初夜
(——ここは?)
目を覚ますと知らない部屋だった。
部屋の中を見渡してみるが薄暗く、棚や家具などの輪郭がぼんやりとわかるだけだった。窓からはオレンジ色の光が差し込んでおり、もう日没が近いようだった。
(ええと確か、ボクは塾に行ってそれから——)
自分の事を思い出そうとしたが、辛うじて浮かんだ光景にはもやのようなものがかかり、霧散してしまう。すべてではないが記憶喪失なのかもしれないとボクは思った。
とりあえずボクはシワ一つ無いベットから体を起こしてみた。頭の動きに合わせて長い髪がゆっくりと揺れる。
(……長い髪?)
ボクは自分の視界をちらつく細長い物体がなんなのか理解出来ず、視線を泳がせた。
長さは腰の辺りまである。自らの手で触ってみても、それは紛れもなく髪の毛で頭皮から生えているものだった。
(えっと、ボクは『ボク』のはずであって、こんなに髪は長くないはずで、そもそもこの体は……)
薄暗くてよく見えないが自分の手だと思っていたものは小さく、細く、柔らかかった。どう見ても使い慣れた自分のものではない。
(……)
その事実を直視した上で、ボクの視線は毛布の下にある下半身へと移動していった。
自然と内股となっていることを感じてボクは唾をごくりと飲み込んだ。
現在、この薄暗い部屋にいるボクの中での最大の謎はこの毛布の中の深淵にある。
ボクは毛布に手をかけ、勢いよくめく——らなかった。見てはいけないという気持ちと見たら耐えきれないという気持ちがボクの勇気を奪った。
確信には至らなかったが、ボクの予想はほぼ間違いなかった。
この体は。
これではまるで——
『起きたかい』
『うわぁっ!』
ボクは淡い闇の中からの声に反射的に視線を向けてしまった。
相変わらずぼんやりとしたシルエットしか見えないが、それは明らかに人ではなかった。
身長はニメートルはある。首から下は黒いローブを羽織っており、詳細はわからない。頭はてっぺんから首のつけ根まで動物の毛のようなもので覆われており、目も口も鼻も耳も見つけられなかった。そのシルエットは動物とはかけ離れているが、強いて言えばカピバラに似ている。
ボクはまた唾を飲み込んだ。
思わず見てしまったがこれは心の準備をしてから見なくてはいけないものだ。
見知らぬ部屋のベットに寝ていた事まではまだよかった。だが、この存在はボクの常識の外で空気を吸っている存在だ。
どうすればいいのかわからなかった。得体の知れないモノと出会うと本当に困惑して動けなくなるのだと、ボクは呑気なことを考えていた。
得体の知れないそれはギシギシ、と音を立てながらボクに近寄る。
ローブの中から手袋をはめた手が現れ、ボクの顔へと伸びてきた。ボクは何もできず、ビクッと体を震わせるのが精一杯だった。手はボクの頬に添えられ、ボクの焦点はどこにあるのかわからない目と無理やり合わせられた。
『意識ははっきりしているかい?』
『あ、はい。大丈夫……です』
『そう』
たったそれだけのやりとりをして得体の知れないモノの腕は引っ込められた。
何事もなく、ボクは肩の力を抜いた。安心したらそれはそれでどうすればいいのかわからなくなった。
(意外と大丈夫なのかな?)
ボクはきょとんとした顔で彼(?)を見つめていた。
彼は部屋の隅にあった椅子をベットのそばまで運び、腰掛けた。
再びローブの中から現れた手を軽く振るうと部屋の中に明かりが灯った。光っているのは細長い棒状のもので、アイドルのライブなどで光っているものに似ていた。LEDなどとは違うロウソクのような柔らかい光は、強いていえば間接照明のようなもので部屋の隅の薄暗さは変わらない。それでも先程よりは部屋の様子も目の前の彼もよく見えた。
やはり動物の毛のようなものに覆われた頭部に目や鼻のようなものは見当たらなかった。ただ、その膨大な毛と毛の隙間、肌が見えるはずの部分にボクの視線は吸い込まれた。
最初は毛の影になっているだけだと思ったが、そこには夜の空のような闇があった。
わずかな隙間から見えるだけのはずなのに遠近感を麻痺させる広大な空間。ブラックホールは人の意識すらも吸い込むのだろうか。
『——ァリ、アァリ』
『え?』
彼が何かに呼びかけるように呟いているのを聞いてボクは我に帰った。
『アァリ? アァリってなんですか?』
『君のことだよ。君はアァリだ』
『アァリ……』
アァリはそう言われてもピンとこなかった。
『ボクはアァリなんですか?』
『? そうだよ君は私が作ったアァリだ』
アァリは彼の言った事が理解できず眉間にしわを寄せた。
彼はそんな様子も気にも留めずに話し続ける。
『君は人形なんだ。今回は自信があるのだけれどどうかな。なにか不備や不調はあるかい?』
『ちょっと、ちょっと待ってください。先にボクから質問してもいいですか!?』
『……うん。いいよ』
彼は嫌がる様子もなく二つ返事で承諾した。
少し間があったのだがアァリはそれどころではない。
『作ったってこの体をですか?』
『ああ。可愛い見た目になるようにしたんだ』
『そうじゃなくて、その、ボクの元の体は……?』
『元の?』
『えっと、前のやつです』
『前?』
『……』
『……?』
言いたい事が伝わらない。しかも言葉の端々から嫌な予感がしてアァリは更に冷静さを欠いていく。
『だからこの体はボクのものとは違うんです! ボクにはボクの体があって、それでその、気づいたら女の子みたいになってるし、とにかく元の体がどこにあるか教えて下さい!』
アァリが声を荒げても彼は毛の一本も微動だにしなかった。
『教えてくれ』とは言ったが正直、その答えを聞くのが怖い。もしも恐ろしい答えが返ってきたら、そう考えただけで涙が出そうになる。
うつむき、目の前が真っ暗になったアァリの頭に、ぽんっとなにかが置かれた。それは頭頂部からうなじにかけて何度も撫でてくれた。
『アァリ、落ち着いて。君の言ってる事は正直わからない。君は私が作った、私の手で生み出された命なんだ。他の体なんてものはない』
『違うんです。ボクは——!』
アァリは今、自分の頭の中で渦巻いている事をすべて話した。順序も要点もぐちゃぐちゃでえらく間延びした説明だったが、彼は黙って聞いていた。
アァリは相槌の一つもしてくれない事には少し不安になったが、なんとなく彼の真剣な視線を感じて最後まで話しきった。
『——つまり、私の作った人形にこことは別の世界に住む君の精神が乗り移った、ということかな』
『たぶん、それがいちばん辻褄が合うと思います』
『うん、精神……か』
彼が考え込むように黙ったのを見て、アァリはまた不安を煽られた。
『信じてくれるんですか?』
『信じるよ』
彼はアァリの方を見てはっきりと言った。
『君がさっきから言っている精神というものだが、ここではそのような考え方はしないんだ。体と精神を区別したりはしない。それが常識なのにさっき目醒めたばかりの君がその常識に囚われない考えを持ってる。異世界から来た証拠だ』
『……ありがとうございます』
大きく吸い込んだ息を吐くように、心の底から感謝の言葉を発した瞬間、大きな目眩がした。アァリは手をついてふらつく上体を支えようとしたが、先に彼の両手に支えられ、そのままベットに沈められた。
『あの、すみません』
『さっき目覚めたばかりなんだ。無理はいけない。今日はもう日も完全に落ちた。このまま休みなさい』
『……そう、します』
言われるまでもなくすでに限界だった。この数時間でどれだけ疲れたのだろうか、もう目蓋を開けていられなかった。
『なんで……』
アァリは丁寧に毛布をかけてくれる彼を見つめながら、最後の力を振り絞って尋ねてみた。
『なんで、ボクを作ったんですか?』
毛布をかける手が一瞬止まり、毛に覆われて見えない口と共に再び動き出した。
『寂しかったんだ。一人でいることが辛くなってしまった。だから——』
最後まで聞くことができずにアァリの意識は落ちていった。
自分が眠ってしまった事に気づかず、アァリは夢の中で答えた。
あなたも、そうなんですね。