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氷上のシヴァ  作者: 天上杏
第三章 Ruiner 朝霞美優
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第24話 この世全ての氷ごと

「……ねえ、どうしてフィギュアをやめたの? 訊かれたくないのは分かってるのよ。でも、戻るつもりなら、手放した理由も聞かせて」


 刀麻君は一瞬視線を逸らした。

 けれど、私は彼の目を見上げて離さない。

 前を向いているのは私。

 ぎゅっと手を握り、エッジで強く氷を捉え、進行方向へとリードする。

 刀麻君は観念したように短く息を吐き、切なげに口元を歪めた。


「笑わないって約束する?」

「もちろん」

「……夢を、見たんだ」

「夢?」

 刀麻君は頷く。


「俺は、深い森で道に迷ってた。暗闇が怖くて、とにかく光を探した。夢中で走って、湖にたどり着いたよ。そこは、天然のスケートリンクみたいに一面凍ってて、月の光できらきら輝いてる。……でも、足元を見ると、履いてたはずの靴が無いんだ。途方に暮れてると、声が聞こえてきた。『お前が落としたのは、金の靴か、銀の靴か』って。回りを見渡しても、誰もいない。声が、男なのか女なのかも分からない。俺は答えたよ。『両方だ』ってね。……先生。俺のこと、おかしいって思う?」


 私を覗き込む瞳は、月光が差したように濡れていた。

 丸ごと夜をガラスに閉じ込めたような目の正体に、私はようやく気付いた。

 この目は、私に似ているのだ。

 眠れない夜を背負って鏡の前に立つ、私の目。

 暗闇のずっと奥、宙に浮いた無限遠点。


「ううん。全然。全然、おかしくなんかないよ」

 私はとぎれとぎれに声を絞り出した。

 それは掠れるほど小さかったけれど、私の精一杯の声だった。

 刀麻君は眩しげに目を細め、よかった、と吐息混じりに呟いた。


「……でも、俺の答えは受け入れられなかったみたいだ。突然、氷から無数の手が伸びてきて……気付いた時には、俺は取り込まれてた。腰まで氷漬けで動けなくなった俺の手には、一足だけスケート靴が残されてたよ。冥土の土産みたいにね。だけど、俺にはもう、その靴が何色なのかも分からないんだ。だって、そこは涙さえ凍るほど寒くてさ……」


 そう遠くない田舎のことでも語るように言ってみせるのは、今でもそこに囚われているから。

 一度堕とされたら、その糸を完璧に断ち切るまで、私達は何度でもあそこに引きずり込まれる。


 スケートなんて、この世全ての氷ごと壊してしまいたい。

 これさえ無かったら。

 こんなものに出会わなければ。

 まともに、穏やかに、健康に……あとは、何が欲しい? 

 自分の持っていない物をこれ見よがしにカウントして、幾つ手に入れれば、私は満足する? 

 本当は、これが無ければ、生きてこられなかったくせに。

 これだけが、生を更新する理由だった。


 腰まで氷漬けにされながら、体液と組織片を氷層に積みながら、私たちはなお上を目指す。

 光が欲しいからじゃない。

 欲しいのは、力。

 天地を返す衝撃。

 法則を塗り替える開闢。

 次元を超える飛翔。


 私をこんな風にしてしまった世界ごと全て。

 叩き割って、新しく生まれ変わらせて。

 そのためなら、私はたとえ悪魔でも、その翼を羽ばたかせてみせる。

 手段は、選ばない。


「……じゃあ、取り戻しに行かないとね」

 ターンを回って滑りを止めると、重ねた身体をそっと離した。


 静寂のリンクの中心で、胸いっぱいに氷の匂いを吸い込み、うんと背伸びした。

 一体何周滑っていたのか。

 不思議と呼吸は穏やかで、身体は疲労を上回る愉悦で満たされていた。

 私は刀麻君と向き合った。


「それは元々、あなたの物よ。奪われたのなら、取り返しに行きましょう。……何年越しの利息を付けてね」


 刀麻君は一瞬驚いたように目を見開いた後、

「そう来なくっちゃ、先生」


 そう言って、唇の片端をつり上げ、戦慄するほど不敵な笑みを浮かべた。

 霧が凍結し、黒い翼のように広がるのが見えた。


 私は、是が非でもあの門をくぐらなければならない。

 たとえ、それが地獄へ通じる門であったとしても。

 私は必ずたどり着く。

 刀を携え、再び氷の神殿へ。


 はらり、と右手を覆っていた包帯がほどけ、氷の上に落ちた。

 燃えるような傷跡がそこにあった。


(第三章 終)

第三章、お読みいただきありがとうございました。

次回からは「第四章 Sprinter 荻島雷」編が始まります。

第四章は唯一のスピードスケート編です。

芝浦刀麻の中学生時代が描かれます。

フィギュアスケートとは違った、氷上のスピードバトルをお楽しみいただけたら幸いです。


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