第44話 他人の刃
「汐音、ちゃんと行くんだよ。くれぐれも反対の電車に乗らないように」
「大丈夫ですよ、おじさん。今年は私がいますから。着くまでガッツリ監視します」
「ありがとう、可憐ちゃん。本当に頼もしいわ。汐音、ちゃんとしてね」
「しつこいよ、パパもママも。大丈夫だって言ってるじゃん」
「あれ、そういえば洵くんは?」
「一昨日から塾の勉強合宿。嬬恋で一週間ホテルに缶詰めなの」
ふうん、と可憐は小さな声で言った。
「……洵くん、もう一ヶ月もリンクに来てないね。そんなに長く氷から離れて大丈夫なのかな。スケートの滑り方忘れちゃうんじゃないの」
もう忘れているかもしれない、とわたしは新幹線の中で思った。
あれからずっと、わたしは洵と一言も口をきいていない。
生活のリズムが完全にズレてしまったのだ。
朝練でばかみたいに早い時間に起きるわたし(ほんとスケートの練習って朝早すぎてばかみたいだ)。
遅くまで勉強して、朝ギリギリまで寝ている洵。
違う教室で違う授業を受けて給食を食べる。
放課後、バスで練習に行くわたし。
一度家に帰って、歩いて塾に行く洵。
ママはへとへとになっていた。ご飯の時間まで別々だったし、無理もなかった。
――あなた達がバラバラになることがこんなにしんどいとは思わなかった。一緒にリンクに行ってくれてたのがあんなに楽だったなんて。二人まとめて車で送り迎えしてればよかったんだもの。
……うん。わたしもそう思うよ、ママ。
でも、きっと洵はもうそれだとしんどいんだよ。
早く大人になりたい、と思った。
大きくなって、せめて高校生になれば、一人でもっと色んな場所へ行ける。遠い所の試合も、海外だって、シャペロン無しで平気になる。二月に試合でドイツに行った時、食べ物が全然口に合わなくてママを困らせた。……ご飯だけでも作れれば、少しは違うのかな。
誰もいない日曜の午後、ふと台所に立ってみて愕然とした。わたしは、ブロッコリーの切り方も分からなかった。
握っただけの包丁を、震える手で元の場所に仕舞った。
わたしに扱える刃物は、エッジだけだった。
「……ねえ、可憐。料理ってやったことある?」
「あるよ。前にママが盲腸で入院した時、パパと一緒にカレー作った。あと冷やし中華とか? クッキーも作ったことある。あっ、洸一くんだ! やっほー」
佐久平の駅で、洸一くんと合流した。どうやら同じ新幹線に乗ってたっぽい。
顔を合わせるのはスプリングカップ以来だった。
洸一くんは、わたしと可憐の姿をみとめるなりキャリーバッグをごろごろ転がし、挨拶もそこそこにわたしに向き合った。
「霧崎、スケートやめたってほんと?」
見上げながら、こんなに背が高かったっけ、と思う。全体の印象として棒切れみたいに細長い。
ちなみに洸一くんが霧崎と言う時は、洵を指す。わたしを何と呼ぶのかは知らない。面と向かって話すこと自体、初めての気がした。
「やめたかどうかは知らないけど、練習に来てないっちゃ来てない」
一息に言うと、洸一くんはのっぺりした面持ちでしばらくわたしを見つめた。
「すごい他人事だね?」
静かな眼差しに、鉱石のような強度。
……思い出した。わたしこの人苦手だった。
「……他人だもん」
家族だけど。
わたしはふいと横を向く。
洸一くんは少しぽかんとした後、可憐に向かって口を開いた。
「頼むよ、滋賀ちゃん。霧崎のこと説得してくれないかな。榛名のスケート部来てって。男子少なくってさ」
「元々フィギュアは男子少ないでしょ」
「でも少なすぎだって。今だって俺と晴彦だけなんだよ」
「あー、あの人榛名行ったんだ。まだ五級じゃなかった?」
「うん。だから合宿には来ない」
可憐は大きなため息をつく。
「男子はいいよね。五級でも榛名入れちゃうんだから。女子は六級持ちでも落ちるって聞いたよ。男女不平等すぎる」
「それはアファーマティブアクションってやつだよ」
「何? アメイジングスパイダーマン?」
はあ? と洸一くんが吹き出し、可憐はけらけら笑った。
群馬から参加するのはこの三人だけのようだ。
待合室で、野辺山への電車を待つことにした。




