出発
村娘の制止には聞く耳を持たずに森へと飛び込んだアァリは無数の木と木の間を駆けていた。
さっきは気にならなかった足の裏の感覚が伝わってくる。不思議と痛みはないので邪魔にはならず、枝や葉を踏むたび自分ががむしゃらにやってる自覚ができて気分が上がった。
(舞い上がってるなぁボク)
正直どこに向かえばいいのかわからないのに、まるで引き寄せられるようにアァリの足はぐいぐい前に進んだ。
見覚えのあるような、やっぱりそうでもないような一帯を抜けると目的の我が家が見えた。
『ただいま戻りました!』
勢いそのまま扉を開けて中へ飛び込んだ。
『おかえり』
『うわぁっ!』
扉を開けたすぐ先に彼はいた。アァリは減速が間に合わず、彼の元に抱きつくように突っ込んだ。彼の体は少しも後退することはなく、クッションのような柔らかい感触でアァリを受け止めた。
『す、すみません』
『気分転換は出来たみたいだね。少し落ち着いたらむこうで話そう』
『はい。ボクも話したいことがあるんです』
大きな彼からは草原のようなにおいがした。
汚れた足の裏を洗い、アァリは朝と同じテーブルに着いた。水に濡れても足は泥になって崩れたりはせず、アァリはほっとした。
アァリはまず、森を抜けた先で村娘と出会った事を話した。
『彼女はたぶん、あなたのことを土くれの魔法使いと呼んでいました』
『そうか、土くれはひどいな……まあいい。その呼び名は私のことで間違いないね』
『じゃあ、ボクの体も土で……?』
そうだよ、と魔法使いは肯定して、アァリの体の説明を始めた。
魔法の専門家の話はとてもアァリに理解できるものではなかった。なんとかわかる所だけまとめると、『アァリの体はシリコンと粘土に近い特殊な土で作られている』、『髪の毛も繊維状にした土で服も同じ素材で出来ている』ということらしい。
『信じられないです……』
アァリは手のひらをもう一方の手の爪で掻きながら呟いた。
説明を受けてもまったく自覚できなかった。
この体から感じる熱は体温ではない。
胸に手を当てても何の脈動も感じない。
自分は土人形なのだ。
(これは、生きているって言えるのかな)
アァリはそれが一番怖かった。だけど『精神』という考え方のないこの世界では、この悩みは理解されないと思い、口には出さなかった。
『不安かい?』
彼はアァリの心を見透かしたように声をかけた。
『君の体は私が作ったんだ。信用してほしい』
『……それはこの体があなたとの繋がりだと思ってもいいという事でしょうか?』
『うん、いいよ』
アァリは彼に見えないように口を緩ませた。
誘導して引き出したものだが今はこの甘い言葉に助けられていよう。
『あの! 今更なんですがあなたは本当に魔法使いなんですか!?』
アァリは村娘から聞いた時から密かにウズウズしていた事を訊いてみた。やはりこれが異世界に来た醍醐味だろう。
話題の魔法使いはアァリのテンションとは裏腹にいつも通りの調子だった。
『魔法を使う者って意味ならそうだろうね。私の場合は土くれの魔法使いか』
おお、とアァリはキラキラと目を輝かせた。でも『土くれ』というよりは『毛むくじゃら』な気がする。
『確かにこの辺にいる魔法使いは私くらいだけれどもそんなに珍しいかい?』
『そりゃあもう、魔法使いなんてみんなの憧れですよ!』
『君の世界にもいるだろう?』
『いませんよ! いないから憧れなんです! あっちでは奇跡を「魔法みたい」って言うくらいなんですから! それだけすごいんですよ魔法使いは!』
『奇跡か……、それは確かにすごいね』
彼の毛むくじゃらの中からゴウン、と何かが動く音がした。照れているのだろうか。
『それでですね——』
『待った』
テーブルに身を乗り出して話していたアァリの口を彼の人差し指が塞いだ。
『そろそろ私からも質問をさせてくれないか。時間はたっぷりあるんだ焦らなくていい』
『はい……すみません』
諭されたアァリは立ち膝の状態で乗っかっていた椅子にちょこんと座って、乱れた前髪を指先で整えた。一旦落ち着くと、さっきまでの舞い上がっていた自分が少し恥ずかしい。
『私が一番気になっている事は君が元いた世界の話だけど今はそれよりも優先する事がある』
異世界に対する興味は異世界の住人も同じで、気になっていたらしい。
『君はあの者達が何を言っているのかわかるのかい?』
『あの者?』
思わず聞き返したが、彼の言わんとしていることはわかっていた。アァリがこの世界で会話をした相手は彼を除けば一人しかいない。
『人と話す事ができるのかい?』
『ええ、あなたはできないんですか?』
できないからこんな質問をしてくることくらいわかってはいる。しかしアァリには彼の言葉も村娘の言葉も同じものに聞こえるし、相手に合わせて自分が言語を使い分けている自覚もない。
『私には人が何を言っているのかわからない。他の動物よりも音の種類が複雑な事はわかるんだけど』
『そうだったんですか。ボクにはあなたも人の言葉を喋っているように聞こえます』
彼から返事がなく、少しだけ沈黙があった。考えているのだろう。
考えが纏まったのか彼は小さく頷いた。
『私の人形に君という人に近い精神が入ったせいだと思う。「魔法使いと人の中間の状態」というのが一番わかりやすいね』
渡りに船だとアァリは思った。
人と魔法使いの中間。
まさしく自分は人間と魔法使いの架け橋になれる存在ではないか。
これが運命ではないというならなんだと言うのか。
『あの、ボクのやりたい事、聞いてくれますか?』
アァリは改まって魔法使いを見つめた。その目は夢見る子供のように希望に溢れていた。
『あなたは人と仲良くなった方がいいと思うんです』
『でも、私は人の言葉はわからないよ?』
珍しく彼は焦ったようにすぐ言い返してきた。
『ボクがいます。ボクならあなたの言葉を人に伝えられますし人の言葉をあなたに教えてあげられます』
……私は、と彼は独り言のように呟いた。心なしか彼が少し俯いてるように見える。
『私は君がいればそれでいいんだけどな』
その言葉を聞いた瞬間、アァリは胸の奥が痛んだ。
喉に何かが詰まった時のような不快感がその傷口から流れてくる。
『……少しずつ、頑張ってみませんか? ボクも中身は人間ですからボクで慣れてからっていうのは?』
『それなら……』
彼は渋々、了承した。
アァリはなんだか彼のことを裏切っている気分になった。
大切な事ではあるし、彼のためになると思っている。しかしアァリの提案は、それを成し遂げるまでの辛苦を味わえと言っているのと変わらない。しかもそれを彼が孤独を払拭するために生み出したモノが言うのだ。
(本当にどの口が言っているんだか……)
アァリは沈んだ気持ちに蓋をした。言い出しっぺが早々に後悔するなど無責任にも程がある。
『えっと、じゃあ何から始めましょうか。そういえば名前をまだ聞いてなかったですね。「土くれの魔法使い」じゃ呼びづらいですし』
『名前?』
はい、とアァリはできるだけ明るく返事をした。
『名前はないよ。私のことを呼ぶ者がいないもの』
アァリははっとした。
持ち合わせていた常識は簡単に飛び越えられた。
呼んでくれる人がいないのなら名前が無くても不便はしない。盲点だった。ふと親にあたる人などはいないのかと気になったが、今追及する事ではないので飲み込んだ。
どうしようかとアァリが考えていると、彼の毛が風に吹かれたように小さく揺れた。
『私は君にアァリと名付けたね?』
『はい。ボクはアァリです』
『同じように君が名付けてくれないか? 私の名を』
『えっ、いいんですか?』
『頼むよ』
まさか自分が誰かに名を付けるとは思ってもみなかった。それもおそらく年上で、想像もつかないような人生を歩んできたであろう人に。
頼まれたのならば全力を尽くすしかない。
しかし、いざ考えてみるとまるで取っ掛かりが得られない。
(ペットに名前を付けるのとは違うしなぁ。というかボクはペットを飼ったことあるのかな?)
それっぽいものを思いついても、何をもって決心すればいいのかがわからない。ここで決めた名前を彼は一生名乗っていくのだ。取り返しのつかない後悔だけはしたくない。
うーんと唸り声をあげるだけのアァリを見かねたのか、彼は呼び水にこんな質問をしてきた。
『アァリは土と聞いてどんなものを思い浮かべる?』
『そうですね……魔法使いらしくファンタジーならゴーレムとか、身近なものなら泥団子とかですかね』
『ゴーレムに泥団子か……』
どういうものか知ってるんですか? と尋ねる前に彼は『よし』と何かを決心した。
『「ゴーレム・ドロダンゴ」という名はどうだろう』
『ダメです』
ぽかーんとしている彼にアァリは念のためもう一度却下の意思を伝える。
『ゴーレムはいいとしても泥団子なんてそんなの名前としてふさわしくないです。あなたの名前を一番呼ぶ身として一切の妥協はしませんから』
『そっか……』
しょんぼりしている気がする魔法使いを見ていると良心が痛んだが、ドロダンゴはない。それだけは自信を持って言える。しかし、せっかく彼がくれた糸口をこのまま切り捨てることはできない。
『ゴーレム・ドロダンゴ、ゴーレム・ドロダンゴ、ゴーレム・ドロダンゴ……ゴーレム・ドロ——』
『……なんだいアァリ』
『名前を呼んでる訳じゃないです。反応しな——』
ふと思いついた。
『——「レムゥド」はどうですか?』
彼の体がピクンと跳ねた。今まで一番わかりやすい反応だった。
『いいね。趣きがある名前だ』
アァリの顔が勝手に笑顔になった。胸の内が暖かくなっていくのが抑えられない。
『これからよろしくお願いします。レムゥド』
『こちらこそ、アァリ』
こうして『土くれの魔法使いのレムゥド』と『土人形のアァリ』の生活が始まった。