いざ
木漏れ日だけでわかるほど、この世界は今日も快晴だった。
夏の終わりかけとはいえまだまだ深緑が賑やかな森の中を長い髪を揺らしながら歩く少女がいた。
少女の名はアァリ。
見た目は人間の女の子だが、その正体は土くれの魔法使いの作った『土人形』である。
アァリは体を逸らして全身で深呼吸をした。肺の隅々まで新鮮な空気が染みていく。血の通っていないこの体は生命維持の為に酸素を要求したりはしないのだが、呼吸をすることはできた。する必要がないからといって、先天的な癖を止めることなどできないし、こうして大きく吸って吐くのは気持ちがいい。
『さてと、』
アァリはその場にしゃがみこみ、地面に手のひらを押し付けた。目を瞑り、手と地面の接点に神経を集中させる。
(——?)
しばらくして、アァリは戸惑いながら目を開けた。立ち上がってキョロキョロと辺りを見回し、周囲の木の中で一番太い木を見つけると、同じように手のひらを押し付け、目を瞑った。
(——あっ)
何かを感じたアァリの顔がパズルを解いた時のように晴れていった。新たな発見に胸の高鳴りが抑えられなくなったアァリは、手だけではなく全身で木に寄り添う。
(本当だ。レムゥドの言ってた通り——)
自分を作り出した魔法使いの事を思い浮かべながら、アァリは木に体を任せてまどろみに落ちていった。
、、、
アァリは早朝から調理場(レムゥドにとっては作業場)に立っていた。
昨晩は食事も家事も満足にこなしたせいか熟睡だった。そのせいでまだ暗い内に目が覚めたのだが、寝覚めがよかったのと程良い高揚感から二度寝はしなかった。あと、レムゥドより早く起きたのがちょっと嬉しい。
さて、気合を入れて朝ご飯——と言いたい所だが、その前に試したい事があった。
彼が起きてくる前にやってしまわねば。
、、、
『おっ?』
リビングの方から物音がした気がしたので覗いてみると彼が起きてきていた。
アァリはドアの陰からぴょんっと体を出した。
『おはようございます。レムゥド』
『おはよう。早いねアァリ』
彼の名はレムゥド。『土くれの魔法使い』という異名で呼ばれるれっきとした魔法使いである。
レムゥドはゆっくりとした動作で椅子に座った。寝起きだからという訳ではなく、彼は普段からこんな感じのペースだった。長年、森の奥で一人でひっそりと暮らしていたので何かに追われて焦るという経験がないのだろう。
そんなレムゥドの元へアァリは寝覚めの一杯を差し入れた。
目の前に出された湯気の立った黒茶色の液体をレムゥドは覗き込んだ。
『これは?』
『コーヒーです。コーヒー豆を使っていないなんちゃってコーヒーですけど』
マグカップの代わりにコップに似た容器を使用しているため、見た目からして『なんちゃって』だった。
昨日の散策でアァリは密かにコーヒー豆を探していたのだが見つからず、代わりにたんぽぽに似た植物を発見していた。『たんぽぽコーヒー』について過去に調べた事があったアァリは、なんとかこの植物でコーヒーを作れないかと模索していた。
『根っこを細かく砕いたものを焙煎して——まぁとりあえず作ってみたんですけど、正直自信ないです』
『昨日、「乾燥させてほしい」って持ってきた植物の根っこはこれの為か。それにしても弱気なアァリは珍しいね』
『実はボク、コーヒーは甘くてミルクが入ってないとダメなんです』
一応、味見はしたのだが苦味と酸味にあふれた苦手な味がした。所詮、『コーヒー味』が好きなだけのアァリにはコーヒーの評価はつけられない。
『人間は朝起きたら必ずコーヒーを飲むのかい?』
『いえ、人によります。コーヒーは嗜好品なので飲みたい時に飲むんです。ボクは毎朝飲んでたんですけど飲むと目が覚めるんですよ』
ちなみに『たんぽぽコーヒー』はノンカフェインである。
『ふうん、アァリが好きなら美味しいんだろうな』
『さっきも言いましたけどブラックはちょっと……。あ! 熱いですから一気にいっちゃダメですよ! っていうか毛! 入っちゃってます!』
それは大丈夫だよ、とレムゥドは熱々のコーヒーを口に流し込んだ。宣言通り、コーヒーを流し込んだはずの箇所の毛は何故か濡れていなかった。
例によってレムゥドはじっと黙り込んだ。コーヒーの熱さに耐えているのではなく、何かを思考する際、彼はこうして身動き一つしない。
アァリは固唾を呑んでレムゥドの感想を待った。自信のある料理を食べてもらった時も緊張したが、自信の無いものの場合でも別の意味で緊張する。しばらくしてレムゥドは、コーヒーの風味と空気を混ぜるかのようにゆっくりと呼吸をした。
『うん。これ好きかも』
『美味しいですか?』
『この味と匂いと熱さが体に染みる感じがいいね』
『おお……、』
大人だ……とアァリは羨望の眼差しでレムゥドを見つめた。
ブラックコーヒーが飲める。
ただそれだけの事に憧れ、何度も挑戦しては挫折を繰り返した。アァリにとっては超えられない高き壁。その壁の向こうに彼は何食わぬ顔でいた。
レムゥドは二口目をすすった。その様子を『絵になるなぁ……』と呟きながら、アァリはしばらく鑑賞していた。
『本物のコーヒーはもっと美味しいの?』
『——え? あっ、はい! そうですね』
レムゥドが味わっているのは、コーヒー豆を使ったコーヒーの代用のたんぽぽコーヒーを再現した似非コーヒーだ。おそらく『ぎりぎりコーヒーを名乗れる』くらいの品でしかない。
『本物のコーヒー』をレムゥドに飲ませてあげたいし、アァリも飲みたいが肝心要のコーヒー豆が無い。
『ボクはバリスタではないので最高のコーヒーは無理ですけど、コーヒー豆さえあれば最低限のものはなんとか……』
『じゃあ作ろうか、コーヒー豆』
レムゥドは簡単に答えた。
『土くれの魔法使い』である彼にかかれば、土から様々な物を再現することができる。そのクオリティは例えば食べ物の場合、見ても食べても本物としか思えない程高い。味が良くても結局は土なのだが、人間ではないアァリとレムゥドが口にしても何の問題もない。
しかしアァリはレムゥドの軽薄な提案に難色を示した。
『うーん、たぶん無理ですね』
この魔法も万能ではない。
昨晩のことである。明日の朝食用にパンをリクエストしたのだが、レムゥドはパンを知らず作り出すことができなかった。
お肉のような素材そのままな食材はレムゥドにもわかる為作り出せる。調味料もアァリの説明が伝わったものは作り出すことができた。だが、味や匂い、加えて食感や舌触りなどが複雑に絡み合う料理の説明は難しい上に、食事初心者のレムゥドに伝えても理解ができない。
『レムゥドはコーヒー豆を知っていますか?』
『知らない』
『ですよね……』
レムゥドが知らず、アァリが解説できないものは再現することができない。本人曰く、『一度食べた物は覚えている』とのことで、ステーキはもう作り出せるらしい。
アァリはパンっと手を鳴らして、この話題を打ち切った。どうしようもない事について悩んでいても仕方がない。
『とりあえずコーヒー豆は保留で、朝ご飯にしましょう』
朝ご飯と聞いて、ぴょんっとレムゥドの毛が跳ねた。『朝からアレが食べられるのか』と期待に胸を膨らませるレムゥドを、アァリは『朝からステーキは出ません』と一刀両断して調理場に戻っていた。
、、、
朝食はアァリ製のパンだ。レムゥドがバターや牛乳を作れなかったので、乳製品未使用なのだが、意外と形にはなった。それにしても乳製品はわからなかったのにイースト菌は二つ返事で再現してみせた辺り、さすがは研究者である。
おかずはベーコンエッグだ。レムゥドが作り出した鶏卵はアァリの知っている物より一回り大きい、ダチョウの卵のようなものだった。ベーコンは名ばかりで、昨日のお肉の残りに塩で下味をつけて焼いただけのものだ。おかげで見た目はとてもワイルドなベーコンエッグになった。
『『いただきます』』
レムゥドは上品にパンをちぎって口に入れ、二杯目のコーヒーを流し込んだ。アァリはワイルドなベーコンエッグの大味っぷりに思わず笑ってしまった。
『今日は何か予定があるんですか?』
アァリはパンを齧りながら尋ねてみた。バターとまでは言わないのでせめてマーガリンくらいは欲しい。
『そうだね……昨日のベラシュについて調べてみようかと思ってる』
『べらしゅ?』
『ほら、君が襲われかけた例の』
『ああ、あの熊みたいな猪みたいな』
『そうそう。あれはこの辺りでは見かけないはずなんだよ』
それを聞いてアァリはほっとした。あんなものが普段から森をうろついていたら、レムゥドの同伴なしでは屋敷から出られない。
『アァリはどうする?』
『ボクは……』
アァリは逡巡していた。今後の為にもレムゥドの事をもっと知らなくてはいけない。昨日のようにレムゥドの側でいろいろと話を聞けば自ずと情報を手に入れる事が出来る。だが、レムゥド——土くれの魔法使いの情報を手に入れる方法はそれだけではない。
『ボクは森を抜けた先の村に行ってみようと思います』
『……人間に会いに行くのかい?』
レムゥドは探るように尋ねた。自分にはバツが悪い答えが返ってくるとわかっているかのように。
彼は人と関わることにえらく消極的だった。その理由は不明だが、いずれは深く踏み込まなくてはならないのかもしれない。そう考えただけでアァリは気が重くなった。
彼が以前言っていた通り、このまま二人きりで森の奥に引きこもって過ごすのが最善なのでは? と思うことがある。
体も心も何も擦り減らすことなく、ただ毎日、変わらない日常に浸る人生。
そんな悠久の時だと錯覚するような生活を否定したがっている自分が何故いるのかもよくわからない。
わからない事だらけだった。だからこそ今は悪手だろうが、とにかく動くしかないような気がした。
『様子、見に行くだけですよ。友達を選ぶのは悪いことじゃないですから』
アァリは『あくまでも自分はレムゥドの味方』だと強調して言葉を選んだ。
それが伝わったのか、意外にもすんなりレムゥドは首を縦に振った。
『わかった。気をつけて行っておいで。道がわからなくなったら大地に聞けばいい』
『大地に?』
『アァリなら出来るはずだ。アァリならね』
、、、
「——あれ? 寝てた?」
木にもたれかかっていたアァリは目を醒ました。眠っていたというより集中し過ぎて意識を持っていかれた、というのが適切な気がした。
『大地に聞けばいい』
詩的なニュアンスの助言だと聞いた時は思ったが、こうして木に触れていると実にストレートな助言だと考えを改めた。
木に触れると、そこから木に内包されている大地のエネルギーが自分の体へと流れてくるのがわかった。『木から大地のエネルギーを分けて貰う』という形で木と繋がっている。
木から離れたアァリはもう一度地面に手を付いた。
コツは掴んだ。あとはさっきの没入感を応用する。
この腕は大地のエネルギーが通るパイプだ。そして必要なのはイメージ——パイプにこちらから自分の意識を送り込むイメージだ。
(——よし)
アァリの意識だけが地中の大地のエネルギーに溶け込んでいった。地下深くの水脈の中に飛び込んだような気分だ。
地中を意識が高速で潜航する。その最中、地底湖のような大地のエネルギーの溜まり場も感じ取れた。
(これ、楽しいなぁ——)
重力から解放されたかのような身軽さに心が躍る。
もっとこの地中遊泳を満喫したかったが、お目当ての場所はすぐに見つかった。
「——あっちか」
アァリは大地のエネルギーに引かれるように歩き出した。
森を駆け抜ける。視界の光量が徐々に増えていく。
完全に森を抜けた時、木漏れ日は直射日光へと変わった。そして、そこには——
「こんにちは。土くれのアァリさん」
暫定的ラスボスが立っていた。