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氷上のシヴァ  作者: 天上杏
第二章 Communicator 星洸一
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第17話 友達にはなれない

 芝浦には毎日一時間、コンパルソリーの練習が課されることとなった。


 釘と糸のコンパスで真円を描き、その上をなぞりながら軌道を身体に刻み込む。

 コンパス無しで規定の図形が描ければその課題はクリア。


 驚いたことに、俺の靴を履いた芝浦は、翌日にはサークルエイトを難なくパスしてしまった。

 ちょっと早すぎやしないか。ろくに練習もしていないだろうに。

 しかし、遠くから引いた目で見ようが、近くでしゃがみ込んで見ようが、正円は二つ並んでいる。


「……合格。昨日と比べて何か意識したことは?」

「特に何も。……や、この靴ほんとぴったりだなって思ったかな」

 脳天気な口ぶりに、言葉を失う。

 無邪気にリアクションを待っている芝浦に、俺は溜息をついた。


「芝浦。確かに君は上手いよ。センスがあるっていうのかな。きっと君は今まで、言葉や理論はすっぽ抜かして、感覚だけで滑ってきただろ」

「そうですね。俺、氷の上では動きたいように動けるし」


 思わず、顔が歪んだ。

 それは、万能感などという感覚でもなければ、比喩などというレトリックでも無いのだろう。

 あまりにも無防備に曝け出された、スケーターのイデア。


「……けど、そのまま行けば、君は死ぬ」


 今度は、俺の言葉に芝浦が顔を歪める番だった。

 ……なんだ、ちゃんと覚えているじゃないか、なんて。

 これは一種の賭けだったんだけど、ちょっと意地が悪すぎたかな。

 だが覚えている以上、最後まで付き合ってもらう。

 俺は芝浦の目を見たまま、片眉を上げる。


「空白を埋めたいって言ってたね。でもそれは何のため? 誰のためだ? 母親のプログラムを母親と同じように滑って、それで本当に君の空白は埋まる?」

 芝浦は固い顔つきのまま、しばらく俯いていた。


「……分かりません。ただ、フィギュアに戻るなら、何となくそうしなきゃって思っただけだから」

「分からなくてもいいよ。けど、何となくはダメだ。本当にその空白を埋めたいのなら、君自身がちゃんと言葉にしていかなきゃ」


 そう。だからコンパルソリーなんだよ、芝浦。

 内側からのスケートの再構築。身体言語の翻訳作業。

 全ては、氷に伝えるために。


 俺は芝浦の背中をそっと押す。


「目を閉じて。感覚を読むんだ。君は今どこに体重を掛けている?」

「親指、かな」

「じゃあ、スリー。……どう? ずっと親指だった?」

「……いえ、ターンの瞬間、少し後ろ、踝の近くに移動しました」

 目を見開き、芝浦は言う。俺は頷く。


「いいね。重心に乗れている証拠だ。でも、それを自覚的にやるのと無自覚でやるのとでは違うんだ。氷を押す意志を持っているのか、それともただ前に進んだだけなのか。一コマ切り取ったくらいじゃ差は出ない。でも、ステップを三つ、四つと繋げていけば、もう乗ってるスピードは全然違う。難しいターンをのろのろ踏むことに何の意味がある? ……ここは氷上だ。陸上とは別の世界なんだよ。滑走という運動の連続性に、スケーターはもっとこだわるべきだ」


 スケーター。

 水に浮く一円玉のような主語。

 自分で発した声が、余所余所しい響きで返ってくる。

 それって、誰のことだ? 

 ……少し、饒舌が過ぎたかもしれない。


「……先輩?」

 怪訝そうに覗き込まれ、俺は我に返る。


「ああ、ごめん。……だから、重心を読んでいくんだ。氷と身体が、引力で繋がる一点。加速する時、進行方向を変える時、足を踏み換える時。重心は絶えず変わっていくだろ。それを、どんな時でも読んでいく。……氷の声を聞くって、そういうことだよ」


 すると、芝浦は少しの間顎を撫でながら宙を見つめた後、ぽつりと言った。


「それって、氷と友達になるってことかな」

「……何それ? キャプテン翼?」

 昔読んだ漫画の一コマを思い浮かべる。

 ボールは友達、怖くないよ。


「スピードやってた友達の口癖なんです。……俺、その言葉がすごく好きで」

 芝浦は照れくさそうに微笑んだ。

 意外にセンチメンタルなところがあるんだな。

 俺は溜息をつく。


「氷は氷。人間じゃない。……だから、友達にはなれないよ」


 ぴきり、と音が聞こえた気がした。

 リンクに一筋、ヒビが入ったのかと思った。


 だが、足元は何とも無く、目の前の芝浦だけが痛々しい表情を浮かべていた。

 思った以上に残酷なことを言ってしまった気がして、俺の胸まで痛み出した。

 慌てて首を振る。


 だって本当のことだ。

 氷は氷。別の生き物。

 だから、いたずらに擬人化なんてすべきじゃない。


 でも、と俺は足を止める。


「……でも、心が通じる瞬間はあると思う。丁寧に線を描けた時、よくエッジに乗れた時。ほんの一瞬だけ、分かり合えたと思う時がある。……本当に、一瞬だけどね。フィギュアスケートは、その一瞬一瞬の積み重ねだ」


 芝浦は俺の言葉を無言で受け止めていた。

 悲壮感は、まだ消えない。だが、その緩められた眉根からは、氷から何かを受け取り、何かを返そうとするパルスが見えた。

 エッジを使わなければ、氷はどこまで行ってもただの氷のはずなのに。


 一体何が見えているんだ、芝浦。

 俺は肩を並べて、視線の軌道を一にしようと試みる。


 エッジで軌道を描く。

 預けた体重で氷は溶け、俺は少しだけ前に進む。

 丁寧に描いた線を、祈りのように重ねていく。

 たとえ揺れても震えても、もう一回転、もうワンステップ。

 いつも、そればかり考えている。


 一滴一滴、空から落ちてくる雫。

 溢れ出すのを待ち構えている自分がいる。


 だって俺は、ずっとそればかり考えていたんだ。

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