クレイ・ミーツ・ガール
昨日、レムゥドと過ごした時間はとても長いようで、それでいてあっという間だった。夢中だった。それこそ夢の中にいるような幸せな思い出ができたと自負できる。
だから他の事を忘れてしまっていても仕方がないだろう。
ただ、いざ思い出してみると、我ながらなんであんな別れ方をしたのかと後悔をした。
、、、
「こんにちは。土くれのアァリさん」
アァリは戦慄していた。これから会うつもりだったとはいえ、まさか向こうから何の前触れもなくエンカウントしてくるとは。しかもこちらが状況を理解していない内に先制攻撃を仕掛けてきた。
「こ、こんにちは」
とりあえず、あいさつにはあいさつを返した。これは間違ってはいないはずだ。
アァリは向こうの出方を伺った。相変わらず妙に様になっている腕組みを解くつもりはなさそうだった。恐る恐る目線を上げると、彼女のしかめ面と目が合いそうになったので慌てて目を逸らした。
そんな挙動不審なアァリを見て、村娘は呆れたようなため息をついた。
「一応、元気みたいね。すごい気まずそうだけど」
「いやその節はその、冷静さを欠いていたというか」
「別に気にしてないって」
気にしてないと言われたからといって、コロっと態度を変えられるほどアァリは図太くない。それに今まで波風を立てないように過ごしてきたアァリにとってこの状況は、対処を間違えると確実に後を引く記憶になる可能性がある。
アァリは村娘の言葉の裏を読もうと頭を回転させる。そもそも気にしていないのならば、こんな森の入口で待ち伏せなどするはずがない。
では、こんな所で何をしているのかというと——何をしているんだろうか?
「あのぉ……ここで何をしていたんですか?」
「なにって——」
村娘は組んでいた腕を解いて、おでこの辺りを爪で掻いた。今度は村娘がアァリから視線を逸らす。
「——心配だったから、ここに来ればまた会えるかなって」
シンパイダッタカラ?
アァリの頭の中で彼女の言葉が反響した。
シンパイダッタカラ? ——『心配だったから』?
「——ご、ごめんなさい!」
次の瞬間、アァリは膝を着き、脇を締めて手と額を地面に押し付けた。三点から大地のエネルギーを感じる。
「ボクなんか勘違いしてました! あと昨日! 生意気なこと言ったこともごめんなさい!」
突然、地面に潜る勢いで地面に伏せたアァリに村娘は困惑した。
「いいから! 気にしてないって言ったでしょ! っていうかあんたのその体勢なに⁉︎ よくわからないけどやめて!」
「ダメです! あなたの気の済むまでこのままで居させてください!」
「だからもういいって言ってるでしょ! もう!」
頑固に折り畳まったアァリを村娘は力づくで開きにかかった。その様子はまるで、意地になった妹とそれに手を焼く姉のようだった。
ようやく落ち着いたアァリは村娘に連れられて彼女の村へと入った。
のどかな村だった。人が集まっている場所から車などの音がしないだけでそう感じる。人の声もあまり聞こえないのは仕事に精を出しているからだろう。
アァリはそのまま彼女の家へと案内されると思っていたが、見えてきたのは牛舎のような建物だった。
「? あのー」
「ちょっと待ってなさい」
「はい」
何の説明もなくどこかへ行ってしまった村娘をアァリは何も言わずに見送った。
両者の立場が確立した今、アァリは村娘に逆らえない。
一人残されてもする事がないアァリは牛舎の中を見渡した。牛舎といっても牛は一頭もいなかった。所々に藁が少し積もっているだけで他には何もなく、畜産特有のニオイがしない事も踏まえるとこの施設はもう使っていないのかもしれない。
もしかして牛じゃなくて馬の方かも、などと考えていると村娘が戻ってきた。村娘の腕には何やら服が抱えられていた。
「はい、これ着てみて」
「ボクがですか?」
「もちろん。似合うと思うんだけど」
差し出された服を見てアァリは目をパチパチとさせた。
首元が開き、ゆったりとしたスカートが目につく緑色の服。どこかの国の民族衣装に似ている可愛らしい一着だ。
しかし、どこからどう見ても女性ものだった。
アァリは『これをボクが?』と考えこんでやっと気づいた。
(あっ……今はボク、女の子なのか)
自覚した瞬間、急に羞恥心が芽生えてきた。
(女の子が二人きりで服を着替えて似合うかどうか確かめる⁉︎ いや普通のことなんだけど、普通のことなんだけど! そんな着せ替えて遊ぶお人形みたいに扱われたことないしどうしたら⁉︎)
ほんの少し前までこの花園に出入禁制の立場だったアァリには、この他愛のないやりとりすら劇物となる。劇物は劇物でも辛酸を舐めるものではなく、色香で正気を失わせる甘美なものなので尚更耐性が無い。
顔を真っ赤にしながら戸惑っているアァリに首を傾げつつ、村娘は助け舟を出した。
「どうしたの? 着方わかんない?」
「あ、あっと、その恥ずかしくて……」
「別に女同士なんだから意識することないでしょ。ほらほら早く」
「そう言われても……恥ずかしいものは恥ずかしいですし……」
オーバーヒートした頭を回そうとするが、それ以上に目が回る。アァリにはもはや冷静に考えることなど無理だった。こうなったら小難しい事は無視して最優先排除事項を潰すしかない。
アァリはパニックで浅くなった呼吸を一旦止めてから再び大きく吸いこんだ。
「あの!」
「ん?」
「恥ずかしいので!」
「ので?」
「恥ずかしいのでボクの目を塞いでください!」
「なんでよ」
、、、
「あのー、着替えました」
藁の山の陰で着替えたアァリは顔だけをひょっこりと出した。その顔は羞恥や思春期特有の熱や罪悪感などが混ざった赤色に染まっていたが、村娘にそんな事情は伝わりようがなかった。
「それじゃあ肝心の首から下が見えないでしょ。早く出てきなさい」
「……むぅ」
アァリは眉を八の字にし、頬を膨らませて自分の心情をアピールしたが、村娘が低い声で自分の名前を呼んだ事で観念した。
目線を伏せながらアァリは全身をお披露目した。
「ど、どうですか?」
「うん、似合うじゃない。私のお下がりだけどぴったし。かわいいわよ」
「……ありがとうございます」
そろそろ羞恥には慣れてきたが、今度は照れが大きくなってきた。かわいいと褒められてもどうしたらいいのかわからない。
愛想笑いをしようにも表情筋がもう自分の意思では動かなかった。アァリの表情はなんとか笑おうとした結果、なんとも言えない乾いた笑顔になってしまった。
「え、えへへへ」
「あんた気持ち悪い笑い方するわね」
「……」
うん、落ち着いた。
「こっち来て、髪をといであげる」
村娘は牛舎にあった木製の小さなイスにアァリを座らせると、アァリの後ろから長い髪をとかし始めた。
「こんなに長くて綺麗なものを持ってるんだからちゃんと手入れしなさい」
「すみません……」
アァリは前髪を何本か指で摘んで見てみるが、傷んでいるのかどうかわからなかった。
村娘の使っている櫛は年季の入った物で、彼女の髪と同じ色をしていた。昔から愛用しているのだろう、手つきでそれがわかる。
アァリの長い髪をよどみなく掻き分けていく櫛の動きは一朝一夕のものではない。毎日繰り返して、体に刻み込まれている熟練の動きだった。
(なんか、女の子って大変だな)
身なりが仕上がった状態の女性しか知らないアァリはそれを当たり前の事だと思っていた。しかし自分がその立場になってみると、あの姿は当然などではなく努力の結晶なのだと実感した。
服を選び、髪をセットして、この年代ではまだかもしれないが化粧もする。あと、爪なんかも磨いたりするのだろうか。
何故これほどめかしこむ為に研鑽を積むのか。アァリが真っ先に思い付いたのは大事な誰かの為だった。
その人に綺麗だと思われたい。綺麗な自分を見せてその人を喜ばせたい。
そんな健気な想いが自分磨きに勤しむ糧となる。そう思えばアァリも共感ができた。
(ボクもかわいい格好とかした方がいいのかな)
アァリの頭の中では彼の姿が思い浮かんでいた。
レムゥドはアァリを『寂しいから』作ったと言っていた。今でもそれ以上のことは何も言ってこない。
もちろん、わざわざ女の子の人形にした理由も。
彼のことだから何の考えも持っていないかもしれない。だけども、彼が自分に寄り添ってくれる存在を求めているのならば、そういう関係を目指すべきなのかもしれない。
恥ずかしくて、心の中でさえ言葉にするのが憚られる関係に。
「……あんた、顔ころころ変わるわね」
「えっ⁉︎ 今どんな顔してました⁉︎」
「んー、なんか恋する乙女みたいな顔?」
「うぇっ⁉︎ ボクはそんな顔してませんし、恋もしてません! 乙女でもないです!」
「全部否定しなくてもいいでしょ。せっかくだからリボンも付けたげる」
村娘はアァリの長い髪をポニーテールに結い、その根本に緑の布を結んだ。ピンと立たせた布のせいでアァリのシルエットに動物の耳のようなものが追加された。
実際の所、村娘はアァリで遊んでいるだけなのだが、アァリはその事にまったく気づかずに素直にお礼を述べた。
「あの、どうしてここまでしてくれるんですか?」
アァリは率直な疑問をぶつけてみた。
質問をしたものの、答えはすでにわかっている。
それはもちろん彼女の人間性によるものだ。この短時間でアァリが感じた『温かさ』は確かに真心のこもった本物だった。彼女が心優しい女性である事はもはや疑いようがない。
だから質問への返答自体、あまり期待していなかった。彼女のことだ。はぐらかされるのがオチで正直には答えてはくれないだろう。
だがアァリの予想に反して、村娘の返答は悲哀を孕んだ真面目なものだった。
「——あんた見てると思い出しちゃうのよね」
「え?」
「何でもないわ忘れて。……そうね、ここまでする理由かー、年下の子を心配するのがそんなに変?」
「あっいえ、変じゃないです……」
アァリは『なにを?』と質問を返すタイミングを逃してしまった。これでもうあの発言の真相を探る事はできない。
それにしても、
(今のは、なんだろう?)
アァリは困惑していた。
今のは、本来なら決して口には出さないはずの彼女の秘事だ。それが何らかの理由でできた隙間から漏れたのか。それとも彼女の中でギリギリの所で抑えていたものが溢れたのか。
「アァリ。あんたあの後アイツの所に戻ったの?」
「え、アイツ?」
唐突にレムゥド——土くれの魔法使いが話に出てきたのでアァリは肩をすくめた。そっと村娘の顔色を伺う。村娘からとくに黒い感情のようなものは感じられず、胸を撫で下ろした。
「はい。帰りました」
「ふーん、『帰った』んだ」
「あ」
しまった、とアァリは反射的に目を逸らした。
またさりげなく村娘の顔色を伺おうとしたアァリはその前に軽く頭をこづかれた。
「さっきからなに人の顔ちらちら見てるのよ」
「いえ、そんなことは……」
「まあいいわ、もうはっきりさせましょうか。あなたは土くれの魔法使いとどういう関係なの?」
「それは……」
アァリは喉の奥で言葉を詰まらせた。
ただの知り合いと答えてそれで済むとは思えない。ぼやかした答えはほんの一時凌ぎにしかならない上に、村娘のアァリへの不信感が増すだけだ。かと言って自分の正体を正直に言えるわけがない。
アァリは覚悟を決めた。
真実を伝えられないのなら、嘘で通すしかない。
「……実は、ボクはあの人の弟子なんです」
「弟子?」
村娘は動じる様子を見せずに聞き返した。
「はい。ボク、魔法使いになりたくてあの人に弟子入りしたんです」
「へぇ、その割には土くれの魔法使いについて何も知らないようだったけど」
「それは……」
ふり出しに戻った。いやむしろ嘘をついて誤魔化そうとした分、状況が悪化した。
やはり正直に話すべきか。それより嘘について弁解するのが先か。じゃあその後はどうすれば?
アァリが自分のアドリブの限界を感じつつ、それでも頭を悩ませていると、突然、両のほっぺたを引っ張られた。
ぐいっと村娘の顔がアァリの眼前に迫る。
「嘘をついてるのはこの口かしら?」
「……ひゃい、そうれす」
「よろしい」
「すみません——った!」
解放されたほっぺたをさすっていると、今度はおでこを指で突かれた。
「あんたが嘘をつきたいならそれでいいわ。魔法使いの弟子ね? そういう事にしてあげる」
「いいん、ですか?」
「ええ。なにか事情があるってのと、とりあえずあんたが無事ってのがわかっただけで今日はいいわ」
「……」
アァリは頭の中にぽっかりと穴が空いた気がした。
どうやって切り抜けようかとあれだけ頭を悩ませていた問題がこんなあっさりと解決するのか。
いや、解決してしまっていいのか?
「ちょっと? 何ぼーっとしてるのよ。言っとくけど訊きたいことはたくさんあるんだからね」
「……それ、今訊かないんですか?」
アァリは口を滑らした。なんとなく思った疑問が気付いた時にはもう溢れていた。
一先ずは丸く収まりそうだったのに。それを自らの手で御破産にする余計な一呼吸。
「別に嘘が下手なあんたなら焦る事もないでしょ」
違う。ボクが聞きたいのはそんな事じゃない。
「もう会いに来なくなるとか考えないんですか?」
アァリの歯に衣着せない質問に、村娘は虚をつかれたような顔をした。
「その辺は、まぁあんたなら大丈夫でしょ」
何の説明にもなっていない答えが返ってきた。
『あんたなら大丈夫』と言われても、自分は特に何もしていない。
それなのに、彼女は自分の事を信用しているとでも言うのか。昨日会ったばかりで、親切な忠告を得意げに踏みにじり、己の身分を明かそうともしないこんな自分を。
(その言い方はずるいなぁ……)
今日はもうずっと彼女のペースだ。最初から彼女の手のひらの上で転がされている。喜怒哀楽を切り替えるボタンを握られているんじゃないかとすら思う。
一回だけ。一回だけでいいからアァリはその予定調和から外れてみたいと思った。
掌握されているのが嫌というわけではない。自立と言えばいいのか、ほんの少しでも彼女の予想を超える姿を見せたい。
方法は簡単だ。アァリが今までしてこなかった事をすればいい。アァリに経験が無い事は村娘にも予測がつかない。
簡単な事なのだ。最初の一歩さえ踏み出せれば簡単な事。ただ、アァリはその一歩を踏み出さないもっと簡単な道を今まで選んでいた。
「あの! ボクと友達になってくれませんか⁉︎」
「え?」
思惑通り、村娘の意表を突くことには成功した。
だが、まだ終わっていない。
「じ、実は一人ぼっちの知り合いがいて、その人が友達を作れるように協力すると約束したんですが、ボクも実は友達の作り方わからなくて……そ、それであなたで練習というか、なんていうか、その……」
言いたい事を羅列しただけの告白は我ながら実に意味不明なものだった。
オブラートを引き剥がした真実と嘘と本心を載せての、何の算段もない見切り発車はどっちに転ぶのかまるでわからない。
怖い。
この苦しみからずっと逃げ続けてきた。何かを得る為の代償を拒み、何も持っていない事を肯定して誤魔化してきた。
だから何も支払っていないのに居場所を与えてくれた彼の力になりたい。
「——ふふっ、あっははは!」
「……え?」
暗幕がかかりかけていたアァリの視界を村娘の笑い声が照らした。
「はははっ、——ふぅ、ごめん笑っちゃった。そっかー友達か、別にわざわざ言わなくてもよくない? もう私達は他人ではないし」
「あ、えっと」
「ああごめんね、友達になるのはOKよ」
「ありがとうございます……」
アァリは一番聞きたかったはずの告白の返事に空返事をしてしまった。
アァリの関心は胸の奥で感じる感情に向いていた。
何故か彼女の言葉を聞いていると気持ちが楽になる。
村娘はアァリの胸中など知らないはずだ。それでもアァリには、彼女が『その不安は杞憂だ』と言っているように聞こえていた。
やっと、アァリは感情の正体に辿り着いた。
アァリの告白に彼女が応えてくれた事で、アァリは彼女に救われ、そして報われた。
今、アァリが感じている感情は勇気を出した事への対価で褒美だ。
たった一歩で超えられる境界線の向こう側で初めて知る事ができる喜び。こういう経験を得て人は成長していく。逆に言えば、成長する為にはこの味を知らなくてはいけない。
「これからもよろしくお願いします」
アァリは村娘に他人行儀なくらいに深々と頭を下げた後、『あれ?』と怪訝な顔で頭を上げた。
「……あの、名前なんでしたっけ?」
「ミリアよ。よろしくね、土くれのアァリ」