はじめまして
目を覚ますと見覚えのある部屋だった。
半開きの目でぐるっと見渡した後、アァリは一応、手で目を擦ってみる。やはり目の前の光景は変わらず、視界には長い前髪がチラついている。
(夢……なわけないか)
時間帯は朝のようで、窓からは健康的な日差しがこれでもかと注がれていた。
昨日はよく見えなかった部屋の細部まで光が届いており、アァリは改めて部屋の中を見渡した。机に椅子、棚と基本的な家具は揃っていた。当然といえば当然なのだが家電製品らしきものは見当たらない。一見、普通の部屋に見えるがよく見ると机の上や棚に用途がわからない雑貨が並べられてあり、その不思議な存在感が童話の中に出てくる部屋のような印象を与えてくれた。
(ほんとに異世界にいるんだなぁ。ってもう朝なんだからいつまでもベットにいられないや)
アァリはベットから降り、毛布やシーツを整えてから部屋に一つだけある扉に向かった。
ドアノブをひねり、少しだけ戸を開けて中を覗き込む。
(あっ起きてる)
向こうはリビングだろうか。隣の部屋は一回り広い作りになっており、その中央に置かれたテーブルに彼はいた。家具などのサイズが大きな彼に合わせてあるせいか、熱にうなされた時のような奇妙な歪みを感じる。
アァリは静かに不思議な世界への扉を開いた。
『お、おはようございます……』
アァリが声をかけると、毛に覆われた頭がゆっくりとこちらを向いた。
『おはよう。調子は良さそうだね。さあ座って』
『は、はい』
アァリはぎこちなくテーブルに着いた。椅子のサイズが彼の体に合わせてあるせいで、座るとアァリの足が床から浮いた。
『君の精神とその体はうまく馴染んだかな』
彼は昨日覚えた単語を使って訊いてきた。
『たぶん大丈夫です。元の体とだいぶ違いますけどそのうち慣れると思います』
『それはよかった』
『ありがとうございます』
一切の威圧感を含まない声にアァリの緊張もほぐれていった。
『あの、今は何をされていたんですか?』
何気ない質問をしてみた。
二人に挟まれたテーブルの上には何もない。
アァリには彼がただ何もせずにじっとしているようにしか見えない。お湯が沸くのを待っているのかとも思ったが、それにしては閑静すぎる。
『何を……か』
『はい』
『…………うん』
かすかに相槌を打ったのを最後に、彼は黙ってしまった。アァリのつま先がたまに床を擦りながらふらふらと宙を泳ぐ。
『あの、朝ごはんとか……』
『………………』
『コーヒーとか……』
『………………………………』
『あの、もう大丈夫です……』
『……何も、していないかな』
『……そうですか』
『自分だって何もしないでぼーっとしている時くらいあるじゃないか』とアァリは深く追及しようとした自分を戒めた。しかし、何もしていないのならば今は一体何の時間なのか。
『ボクはこれからどうすればいいんですか?』
アァリは率直に聞いてみた。
昨日、彼は『寂しい』と言っていた。それに対するアァリの答えは一つ、『彼の側に居る事』だ。
しかし彼の思い描いてる二人の関係がどういうものなのかはわからない。この質問はその理想を具象化する為のものだ。
彼は『そうだね、』と切り出した。
『何もしなくていいかな』
またか、とアァリは心の中でツッコんだ。
『何もしないというのはちょっと困るんですが……』
『どうして? 難しいことはなにもないんだよ』
『ボクはあなたにこの体を作ってもらったのでそのお礼をしたいんです。あなたの力になりたいんです。家事でも雑用でもなんでもします』
『………………』
彼はまた考えこんでしまった。
『何もしなくていい』というのはアァリにとってはまったく予想していない返答だった。もしかすると彼の望んだ関係は文字通り『人形とその持主』なのかもしれない。そう考えただけで、アァリは頭の中に黒い霧がかかったような気がした。
『わるいけど君にやってほしいことは特に思いつかない。急ぎの用事も無いし手が足りないわけでもないんだ。もう少し考えてみるから時間をくれないか?』
『……はい』
穏やかな朝の中での二人の初めての会話はほんの少し雲行きの怪しいものとなった。
、、、
彼に勧められ、アァリは建物の周りを散歩することにした。
廊下を歩きながら先程の会話を思い出す。
『せっかく異なる世界に来たのだからいろいろ見てくるといい』と彼は言っていた。アァリはそれが彼が自分を気遣っているように聞こえ、ワガママを言ってしまったかな、と申し訳なくなった。やはり自分がすべき事は自分で探すべきなのかもしれない。
(前向きにならないとダメだよね! とりあえず日の光でも浴びて気分転換しないと)
歴史を感じる厳かな両開きの扉を開けてアァリは異世界の空気に触れた。
視界が緑で埋め尽くされた。右から左まで見渡しても立派な木々が途切れない。人の手の入っていないありのままの自然を見ただけで、アァリはなんとなく空気が美味しく感じた。
葉の間から差す光に誘われるように空を見上げると、今度は青で埋め尽くされた。
(……、)
ぽかんと口を開けて空を仰ぐアァリは、はっとして我に帰った。気分転換は一瞬で片付いた。
アァリはとりあえず建物の周りをぐるりと一周しようと思ったが、周りの木々の枝が建物まで伸びていて通ることが出来ない。やはりある程度は手を加えないと自然も人間が過ごしていく上での妨げになってしまうらしい。
(ちょっと森の中に行ってみようかな?)
アァリは森の茂みの中からどうにか通れそうな場所を見つけて歩き始めた。女の子の服には詳しくないので正確な名称はわからないが、現在着ているワンピースのような服ではこのような道なき道は進みづらい。
少し進んだ所でアァリは振り返った。やっと見ることが叶った建物の全貌はイメージ通りとそうではないが半々といったところだった。
中で感じたほど大きな建物ではなく、普通の一軒家と館の中間くらいの大きさだった。外観は壁に這った枝や所々黒ずんだ屋根が目立ち、煙突からは白い煙が出ているものの、とても人が住んでいるとは思えない。キツい言い方をすると廃墟同然だった。
実際人は住んでいないんだけどね、とアァリは小さく笑い、また森の中を進み始めた。
、、、
しばらくすると整備された道に出た。
整備されていると言っても、もちろんアスファルトなどで舗装されてるわけではない。草が減り、轍が現れた程度なのだが、一目で道だとわかる道を見つけただけでアァリの表情は明るくなった。
「ねえ、ちょっとあんた」
「え?」
服に付いた葉っぱなどを払っているとどこからか声をかけられた。
アァリが声の方に視線を向けると、そこにはアァリと同い年くらいの女の子が立っていた。ショートカットの赤毛が目立つ、活発そうな印象を受ける子だった。
「ボクですか?」
「あんた以外に誰がいるのよ。そこの森は危ないから近づかない方がいいわよ」
「えっ、そうなんですか。あの、あなたは?」
「私はこの先の村に住んでる者よ」
そう言って彼女は自分の後ろの方を指差した。よく見ると遠くの方に煙のようなものが見える。
「あんたこそ見ない顔ね。というか——、」
「ちょっ、あの、」
村娘はアァリにぐいっと近づくとアァリの全身を舐め回すように見始めた。
アァリはどうすればいいのかわからず、ただされるがままに立ち尽くした。
「汚れてるけどいい生地……、髪も見たことない色……、村どころかこの辺の土地の子じゃないみたい……」
「えっと……」
確かにその通りなのだが、人ですらない上にまさか異世界から来たなんて言うわけにはいかない。頭があまり回らなかったアァリは、正直に森の方から来たと伝えた。
「えっ!?」
あっ怒られる。
大きな声を出してこちらに『信じられない』という視線を送る彼女を見て、アァリは冷や汗をかいたような気がした。
危ないと忠告された直後にそれを破ったという内容の発言だ。バカと罵られても仕方がない。
「そっか、あなた逃げてきたのね!?」
「はい?」
今度はアァリの目が点になった。
「隙を見つけてやっと逃げ出して来たんでしょ!? だからこんな寝巻着のままで、しかも裸足だし……、よかった、ケガとかはしてなさそうね。でも顔色は良くないみたい」
これ寝巻着なんだ。とか、裸足なの今気づいたや。とかいろいろと思ったが最優先事項はそんなことではない。
アァリは自分の体をべたべたと物色する彼女の肩を一旦抑えた。軽く落ち着いた所で彼女から少し距離を取った。
「待ってください誤解です! ボクは逃げてきたわけじゃありません! というか別に捕まってませんし、一体何から逃げるっていうんですか!?」
「何って……」
次の瞬間、アァリは彼女の目の色が変わったのを確かに感じた。
アァリの身の心配をしてくれた暖かみのあるものから、冷たく、憎悪を感じるものに。
「あの森にはね、土くれの魔法使いがいるのよ」
「魔法使い……?」
アァリの頭に彼の姿が浮かんだ。
おそらく彼女は彼のことを言っている。
「魔法使いはその、どういう人なんですか?」
アァリは言葉を慎重に選びながら聞いてみた。もはやこちらを睨んでいる彼女が、アァリは少しずつ怖くなってきていた。今の彼女を下手に刺激するわけにはいかない。
「人なんかじゃないわよアレは」
辛辣な言葉が返ってくる。
「土を操る魔法を使うらしいけど、森の奥に引きこもって好き放題よ。強い力を持ってるみたいだから私たち人間にはどうしようもないし……ほんとに気味が悪い」
「土……」
アァリは彼の言葉を思い出した。
彼はアァリのことを『自分が作った人形』だと言っていた。彼女の言っている事が本当なら、アァリは人形は人形でも土で出来た『土人形』ということになるのだろうか。
この柔らかい肌の下には真っ赤な血が流れているのではなく、力を入れると簡単に崩れるような干からびた土があるのかもしれない。そう思うと彼女が「気味が悪い」と言った理由もわかるような気がした。
でも。
それでも。
「あの、本当に悪い人なんですか?」
「……」
村娘は何も言わず怪訝そうな顔でアァリをじっと見つめる。
「ボク、たぶんあなたが言っている魔法使いに会いました。でも酷いことは何もされていません。あの人の事はまだよく知らないですけどそんなに悪い人じゃないと思うんです」
アァリが寝ていたベットのシーツには皺一つ無かった。
あれを用意してくれたのは誰だ。
何もかも違う世界に来て取り乱したアァリを受け止めてくれたのは誰だ。
昨日知り合い、今朝何気ない挨拶をしただけの仲だがアァリは確かにあの人の側が心地良いと思った。
根拠はたったそれだけ。
彼は悪い人ではない。
「だから——」
「何も無いのならなんとも思わないわよ」
彼女の低い声がアァリをねじ伏せた。
もう言葉だけでは何も覆す事はできないとアァリは口を結んだ。
何があったのかはもちろん知らない。その何かが小さいものでも軽いものでもないのは想像がつく。簡単に解けるわだかまりではないだろう。
だからこそ乗り越えなければならない。
「あの、今日はありがとうございました。おかげでボクのやりたい事が見つかりました」
アァリは早口で言いたい事だけを言い、深く頭を下げた後、踵を返して森へと向かった。
急な展開に戸惑った村娘は反射的にアァリを呼び止めた。
「ちょっと待ちなさい! あなた名前は!?」
アァリは見せつけるように笑顔を作って名乗った。
「アァリです。土くれのアァリ」