう二度と彼女には近づかないでおこう。
そう決意しながら屋敷を出て、馬車を待たせている門を目指す。屋敷と門の間には、よく手入れのされた美しい庭が広がっていた。王都の流行とは違った様式のその庭は、これはこれで見どころのあって素晴らしいものだった。
庭には人の気配はなく、屋敷の中のにぎやかさが嘘のようだった。少し疲れていた僕がその静けさを満喫しながらゆっくりと足を進めていた時、とんでもないものが目の前に現れた。
いつの間に会場を抜け出していたのか、あのヴィオラが血相を変えて庭を全力疾走している。その手には何かが握られていた。
「……子猫?」
よく見るとヴィオラは両手でふわふわの子猫を抱えている。わしづかみといった方が正しいか。
理由は全く分からないが、ヴィオラはあの子猫をかっぱらおうとしているに違いない。そう確信した僕は彼女に駆け寄り、一喝した。
「そこの君、何をしているんですか!」
その言葉に驚いたのかヴィオラは立ち止まり、僕の顔をじっと見た。その手の中では、子猫がみゃあみゃあと元気よく鳴いている。
きっと彼女は、僕が誰なのかを必死に思い出そうとしているのだろう。そして最後にはこう言うのだ。あなたは一体どなたですか、と。毎度おなじみの反応だ。しかし彼女はすぐにぎろりとこちらをにらむと、こう言い放った。
「……ホリー様、ちょうどよかった、手伝ってくださいませ!」
「猫さらいを?」
突然名前を言い当てられたことに驚いたせいで、ついうっかりそんな本音をもらしてしまった。僕の顔と名前を一発で一致させられる人間なんて百人に一人いるかいないかといったところなのだ。僕が驚きのあまり口を滑らせてしまったのも、仕方のないことだと思いたい。
けれどヴィオラは思いっきり傷ついた顔になってしまった。にらみつけるような目つきのまま、器用に眉だけを動かしている。その予想外の反応に僕がまた驚いていると、彼女が目をそらしながらつぶやき始めた。
「……あの、違いますわ。わたくしは……ああっ!」
不意に、彼女が空を見て叫ぶ。つられてそちらを見ると、カラスがけたたましく騒ぎながらこちらに襲い掛かろうとしていた。ヴィオラが子猫を胸元にかばい、かがみこむ。その拍子に、ドレスの裾に土がはねた。
なるほど、彼女は子猫をさらおうとしていたのではなく、カラスから子猫を守ろうとしていたのか。自分の勘違いに恥ずかしさを覚えながら、せめてもの罪滅ぼしとばかりにカラスに立ち向かう。脱いだ上着を振り回して威嚇すると、ようやくカラスは飛び去っていった。
安堵のため息をつきながら振り返ると、まだヴィオラは子猫を抱えたままうずくまっていた。けれど危険が去ったのを見て取ったのだろう、そのままゆっくりと立ち上がる。彼女がドレスの汚れを気にしている様子はなかった。
「大丈夫ですか? 先ほどは申し訳ありません」
僕がそう謝罪すると、ヴィオラはきゅっと口をつぐんで小さくうなずいた。やはり無愛想だな、と思ったその時、彼女の胸元でもがいていた子猫がするりと彼女の肩に登り、頬をぺろりとなめた。きれいに巻いた彼女の髪にじゃれかかり、無邪気に遊んでいる。
「きゃ、こら、だめよ」
そうして僕は、信じられないものを見た。ずっと鋭い目つきをしていたヴィオラは、肩に乗った子猫をそっと抱き上げ、それは優しく微笑んだのだ。
ずっと細められていたせいでろくに見えなかった彼女の瞳を、初めて僕はちゃんと見ることができた。それは青空を切り取ったような澄んだ色をしていた。
「これは……その方がよほど可愛らしいですよ」
こんなことを言うのは失礼に当たるだろうと思いながらも、そう口にせずにはいられなかった。それくらい、彼女の変化は目覚ましいものだったのだ。
彼女が初めて見せた笑顔はそれはもう愛らしく、まるで別人のように優しく穏やかだった。
最初に思った通り彼女は、顔立ちそのものはとても可愛らしかったのだ。あのすさまじい目つきが、全てを台無しにしていただけで。いやむしろ、元の顔立ちが整っていたからこそ、よけいに目つきの鋭さが際立ってしまっていたのかもしれない。
しかしやはり僕の言葉が気に障ったのだろう、彼女はまた元通りの恐ろしい目でこちらをにらんできた。口の中でもごもごと何事かをつぶやいた後、子猫を抱えて屋敷の中に走っていってしまう。
一人取り残された僕は、そっと頬をつねってみた。今の騒ぎは白昼夢だったのではないか、そう思えてならなかったのだ。
あの謎の出来事はひとまず忘れることにした。僕の仕事には関係ないし、誰かに話したところでとうてい信じてもらえはしないだろう。ヴィオラの方も、僕のことなど忘れている筈だ。
ところが、そんな僕の予想は見事に外れてしまった。あれ以来、僕がパーティーに顔を出すたびに、ヴィオラが声をかけてくるようになっていたのだ。
「ごきげんよう、ホリー様。それでは、失礼いたします」
パーティーに現れた彼女は、周囲をにらみつけながら僕のところまでやってくると、相変わらずの仏頂面でそんな挨拶をしてくる。けれどそれ以上何かを言うこともなく、すぐに立ち去っていくのだ。
彼女と少しばかり関わったところで密偵の仕事には特に影響はない。それは分かっていたけれど、僕にはどうにも腑に落ちないことがあった。
いつも彼女に付き添っている彼女の両親は、いまだに僕の顔を覚えていない。それが普通だ。ところが彼女は、毎回僕をちゃんと見分けて、律儀に声をかけてくる。ならばと僕は意図して服装や雰囲気を変え、いつも以上に気配を消してみた。それなのに、彼女はいつも僕を見つけてきた。
毎回困惑しながら彼女の挨拶を聞いているうちに、次第に僕は彼女の存在に慣れ始めていった。そして同時に、こんなことを思うようになっていったのだ。彼女は無愛想だが、噂で聞くほどひどい人間ではないのかもしれないと。
きっと、僕は彼女をひいき目で見てしまっているのだろう。彼女は僕をすぐに認識してくれて、僕を見てくれている。ただそれだけの理由で。
そう結論づけた僕は、彼女のことは頭の片隅に追いやって、いつも通りに仕事に励むことにした。
◇
わたくしは最近、浮かれていました。わたくしの悪評をものともせず、普通に口をきいてくださる殿方が現れたのです。それどころか彼は、わたくしを可愛いと言ってくださいました。あんな言葉をいただいたのは、生まれて初めてでした。
あの方にもう一度お会いしたい、そう思ったわたくしは不慣れなパーティーにこまめに顔を出すようになっていました。あの方とほんの少し挨拶をかわせるだけで、十分に幸せなのです。不思議なことに、お父様もお母様も彼の顔をちっとも覚えてくださらないのですけれど。
けれど今、わたくしは困っていました。いつものようにパーティーに顔を出してあの方に挨拶を済ませ、さあ帰ろうかときびすを返しかけたところ、顔見知りの令嬢たちに声をかけられたのです。そしてそのままお父様やお母様と引き離されたわたくしは、人気のない庭の片隅まで連れていかれてしまいました。
令嬢たちはわたくしを取り囲むと、楽しそうに笑っています。顔はよく見えないのですが、彼女たちの笑い声が突き刺さるように感じられます。
「ヴィオラ、またいつも通りにあなたの名前を使わせてもらうわね。口裏合わせは頼んだわよ」
「しつこくお誘いしてくる方がいて、困っていたのよ。あなたなら私の力になってくれるわよね。だって私たち、友達なんですもの」
「『お誘いはとても嬉しいのですが、あのヴィオラとの先約が入っていて……断ったら、どんな目に遭うか分からないのです』こう言えば、みんなすぐに引き下がってくれるから楽でいいのよね。本当、助かるわ」
友達とは名ばかりの彼女たちは、そうやっていつもわたくしを悪者に仕立て上げていました。彼女たちはわたくしよりもずっと上の家の令嬢たちばかりで、おまけに口も達者です。人見知りで口下手のわたくしには、彼女たちに逆らうことなどとてもできませんでした。
そうしているうちに、わたくしが悪女であるというとんでもない噂が立ってしまいました。どうにかして否定したかったのですが、一度広がってしまった噂は止めようがありません。
けれどわたくしは決めました。わたくしは、わたくしのことを可愛いと言ってくださったあの方に恥ずかしくない自分になりたい。人見知りはそう簡単には治りませんが、それでも変えていけることはある筈です。
「……わたくし、もうあなたがたとのお付き合いはやめますわ」
意を決してそう言うと、令嬢たちが息を呑むのが聞こえました。きっと、目を見開いているのでしょう。
「まあ、なんてことを言うの、ヴィオラ」
「友達を見捨てるの? ひどいわ」
彼女たちはこちらに詰め寄ると、そんなことを口々に言ってきます。でも、もうわたくしの心は決まっていました。
「あなたがたを友達と思ったことはありませんわ。いつも、わたくしを悪者に仕立て上げるばかりで……もう、我慢がなりませんの」
そう答えたわたくしの声は少し震えていました。それを感じ取ったのか、彼女たちは顔を思いっきり近づけ、威圧してきます。ゆがんだ笑いが浮かんでいるのが、ぼんやりと見えました。
「ヴィオラのくせに、生意気ね」
「少しこらしめてあげないと駄目ね」
「そうよ、あなたが悪女をやめてしまったら、私たちとっても困るのよ。全部あなたのせいにすれば、どこにも角が立たない言い訳ができるんだから」
あざけるように言い立てる彼女たちの顔を必死でにらみつけます。彼女たちは一瞬だけひるんだようでしたが、前にも増して笑みを大きくしてわたくしの肩をつかんできました。令嬢にあるまじき醜い笑みが、すぐ近くではっきりと見えました。
「あら、一人前に私たちに逆らうつもりなの? あなた、目つきは悪いけれど肝っ玉は小さいって、私たちみんな知っているのよ」
「そうそう、その程度でひるむものですか」
「どうせなら、少し痛い目を見てもらったほうがいいかしら」
ああ、とうとう絶体絶命かもしれません。わたくしは震える足に力を入れて、迫りくる彼女たちを見据えました。大丈夫、彼女たちだって華奢な令嬢です。そう恐ろしいことなどできる筈がありません。そう思いたい。
必死に虚勢を張っていたわたくしがとうとう恐怖に負けて目をつむった時、少し離れたところで何かの気配が動くのが感じられました。次の瞬間、とても静かで落ち着いた声がこちらに向かって投げかけられました。
「そこまでです。話は全て聞かせてもらいました」
突然割り込んできた若い男性の声に、弾かれるように目を開けてそちらを見ました。令嬢たちも一斉にそちらを向いています。
庭の植え込みに寄り添うようにして、一人の男性が立っています。それはまぎれもなく、ホリー様でした。ここからではよく見えませんが、あのいでたち、あの声は間違いありません。
令嬢たちは驚きうろたえています。「彼、一体いつからいたの」とか「そんな、今のを聞かれたの」などと小声でささやきあっているのが聞こえてきました。
「……まったく、陰湿極まりないですね。あなたがたがヴィオラさんにしてきたことについては、いずれ明るみに出るでしょう」
ため息をつきながらそう言ったホリー様の声には、間違いなく怒りがにじんでいました。令嬢たちがひっ、と小さく悲鳴を上げます。そしてすぐに、彼女たちは駆け去ってしまいました。
「大丈夫ですか、ヴィオラさん。大変なことに巻き込まれていたのですね」
心配そうな声でそう呼びかけながら、ホリー様がこちらに近づいてきます。わたくしは思いがけない救いの手に、呆然と立ち尽くしてしまいました。
わたくしがあまりにもぼんやりしていたせいなのか、ホリー様はわたくしの肩にそっと手をかけると、優しく揺さぶってきます。ようやく我に返ったわたくしは、恥ずかしくてそっぽを向きたいのを必死にこらえながら、どうにか礼を口にしました。
「……ありがとう、ございました」
間近で見るホリー様の顔は、思っていたよりも線が細く、柔和な雰囲気を漂わせていました。頬が熱くなるのを感じながらも、思わずまじまじと見つめてしまいました。
普段人見知りでまともに人の顔も見られないわたくしからは、とても考えられないほど大胆な振る舞いでした。危機をホリー様に救っていただいたことで、舞い上がっていたのかもしれません。
どこか照れたような様子で、ホリー様が一歩後ろに下がります。もう少し彼の顔を見ていたかったわたくしは、ぎゅっと目を細めました。いつものように。
「……もしかして、あなたは目が悪いのでしょうか」
そんなわたくしの様子を見たホリー様が、戸惑いながらそう言いました。できることなら隠しておきたかったのにと思いながら、小さくうなずきます。
「なるほど、その目つきはそういう理由だったのですか……でもそれなら、眼鏡を作ればよいのでは?」
納得したような声音で、ホリー様がそう提案してきました。今度は首を横に振ります。
「女性が眼鏡など、不格好ですから……」
「ああ、こちらではそう考えられているのですか。道理で、眼鏡の女性をめったに見ないと思いました」
そう言うと、ホリー様はおかしそうに笑いました。わたくしは無意識のうちに、彼の表情がはっきりと見える距離までまた近づいてしまっていたのです。
「以前僕は王都にいましたが、あちらでは装飾品の一つとして眼鏡がもてはやされていましたよ。目が悪くない令嬢向けの、伊達眼鏡などというものまであるくらいです」
ホリー様が語る王都の話は、わたくしにとってはまるで夢のように思われました。王都の令嬢がうらやましいという思いにそっとため息をもらすわたくしに、ホリー様はさらに優しく語りかけます。
「僕は王都に知り合いがいますし、眼鏡職人のあてもあります。あなたさえよければ、職人を呼び寄せますよ」
「お気持ちは嬉しいのですが、でも……」
「やはり、抵抗がありますか? ですが、きっとあなたには眼鏡が似合うと思いますよ。少なくとも、そこらじゅうをにらみつけているよりずっといい」
眼鏡は不格好だ、というわたくしの常識は、ホリー様の言葉の前に吹っ飛んでしまっていました。ホリー様が似合うというのなら、きっとそうなのでしょう。わたくしが眼鏡をかけて微笑んだら、ホリー様は喜んでくれるでしょうか。
期待を込めて、おそるおそる尋ねます。
「本当に似合うと、そう思われますか……?」
「ええ。眼鏡をかけたあなたが素敵な笑顔を振りまいていれば、眼鏡が不格好だという風潮も、あなたの悪い噂もきっとなくなりますよ」
この瞬間、わたくしの心は完全に決まりました。
◇
ひょんなことから僕はヴィオラの危機を救うことになり、彼女が隠していた事実を知ることになった。彼女はただ、目が悪くて気が弱いだけだったのだ。それなのに、彼女はどうしようもなく悲惨な状況に置かれてしまっている。
このまま彼女を放っておくことは、できそうになかった。影が薄すぎるせいで他人に認識してもらえないという悲しみを背負った僕には、彼女の立場は他人事のように思えなかったのだ。
僕の影の薄さはどうにもならない。でも彼女の悲劇は、今からでもどうにかできる。
僕は王都に連絡を取り、腕利きの眼鏡職人を呼び寄せた。職人は最初ヴィオラの鋭い目つきとこちらの風潮に驚いていたが、腕の振るい甲斐がある、こちらでも眼鏡を流行らせてみせましょうと意気込みながら胸を張っていた。
眼鏡には詳しくないヴィオラとその両親に頼み込まれたこともあって、僕はちょくちょく彼女の屋敷に顔を出し、あれこれと助言するようになっていた。別に僕は眼鏡をかけていないけれど、それでも彼女たちよりは眼鏡に詳しい。あと、王都の流行にも。
気がつくと、僕は毎日のように彼女のもとを訪れるようになっていた。密偵の仕事ばかりで味気なかった日々に、ほんの少しだけ色がついたような気がした。
前に二人で助けた子猫は、結局彼女の屋敷で飼われることになったようだった。くつろぎながら猫とたわむれるヴィオラは、あの時と同じような愛らしい笑顔を浮かべていた。そんな彼女たちを眺めていると、胸が温かくなるのを感じた。僕の足で爪とぎをするのだけはやめて欲しかったが。
そうして、ついに眼鏡ができあがったある日。
「まあ……わたくし、こんな顔をしていましたのね」
眼鏡をかけたヴィオラが鏡の前に立って、自分の姿を見つめながら涙ぐんでいた。あの恐ろしいまでの眼光はすっかり消え失せている。そこに立っているのは、とても可憐な乙女でしかなかった。
「思った通り、よく似合っています」
僕の言葉に、職人と彼女の両親が揃ってうなずいた。こちらも涙目だ。彼女の足元で、猫が同意するようににゃあと元気よく鳴いた。とても繊細で優美な意匠の眼鏡をかけた彼女は、いつか見たのと同じ可愛らしい笑顔を浮かべ、僕の方に向き直った。
「ありがとうございます、ホリー様。全部、あなたのおかげですわ」
そう言ってまた涙ぐむ彼女を見ていたら、僕が密偵としてこちらに来ることになったのも悪くはなかったのだと、そう素直に思えた。そのきっかけが、あまりにも儚い失恋だったとはいえ。
そうして今、僕は眼鏡を新調したヴィオラと共にパーティーに出席している。新たな彼女のお披露目をするためだ。
パーティーに眼鏡をかけていったら、間違いなく目立ってしまう。しかも以前とは違い、好奇の目を向けてくる人々の顔がはっきりと見えてしまう。そんなところに一人で行くのは怖いと、彼女は目を潤ませながら頼み込んできたのだ。
ならば両親につきそってもらえばいいとも思ったのだが、そうやって頼りにされるのは嬉しかったので、僕は彼女の頼みを快く聞き入れることにした。
彼女の心配は見事に的中し、僕たちは会場中の人間の注目を浴びていた。正確には、注目されているのはヴィオラだけだ。僕は彼女のおまけで、引き立て役でしかない。ただなぜか、そんな役割も悪くないと思えてしまっていた。
ちなみに、彼女についての悪い噂はだいたい消えている筈だ。彼女が眼鏡を作っている間に、僕があちこちに正しい情報をばらまいておいたのだ。
そのために僕はいろんなところで同じ話を繰り返したが、誰にも怪しまれることはなかった。みな僕の顔を覚えていないということもあって、「最近あちこちで同じ話を耳にするな」ぐらいにしか感じていないようだった。妙なところで、僕の体質が役に立ってしまった。
悪女とされているヴィオラは、実は性悪の令嬢たちに利用されていた悲しい被害者だという噂は、面白いように社交界に広がっていった。面白くて悪意のある噂に目がないのは、どこも同じらしい。
そのせいでヴィオラの悪いお友達たちはろくに表に出てこられなくなってしまい、すっかり引きこもっているらしい。けれど何から何まで彼女たちの自業自得でしかないし、同情の余地はない。断じてない。ヴィオラが味わってきた苦しみに比べたら、これでもまだ甘い方だと思う。
パーティーの参加者たちは、遠巻きに僕たちを見ながらひそひそとささやきあっている。それ自体は前と同じだったが、彼らの表情は全く違っていた。
彼らはみな驚きに目を見開きつつも、賞賛のまなざしをこちらに向けていた。若い男性などは、どこかうっとりしているようにも見える。みなヴィオラの眼鏡が、そしてすっかり変わってしまった彼女の目つきが珍しくてたまらないのだろう。
そしてみな、ようやっと彼女の魅力に気づいたのだろう。僕はとうに気づいていたけれどね、と謎の優越感にこっそりと笑いをかみ殺していると、弱々しい声がすぐ傍から聞こえてきた。
「あの、どうしましょう……」
身の置き所がないといった様子のヴィオラが、上目遣いにこちらを見つめている。眼鏡のレンズ越しに見える彼女のうるんだ青い瞳は、ぱっちりと見開かれていた。戸惑いを表すようにほんの少し眉尻が下がっているのも、何とも色っぽい。
そうやって彼女が可愛らしく恥じらっていることで、さらに周囲の人間がざわめいているのだが、それを気にするだけの余裕は今の彼女にはないらしい。
そんな彼女を見ていると、あまりの愛らしさに胸が詰まるような心地がする。こんなにも素敵な女性を独占できている喜びを覚えながら、励ますように優しく笑いかけた。
「気にせず、パーティーを楽しみましょう、ヴィオラさん。堂々としていれば、いずれ周囲も落ち着きますよ」
そう言って差し出した僕の手に、彼女は明るく微笑みながら自分の手を重ねた。僕のものよりもずっと小さな手の感触に、また胸がじわりと温かくなるのを感じていた。
じきにヴィオラの緊張もほぐれたのか、少しずつ笑顔が増えていった。そんな彼女を見ていると、僕も自然な笑みが浮かんでくる。それはとても、幸せで心浮き立つ感覚だった。
今までに密偵として参加したパーティーは数知れない。それに密偵になる前だって、数えるくらいではあるけれどパーティーに出たこともある。けれど一度たりとも、こんな幸せな気分になることはなかった。
きっとこれは、彼女のおかげだ。きらきらと目を輝かせている彼女をそっと見守りながら、僕はこっそりと自分の胸に手を当てた。驚くほど、心臓が高鳴っているのが分かる。その理由は明らかだった。僕にとって彼女は、特別な存在になり始めていたのだ。
小さくため息を漏らしたその時、優美な音楽が流れ始めた。あちこちで男女が手を取り合って踊りだす。僕は高ぶる気持ちを抑えきれないまま、彼女をダンスに誘った。ヴィオラはやはりとても愛らしく恥じらいながら、そっとうなずく。
僕たちが一緒に踊るのは初めてだが、そうとは思えないほど僕たちの息は合っていた。運命のようなものを感じながら、僕は彼女にささやきかける。
「……一つ、尋ねてもいいでしょうか」
「はい、何なりと」
「どうしてあなたは、僕の顔をすぐに覚えてくれたのでしょうか。自分で言うのもなんですが、僕の顔はとても覚えづらいのだそうです。まして、目の悪いあなたが……」
自分でも驚くほど、その声は弾んでいた。彼女はいつも、僕を見分けてくれた。彼女にとっても、僕は特別な存在なのかもしれない。そんな期待が声ににじみ出る。
「……その、あの、実はですね」
その勢いに押されたのかヴィオラが目を見開き、わずかに身を離した。何か言いづらいことでもあるのか、言葉を濁している。
そうして彼女が申し訳なさそうに口にした答えに、僕はまるでがつんと殴られたような衝撃を覚えることになった。
「わたくしも、あなたの顔はきちんと覚えられませんの……お顔を見るたびに、優しくて素敵な方だなとは思うのですが」
「けれどあなたは、すぐに僕のことを覚えてくれたようですが……」
落胆に肩を落としながら、さらに問いかけた。そんな筈はない、どうか僕が特別なのだと言ってくれ。そんな言葉を、あわてて飲み込む。
ヴィオラはどこか恥ずかしそうにしながら、小声でさらに答えてきた。
「わたくし、子供の頃からずっと目が悪かったのです。なので、人を声や動きで覚えるのが得意になってしまったんですの。あなたの声は、すぐに覚えられましたから」
彼女が告げた内容は、僕を失望させるに十分だった。ああ、やっぱり彼女も、僕をちゃんと見ていなかった。僕の影の薄さは相変わらずだ。
僕のそんな思いが顔に出てしまっていたのだろう。彼女は驚いたように小さく目を見張った。君は悪くない、勝手に期待した僕が悪いんだ。そう言いたかったけれど、どうしても口が動いてくれなかった。
しかし今度は僕が驚かされる番だった。すぐに彼女は真剣な表情をすると、ダンスの動きに合わせて僕にぴったりと寄り添ってきたのだ。人見知りの彼女とは思えない、大胆な動きだった。そしてそのまま、僕の耳元で小さくささやく。
「……けれど、なぜかホリー様は、輝いて見えたんですの。前のわたくしには、人間はみんな薄ぼんやりとした影にしか見えなかったのに、ホリー様だけは違いました。きっとわたくしにとって、ホリー様は特別な方だったんですわ」
胸に熱いものがこみあげてくるのを感じながら、僕はただひたすらに彼女の目を見つめることしかできなかった。僕だけが特別だと、彼女は確かにそう言った。今まで僕がずっと欲しかった言葉を、彼女はくれたのだ。
しかし当の本人は、子供っぽいことを言ってしまいましたわ、と苦笑している。自分がどれだけ重大なことを言ってのけたのか、まったく自覚していない顔だ。
「ヴィオラさん、ありがとうございます。……僕にも、あなたは輝いて見えますよ。誰よりも」
そうささやき返して、ついでに髪に口づけを落とす。僕の喜びが、少しでも伝わるように。そして思った通り、彼女は面白いくらい真っ赤になってしまった。恥じらいながら身を離そうとする彼女を、しっかりと抱きしめる。
影が薄くてよかった。そうでなければ、僕は彼女と出会えなかったから。彼女の目が悪くてよかった。そうでなければ、きっと僕の存在は彼女の目に留まらなかったから。
こんなことに感謝する日が来るなんて思いもよらなかったなと笑いながら、僕はヴィオラと踊り続けていた。
後日、殿下から手紙がきた。『おめでとう、ホリー。善は急げと言うし、さっさと彼女のもとに婿入りしてもいいと思うぞ? 私で良ければ口添えするが』という何とも恐ろしい内容が書かれていた。
仕事先で恋人を見つけただなんて恥ずかしかったので殿下には報告しないでいたのだが、どうも他の密偵から情報が漏れてしまったらしい。
王子じきじきに口添えなんてされた日には、気の弱いヴィオラ親子は卒倒しかねないし、絶対に阻止しなくては。しかし殿下のことだ、もたもたしていたらある日突然視察と称して乗り込んでくるくらいのことはやりそうだ。
僕は影が薄いし、そのせいで少しばかり性格も卑屈だ。でも、ヴィオラのことを思う気持ちに嘘はない。せめて彼女への求婚くらいは、ちゃんと自分の言葉で、男らしく堂々と成し遂げたい。乗り込んできた殿下になし崩しに決められてしまうだなんて、そんなのは絶対にごめんだ。
これはもう、覚悟を決めるしかないようだった。