先取的に百日後に死ぬフェルミand/orソーカル
「なあ、気付いちまったんだ、俺さ」
会社の昼休み。喫煙ラウンジで煙草を吸っていた僕のところに、同期のヒトシがやって来た。
ヒトシは、高校生の時こそ、気に入らないクラスメイトの家に百発のロケット花火を撃ち込んで、警察に補導されたりしていたが、それ以外で素行に問題はなく、明るく、人当たりの良い性格だった。所属する営業第一課でも優秀な成績を収めており、同期の中では一番乗りで、主任にまで昇格している。
「何?」
「『還暦になると童心に還る』って言われてるじゃないか、童心! つまりゼロ歳児ってわけさ」
「そうかな?」
深く考えず、気のない返事をしてから、僕はそれが、余りにも気のない返事であったということに気付いたので、慌てて
「うん、そうかもしれないね」
と付け加えた。
「だろう? するとさ、俺たち、今年には三十歳になるわけだろ?」
僕もヒトシも、大学に入るために浪人していたから、同期よりは一つ歳を食っていた。
「そうね」
「そんでさ、還暦になったら、二十四時間ゼロ歳児ってことになるだろ? ウチらは還暦の半分だから、つまり十二時間はゼロ歳児相当ってはずなんだよ」
「うん?」
今度こそ、僕は生返事をしてしまった。もちろん、初めはちゃんと返事をするつもりだったのだが、ヒトシの言おうとしていることが頓知のように思えたので、リアクションに詰まってしまったのだ。
しかしヒトシは、僕の「うん?」を同意だと受け止めたらしい。
「それでさ、人間は、人生の三分の一の時間は、睡眠時間なんだとさ。一日に換算すれば、二十四時間中、起きているのは十六時間ってわけさ。そうだろう?」
「まぁ、それはそうだろうね」
「みんな聞いて! 靖国神社に、野生の小島よ○おが出たんですって! 暗殺しに行きましょう!」
噂好きで知られる経理のタカコシ女史の黄色い声が、ラウンジの外から聞こえてくる。ちなみにウチの会社は、千鳥ヶ淵の近くにある。
「うわぁ、行こう行こう!」
みんな、新型コロナウイルス感染症の影響ですっかり頭がおかしくなっていたから、タカコシ女史を先頭にして、一目散に靖国神社まで行ってしまった。
それでも僕は、ヒトシと話を続ける。
「それで?」
「するとだ。その残りの十六時間のうち、十二時間はゼロ歳児だから、俺が三十歳の成人男性として振る舞わなければならない時間は、残りの四時間ってことになるんだ」
ここで僕は、何かしら相づちを打とうとしたが、ヒトシは僕なんかにはお構いなく、滔々と話し続けた。
「それで、従業員には一時間の休憩時間が法律で与えられているから、残り三時間、さらには、俺は通勤で片道九十分かかるから、残りはゼロ。つまりさ、俺は会社の勤務時間中はさ、別に三十歳の成人男性として振る舞う必要はないんだよ。ほら、あと五秒、三秒、二、一……」
ヒトシのカウントダウン終了とともに、昼休憩時間の終了を知らせるチャイムが、社内に響き渡った。次の瞬間、ヒトシは
「オギャーッ!」
と叫んで、曇りガラスでできたラウンジの壁を突き破り、廊下へ飛び出した。ヒトシは産まれたのである。
「オギャーッ!」
「キャーッ!」
床でバブバブ言いながら、親指をしゃぶりつつ、激しくのたうち回っているヒトシを見て、その場を通りかかった二年目の女の子が悲鳴を上げた。
ヒトシがガラスを破った音と、その悲鳴とに周囲の人も気付き、何人もの人がヒトシの正気を確認したり、AEDを装着しようとしたり、家族の涙ながらの制止を振り切ってその場で射殺しようとしたりしたが、結局、法務の井上課長が、五歳の子供の誕生日用に偶然購入していたモ○スターボールに収容され、都内の病院へと搬送されていった。
僕は携帯灰皿に煙草の吸い殻を捨てつつ、今までヒトシが語っていたことを、頭の中で反芻していた。多分だけれど、ヒトシは別に、童心に還るために小難しい理屈を並べ立てる必要はなかったのだと思う。僕たちには、いつだって路上で裸になったり、コンビニのレジスターで排泄したり、赤ん坊の時にしでかしたであろう数々の失敗をする権利がある。それが自由というものであり、人間として生きるってことなのだ。
――と、そんなことを思いながら、僕は午後の仕事に向けて、ラウンジを抜け出し、気持ちを切り替えるのだった。