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氷上のシヴァ  作者: 天上杏
第五章 Skater 霧崎洵
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第1話 傷跡

 俺の胸には傷がある。


 薄い一本の橙色の線。

 誰が見ても傷とは分からない。

 だが、生きている限り共に在り続ける傷。


じゅん君、お疲れ様。今日が最後のフォローアップ健診だよ。今までよく頑張ったね」

 松井先生は柔和な笑顔で向き合った。


「どう?最後に訊いておきたいことは」

「……この傷が」

 言いかけて、胸に手を当てる。


 痛むと言ったら、笑われるだろうか。

 物心付くより前の手術痕が、十五年越しに痛んだとしたら。


「痕が気になる? レーザーで消すこともできるよ。年頃だから気になるよね。彼女が見たらどう思うか、とか」

 先生の軽口に切り出すタイミングを見失い、微苦笑を浮かべて、そうですね、と呟いた。


 これだって、本当は先生なりの気遣いだと俺は知っている。

 汐音しおんのことがなければ、こんな年までフォローアップ健診が続くこともなかったのだ。


「そういや、世界ジュニア、三位だったってね。おめでとう。僕は生憎手術中だったから見られなかったけど。……それにしても、1500g足らずで生まれた君が、こんなに立派になるとは」

 先生は仔猫を包むように両手を丸めて、赤ん坊だった頃の俺の大きさを示してみせた。


「ありがとうございます……本当に、先生方のおかげです」

「後でNICU《エヌ》にも顔を出してあげて。皆喜ぶと思うよ」


 外来を出てNICUの病棟へ行くと、生まれた時から俺を知っている看護師長の藤嶋さんが出迎えてくれた。


「わあ、これが世界ジュニアの銅メダル! ねえ、洵君、一緒に写真撮っていい? 医療センターのブログに上げたいの」

「もちろんです」

 俺はメダルを首に掛け、面会ルームの前で並んで写真を撮った。


「本当におめでとう。……あなたはここの、いえ、全てのNICU卒業生の希望よ」

 藤嶋さんのしわの寄った細い目には柔らかな光がたたえられていて、俺個人というより、もっと奥にある命の集合体にいつくしみを向けているように見える。


「ありがとうございます」

 頭を下げた俺の横でエレベーターがチンと鳴り、バギー型車椅子に乗せられた男の子とそれを押す母親が降りてきた。

 同じフロアのリハビリ科に向かうのだろう。

 脳性麻痺の子だろうか、鼻と喉にはカニューレが取り付けられていて、大きく見開かれた目は天井を見つめていた。


「きっと、一番喜んでいるのは汐音ちゃんかもね」

 俺を引き戻すように、弾みのある声で藤嶋さんが言った。


「……汐音なら、金メダルだったかもしれない」

 俺が自嘲気味に呟くと、

「まあ!じゃあ、来年は金メダルを取ってこないと!」


 藤嶋さんは喝でも入れるかのように俺の肩を叩いた。

 はい、と俺は少し笑った。


 窓越しに保育器が見える。

 名札の下には出生体重1046gと書かれてあった。

 タオルで包まれた赤ん坊は埋もれそうなほど小さく、鼻には管が通されていた。

 汐音も、あれくらい小さかったのだろう。



 生まれた時、俺は汐音より500gも大きかったそうだ。

 母さんのお腹の中にいた時から、俺は汐音の何かを奪っていたのだろうか。


「男女の双子は必ず二卵性だから、血や羊水を奪うことなどありえない」

 父さんは言うが、拭いきれない疑惑が心に影を落とす。


 その影は、汐音が死んだ夜に一滴の墨汁のように産み落とされ、汐音が生きた時間が遠ざかるにつれ、心の渦を黒く濁らせていく。


 心臓に問題があったのは、俺だけだった。

 生後十日目の手術で、成功するとは限らない手術だったと聞く。

 だけど、俺は生き残った。


 一方、汐音には喘息があった。

 けれど、それは治療しながらスケートを続けられる程度の症状だった。

 だが、汐音は死んだ。


 なぜ俺ではなく、汐音だったのか。


 何かが一つ違えば、汐音は俺であり、俺は汐音だった。

 何が俺たちを分けたのか。


 ちくり、と引きれるように胸の傷が痛む。

 反射的に手を当て、思わず凝視して確かめるが、痛みはもう消えている。

 幻痛、という物は存在するのだろうか。

 だが、たとえ痛みが幻だとしても、痛むのならそれは痛みだ。


 俺はスケートで一度も汐音にかなわなかった。

 だけど、それでいいと思っていた。


 汐音のスケートは俺が引き継ぐ。

 俺が汐音の歴史の続きを紡ぐ。

 俺のスケートは、汐音が生きていたら捧げたであろう世界に捧げる。

 ずっと、そう思っていた。


 ……あいつに出会うまでは。

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